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定例の攻城戦の終了タイマーがゼロを刻み、達也の所属するギルドによる防衛成功を告げる全サーバー告知が画面上部を流れた。
達也はキーボードからゆっくりと指を離し、古いオフィスチェアのハイバックに深く背中を預けた。
息もつかせぬミクロ操作を要求された一時間に及ぶ激闘が、ようやく幕を閉じたのだ。ギルドは城の防衛に成功したものの、その勝利は決して楽なものではなかった。味方パーティの杜撰極まりないポジショニングミスのせいで、何度もリスポーン待機を余儀なくされた。達也の肉体と精神は、文字通り限界まで搾り取られていた。六十分間、彼は自身の最高峰のプレイングを維持するだけでなく、ギルドチャットで愚鈍な他部隊の指揮官たちを怒鳴りつけ、連中の無能さをカバーし続けなければならなかったのだ。
画面右下のタスクトレイに視線を落とす。白くぼんやりと光るデジタル時計の数字――『02:04』。
とっくに就寝リミットは過ぎていたが、仮想の戦場で過剰に分泌されたアドレナリンが血管を駆け巡り、肉体のシャットダウンを拒絶していた。脳のクロックを徐々に落とし、覚醒状態を鎮めるためのクールダウン――無価値な情報を漫然と消費するプロセスが必要だった。
長年の習慣に従い、達也はブラウザを立ち上げていつもの匿名掲示板へとアクセスした。そこは有益な知見と吐き気のするような汚物が同居する、デジタル社会の混沌とした掃き溜めだった。普段の彼がここを訪れるのは、ゲーム業界の動向を拾い読みしたり、大衆心理の指標であるネットミームを眺めたり、あるいは骨太な攻略ガイドを漁るためだ。
だが、この深夜帯にしては掲示板の様子が異様だった。トップページには無数の新着レスが溢れ返り、最上部の固定スレッド欄には、爆発的な勢いで伸びているスレッドが鎮座していた。達也は無意識にそれをクリックした。
スレッドの主旨は、『ナラモト』なる人物――あるいは組織――が発表したとある声明文の一周年を祝うものだった。スレタイは、安っぽいカルト宗教のプロパガンダそのものの手垢のついたフレーズを叫んでいた。
『【祝・1周年】バイトコイン論文発表から1年、金融革命はガチで来るのか?』
達也は鼻で笑い、タブの[×]ボタンへマウスカーソルを向けた。
ゲーム業界やIT分野において、この手の「革命」など掃いて捨てるほど見てきた。自称・電脳世界の救世主たちが世界を変えると息巻き、実態は情弱を食い物にするポンジ・スキーム(ネズミ講)にすぎないパターンだ。物理的な裏付けなど何一つない仮想通貨についての妄想文を読むことなど、非合理の極みだった。
しかし、クリックするコンマ一秒前、彼の視線がレス欄の異様な構造を捉えた。
この手の煽りスレッドに付き物の、不毛な罵り合いが存在しなかったのだ。中傷合戦もなければ、詐欺呼ばわりの糾弾も、脳死の賛美もない。
そこに広がっていたのは、驚くほど無機質で乾いた、極めて高度な技術的議論だった。名無しのアノニマスたちが厳密な数値を突き合わせ、暗号化アルゴリズムを検証し、ハードウェア構成を比較し、チューニングのパラメータについて論争を交わしている。
これほど扇情的なタイトルのスレッドにおいて、このレベルの議論が成立していること自体が完全な異常値だった。達也のセンサーが即座に反応した。複雑な機構を好む知的好奇心が、疲労を上回る。寝る前に、議論の論理構造だけを五分ほど分析してみよう――そう考えた。
その「五分」こそが、致命的な判断ミスだった。
五分は瞬く間に一時間へと溶け、二時間へと伸び、気づけば恐ろしいほど精緻で論理的な新しいデジタル宇宙への完全な没入へと変わっていた。瞼に鉛のようにのしかかっていた眠気は綺麗さっぱり霧散し、青森達也の脳髄は最高精度の分析モードへとギアを切り替えていた。
