20 親方
階段を登る足が重い。
緊張から開放されて、精神的に疲れているのだろう。宿を出て、深呼吸をする。
日は高く、村道に落ちる影は短い。
腕にチゼがまとわりついていた。
「チゼ、さっきはありがとうな」
応えることもなく、チゼはゆったりと煙を揺らす。
工房に目を向けると、ローレが飛んだり跳ねたりと運動をしていた。
「おい、ローレ。なにやってんだよ?」
「見れば分かるだろ、準備運動だ」
ローレは腕を伸ばして体をほぐしていく。何をやろうと言うのだろう。
準備体操を終えて、気合いを入れるように低くつぶやく。
「うっし、行くか」
まるで決闘を申し込みにいくような気迫で拳を握る。
「なにしに行くんだよ。遊民になるって親方に伝えるだけだろ」
「ばっかお前、相手は親父だぞ。継がないとか言い出したら、ぶっ飛ばされんぞ。だから」
ぱんっ、と右拳を左手で受け止めて、ローレは獰猛に笑う。
「ぶっ飛ばし返して認めさせる」
「そんなやり方、ダメに決まってるだろ」
「……まあ、最低限自衛はする」
気合い充分のローレは、一歩いっぽ踏みしめて、のしのしと工房脇の居住区に乗り込む。敵地に入り込んだ兵士のように首をすくめ、工具や鉄切れだらけの居間に首を巡らせる。背中をひょこひょこと揺らし、板目を隠すコードをまたいで、奥へと侵攻していく。
なにしてんだ、と思いながらついて行く。荒事になったら止めなければならない。
居間の奥、廊下を渡り、散らかった洗濯室と地下高炉への階段を通り過ぎる。扉を開けて、親方の寝室に攻め込んだ。軍銃を突きつけるような気迫で叫ぶ。
「親父! いいか、話がある」
「なんだ、騒がしい」
ローレは冷や水でも浴びせられたように口をつぐんだ。
後を追って部屋を覗き込み、ローレが凍りついた理由をひと目で理解する。
親方は寝台に腰かけている。
部屋はひどく荒んで見えた。それは別に、散らかっているわけではない。
一対の寝台と小机があり、開かれたままのクローゼットがあり、整えられた無人の寝台がある。その壁に、使い込まれた女物のフライトジャケットが掛けられている。
親方は枯れ木のような静けさを持って、手に持っていた写真立てを小机に伏せた。この村には珍しい写真……景色を焼き写す印画は、親方の家族を写したものだ。
ローレは冷えきった黒鉄のような声を発した。
「また、お袋を見てたのか」
「いや」
「嘘つけ!」
だん、と足を踏み込んで、透明な膜に阻まれたように足を止めた。絡め取られた膜の中で、もがくように腕を振り払う。
「いつまでも、こんな部屋のまま残しやがって! 未練たらたらで、見苦しいんだよ! もう、お袋は」
俺はハッとしてローレを止めようと手を伸ばす。ただ俺は遅すぎた。
目の前でローレは透明な膜を、彼を縛る悲しみを引きちぎるように、拳を握りしめて、親方に怒りを叩きつけた。
「お袋は、死んだんだぞ!」
ローレの肩を掴む。彼の上着が手の中でシワを作った。引き剥がされたように、ローレは親方の部屋から離れる。
親方は動かなかった。
その大きな肩は、見えない膜に押し包まれているように、俺の目には見えた。誰も、本当の誰も、そんなことを望んではいないのに。
持ち主との繋がりを失った生活感は、その生々しさで、部屋を荒ませていた。
「違う、と言っただろう」
親方はそっと口を開く。
髭の顔は、ひどく老けている。おそらくそれは真実だ。
俺が覚えている最も昔の親方から、十年以上が経っている。
「お前を見ていたんだ」
ローレは、絶句していた。
「いつの間にか、いっぱしの飛翔機を一人で作れるようになってたんだな。お前も、大きくなったもんだ」
親方は穏やかに微笑んで、ローレの頭に大きく節張った手を乗せる。
放心していたローレは、肩を跳ねさせて息を吹き返した。
「俺、俺! 遊民になるからな!」
「……そうか。もう一人前なんだ、お前の好きにするといい」
あっさりと、あっさり過ぎるほど簡単に、親方はローレの宣言を認めた。いや、それどころか笑って受け入れている。
彼は遠い目をして壁に、工房に目をやった。
「ある意味、ちょうどよかったかもしれないな。俺も、工房を畳むつもりだ」
「――えっ?」
俺は声を漏らしていた。
親方は先ほどと変わらない、穏やかな微笑を湛えている。倒れて以来、麻痺が残り不自由な右腕に目を向けた。
「一緒に住まないかって、弟夫婦に誘われてんだ。何せ向こうさん、飛翔機があるくせに整備もできやしねぇ。金打ちができねぇんじゃ工房はやってけねえが、整備だけなら片手で出来る。いい機会だったんだ」
「そんな、親方……!」
言いかけて、言葉が詰まった。
胸のうちには泡沫のように言葉が溢れては消えていく。
まだ教えてもらっていないことは、たくさんある。親方に確認を取らなければ、設計は見落としだらけだ。合わせ金は、大きく歪ませないよう設計通り打ち出す外装すら、まだ満足に作れない。
一つとして、一言として言えなかった。
彼の決断に挟む言葉なんて、何一つ持っていないのだ。
特に、じきに去る俺が、水を差す権利なんてどこにもない。
親方は目尻を膨らませて、俺を見る。
「俺としちゃあ、リアンが継いでくれてもよかったんだがな。その様子じゃ、お前も行っちまうんだろ?」
「……はい」
肯定する声はかすれていた。補うようにうなずく。
親方は俺とリアンの肩を抱いて、熊のような顔にシワを刻んで笑った。
「お前らはもう、弟子卒業だ。俺から教えてやれることは何もない。あとは、お互い教え合って高め合って、一人前になりな」
「はい……っ!」
俺とリアンの声は揃った。
そうして俺は、得難い師匠を失った。
ローレは綿草が風に煽られるように、呆然としたまま彼の飛翔機に歩み寄っていく。寄りかかるように手をつき、かん、と軽い金属音が響く。
彼はショックを隠さなかった。
親方は、彼の父は、彼の思うほど強大な存在ではなかった。
打ち破るどころか、立ち塞がりさえしない。
ローレは疲れ果てたように、うつむいている。
無理もない、と俺は思う。
彼の母は、空で死んだ。
息を引き取ったのは島だが、彼女は空で病の発作に襲われたのだ。流行り病だった。
体調不良で飛翔機に乗るなど、そもそも自殺行為だ。しかしローレの母は断行した。
薬をもらいに行ったのだ。投薬で治る簡単な病だが、感染症だけに、父さんの備蓄する薬では足りなかった。
彼女は村で随一の腕前を持っていた。いや、街ですら一番かもしれない。とてもとても優秀な飛翔機乗りだった。
熱に冒されて半失神状態であろうと、島への着陸を成功させるほどに。
だから、彼女の駆る飛翔機に魅せられたローレは、空の憧れが人一倍強い。
だから、土の上で機械いじりするばかりの機巧技師を嫌っている。
だから、ローレは遊民を渇望していた。
きっと、そういうことなのだ。