彼を「引き返せない領域」へと引きずり込んだのは、バイトコイン(Bytecoin)ネットワークの動作原理と、いわゆる『マイニング(採掘)』のメカニズムを段階的に解説した長文の投稿だった。感情的な修辞を一切排したそのテキストは、暗号学的ハッシュの真髄、分散型ネットワークの究極の目的、そして新規ブロック発見に対する数学的に裏付けられたインセンティブ設計を、機械的な几帳面さで解き明かしていた。
普通の高校生が見れば、それは暗号同然の専門用語の羅列、呪文にしか見えなかっただろう。だが、計算機アーキテクチャと初等暗号理論の素地を備えた達也にとって、それは開かれた書物だった。どこまでも明快で、透き通るような論理の結晶。
とりわけ達也の理性を震撼させたのは、システムの心臓部に位置する概念――『プルーフ・オブ・ワーク(Proof of Work / 作業の証明)』だった。
中央管理者がデータベースの数値を都合よく書き換えて、無から通貨を生み出すような真似はアルゴリズムによって断固拒絶される。腐敗や外部からの圧力に屈する単一障害点は存在しない。切望されるバイトコインを獲得するためには、ネットワーク上の各ノードが膨大な暗号パズルを解くために、物理的な演算パワーを文字通り消費し尽くさねばならないのだ。
達也の脳内で、その機構は即座に直感的なアナロジーへと変換された。
――これは、ハードコアなMMORPGにおける「素材狩り(ファーム)」の構造そのものではないか。
狩り場へ赴き、自らの時間と装備の耐久度、ポーションなどの消耗品を投じてモンスターを倒し続ける。そうすることで初めて、システム内に組み込まれた確率の計算式に基づき、ゴールドや希少ドロップという報酬が吐き出される。
バイトコインのネットワークにおいては、モンスターの代わりに暗号ハッシュが存在し、仮想の剣の代わりに純粋なプロセッサの演算能力が振るわれる。数学的に完全無欠のシステムだ。人間的な思惑や情実を完全に排除し、効率と投下されたリソースに対してのみ厳格に報酬を支払う。社会的地位も、ペテンも、コネクションも、ここでは何の意味も成さない。
だが、達也の胸の鼓動を決定的に加速させたのは、スレッドの奥深くで繰り広げられていたレスバトルだった。
そこにあったのは、純粋な性能競争。
名無しのアノニマスたちが、『MH/s(メガハッシュ毎秒)』という単位で示される自らの採掘速度を熱っぽく晒し合っていたのだ。その数値は、ネットワーク上で有効なブロックを発見して報酬をもぎ取るために、各自のハードウェアが一秒間にどれだけの暗号ハッシュを総当たり(ブルートフォース)で検証できているかを示すスループットだった。
達也は書き込まれた数値を精査し、脳内で即席のランキングを組み上げた。
コメント欄に溢れる標準的なスコアは、おおむね『0.5〜1.5 MH/s』のレンジに収まっていた。ミドルレンジの普及帯CPUを積んだ、ごく一般的な家庭用PCの限界値だ。
あるユーザーは、極限までオーバークロックしたNMD社製のデュアルコアCPUで叩き出したという『2 MH/s』の数値を誇らしげに誇示していた。そのすぐ下では、排熱が追いつかずサーマルスロットリングを起こした旧式ノートPCの『0.3 MH/s』という無様な数値に、持ち主が怨嗟の声を上げている。
発光する液晶モニターの数字を見つめながら、達也の頭脳は自動的に変数を計算し始めていた。
デスクの下、重厚なアイボリーのケースの中に潜む彼の心臓部――『Survie Q 66』。
最新アーキテクチャに基づく、四基の独立した物理演算コアを備えた規格外の怪物。
ハッシュ計算における並列処理のスケーラビリティを考慮すれば、大雑把な試算であっても、彼のマシンが吐き出すスコアは並の有象無象を遥かに置き去りにするはずだ。あの自慢げなOCデュアルコアの数値すら、歯牙にもかけないレベルで。
(――だが、具体的にはどれほど出る?)
「ハッシュレート競争」という概念が、彼の内なる情動を奇妙に掻き立てていた。それは一般的な意味でのゲームではない。グラフィックも、クエストも、ボスモンスターも存在しない。だがそこには、余計な装飾をすべて削ぎ落としたゲーム性の極致があった。画面に浮かぶ剥き出しの数値と、他者に対する客観的かつ絶対的な優位性。
乾き切った瞳の痛みを無視し、悲鳴を上げる肉体のシグナルをねじ伏せながら、達也はマイニングに関するレスを貪るようにスクロールしていった。すでに今から眠るには手遅れだった。登校前のわずか二時間を仮眠に充てたところで、ノンレム睡眠の底から無理やり引きずり出され、激しい偏頭痛と終日の集中力低下に苛まれるだけだ。ならば徹夜で押し通す方が合理的だった。
もっとも、今の彼にとって睡魔などどうでもよかった。
己のハッシュレートを計測してこのスレッドへ叩き込み、手持ちのハードウェアの絶対的なパワーを誇示して、あの思い上がった連中の鼻っ柱をへし折ってやりたい――その衝動は、ほとんど抗いがたい熱を帯びていた。
だが、客観的なエビデンスもなしに大言壮語を吐くのは、学校の不良や素人のやることだ。優越を証明するためには、まず環境を構築し、演算を開始させ、検証可能な実数値を計測しなければならない。
達也はマウスを素早く走らせ、ブラウザの新規タブを開いた。正確無比なタイピングで検索窓にクエリを叩き込む。
必要なのは、検証済みのセットアップ手順書だ。スレッド内の断片的な情報を繋ぎ合わせるような非効率な真似は論外だった。
検索結果に並ぶ数十のリンク。技術文書の翻訳が絶望的に遅れる国内のWebサイトを早々に見切り、達也は海外の開発者フォーラムへの直リンクを踏んだ。
そこには、黎明期のエンジニアによって記された完璧なマニュアルが存在していた。極めてプラグマティックで無駄のないテキスト。金融革命に関するポエムも、情緒的な前置きも一切ない。記載されているのはコンソールコマンド、設定ファイルのパラメータ、動作要件、そしてローカルウォレット生成のコマンドラインのみ。
『電器丸』のバックヤードで日常的に海外のハードウェア仕様書を読み解いていた達也にとって、英文など何の障壁にもならなかった。彼は精密機械のように淡々と手順を消化していった。
瞬く間に情報収集を完了し、不要なタブを閉じると、リポジトリから公式クライアントをダウンロードする。インストール作業は数秒で終了した。
過剰な装飾と無駄なアニメーションに塗れたGUIに慣れ親しんだ一般ユーザーが見れば、そのソフトウェアは原始的に見えたに違いない。黒い画面にプロンプトが点滅するだけの、CUIのウィンドウ。
だが達也にとって、その禁欲的な構造こそが一流のソフトウェアの証だった。GUIの描画などという無意味な処理にCPUサイクルを一瞬たりとも割かず、すべての演算資源を暗号計算のみに集中させる設計。このクライアントを書いた開発者は、最適化の本質を完璧に理解していた。
ローカルノードのブロックチェーン同期は、十分もかからずに完了した。ネットワークが立ち上がって間もなく、総トランザクション数が極めて少なかったため、分散データベース全体の容量すら数十メガバイト程度にすぎなかったのだ。マニュアルの記述通り、標準クライアントにはサードパーティ製スクリプトを必要としないCPUマイナーが組み込まれていた。採掘コマンドを叩くだけでいい。
達也はキーボードに指を添え、所定の引数を流し込むと、躊躇なく[Enter]キーを叩き込んだ。
黒いコマンドプロンプトの上を、システムログが疾走し始める。
メモリの初期化と四基の物理コアへのスレッド割り当てが行われる初期段階を経て、ログの流速は一気に加速した。白文字のストリームが目にも止まらぬ勢いで流れていく――プロセッサがフルスロットルで唸りを上げ始めた証拠だ。
達也は上体をわずかに前傾させ、ステータスラインの末尾に表示された数値へ視線を凝らした。
――『3 MH/s』。
三メガハッシュ毎秒。
彼は表示のバグを疑い、数値を二度見した。だが、タスクマネージャーの負荷モニターは紛れもない現実を示していた――全コアが100%に張り付いている。
一秒間に三百万回の暗号ハッシュ計算と照合。
あの掲示板で最高記録だと粋がっていた限界OCのデュアルコアですら、たかだか2 MH/sだった。そこに集ういかなる自慢屋の記録をも、軽々と蹂躙する圧倒的なスコアだった。
廃棄寸前のジャンクと新品のCPUから組み上げた彼の『蹂躙機』は、正真正銘の演算モンスターだった。『Survie Q 66』の選定は二百パーセント正しかったのだ。エンタープライズ領域の過酷な処理を想定して設計されたアーキテクチャは、バイトコインのアルゴリズムを容易に噛み砕き、民生用の普及品に対する絶対的な隔絶を見せつけていた。
ハッシュレートの横には、興味深いメトリクスが次々と更新されていた。全ノードの総ハッシュレートに応じて自動調整されるネットワーク難易度(Difficulty)。次のブロック発見予測時間。投入した計算リソースに対して期待される数学的報酬。
むろん、現時点においてそれらの数字は何の現実的価値も持たない抽象的なデータにすぎない。円にもドルにも、あるいはMMOのゲーム内通貨にすら換金できない。どこの取引所にも上場していない、ギークたちの実験的トークン。金銭的価値はゼロだ。
だが、達也にとって本質はそこではなかった。
自らのマシンが極限の演算を行い、その結果として中央に依存しない自律的なデジタル資産を生み出している。純粋な電力と演算力だけから生成される、混じり気のないデジタルの結晶。
自然な衝動に駆られ、達也は[PrintScreen]キーを叩いて『3 MH/s』を記録したコンソールのスクリーンショットをキャプチャした。掲示板へ舞い戻り、この画像を投下してスレッドの反応を眺めたい。あの自惚れた連中に、本物のスペックというものを見せつけてやりたいという欲求が湧き上がる。
ウィンドウを切り替えてブラウザを開こうと[Alt]+[Tab]を押した瞬間――画面が凍りついた。
マイニング中のPCは、ほぼフリーズに近い状態に陥っていた。四基のコアすべてが百パーセントの負荷でハッシュ計算に奪われ、OSのGUIを描画するためのリソースすら残されていなかったのだ。マウスポインタは数秒のラグを伴ってカクカクと飛び、ウィンドウの切り替え一つに気の遠くなるような待機時間を強いられる。『Survie Q 66』は、ユーザーの操作要求を平然と無視し、最優先タスクに全演算能力を注ぎ込んでいた。
(……まあいい、投下は明日に回すか)
達也はマウスから手を引いた。刹那の承認欲求のために、カクつくUIと格闘して貴重な睡眠時間を削るのは非合理的だ。それに、一晩稼働させ続ければ長時間動作の安定性も同時に証明できる。書き込みの説得力はむしろ増すはずだ。
採掘プロセスを稼働させたまま、達也はPCを落とさずにベッドへと潜り込んだ。
静まり返った部屋の中に、ファンの重く深い唸りが響き渡る。巨大なタワー型クーラーが、全力で熱を逃がし続けていた。全開稼働する四基のコアは百ワット超の熱エネルギーを吐き出していたが、冷却機構は危険域への到達を完璧に封じ込めていた。
並の人間であれば、この機械騒音は不快な不眠の原因になっただろう。だが達也にとって、その音はまったく異なる意味を持っていた。己の創り上げた機構が完璧に機能し、コードの命ずるままに働き続けている証左。それは「純粋な効率性」が奏でる旋律だった。
他人が雨音に安らぎを覚えて眠りに落ちるのと同じように、達也はその規則正しいファンの唸りを子守唄にして、安らかに意識を手放した。
スマートフォンの鋭いアラームで朝が始まった。わずか数時間の睡眠による鈍い頭痛を感じながらも、達也はベッドを抜け出すと真っ先にデスクへ向かった。
スリープしていたディスプレイを叩き起こし、コンソールの統計を覗き込む。エラー落ちは皆無。睡眠中もシステムは寸分の狂いもなく指定のハッシュレートを維持し続けていた。ローカルウォレットの残高が更新されている――一晩で数百枚ものバイトコインが生成されていた。
日本円に換算すれば、依然としてゼロ円だ。自動販売機の缶コーヒー一本すら買えやしない。それでも、自分が眠っている間に、マシンが自律的に「本物の暗号通貨」を生成したという事実は、彼に静かな昂揚感をもたらした。
手短に顔を洗い、台所で濃いコーヒーを淹れてデスクに戻ると、タスクマネージャーからマイナーのプロセスの優先度を下げ、GUIのレスポンスを確保した上でブラウザを立ち上げた。
あのスレッドを開き、「動作の安定性に驚いている初心者」を装った短文とともに、昨夜のキャプチャ画像をアップロードする。
掲示板の住人たちの反応は、電光石火だった。
『3 MH/s』の画像が表示された瞬間、スレッドのレス速度が一気に加速した。露骨な嫉妬と攻撃的な疑念が入り混じった、極めて予測通り、ゆえに最高に心地よい反応の嵐。
『ブルジョワ乙』
初手のレスが、他人の成果を即座に「親の金」へ帰結させて切り捨てる。
『こいつどんな化物積んでんだよ』
『コラ乙。じゃなきゃ鯖機でも回してんのか?』
苛立ちを隠せないレスが次々と連なる。
熱いコーヒーを啜りながらレスを眺め、達也は胸の奥で静かな愉悦に浸っていた。この反応こそが、何よりの報酬だった。安物の民生用CPUで誇らしげに競い合っていた掲示板の住人たちの前に、突如として絶対的な暴力が立ちはだかったのだ。「金持ち」とレッテルを貼って価値を貶めようとする彼らは、このシステムがゴミ捨て場の一歩手前から拾い集められたジャンクであり、ハンダごて一本で蘇生された代物だとは夢にも思っていない。
名もなきアノニマスたちの嫉妬によって、彼の『蹂躙機』は正当な評価を手に入れたのだ。ネットの片隅に群がる有象無象の承認など本来はどうでもいいはずだったが、スクリーンショットに刻まれた数値だけは、彼の正しさを証明する冷厳な真実だった。
時計を見れば、登校のタイムリミットが迫っていた。制服に着替え、あの攻撃的な類人猿と無気力な教師たちが巣食う学校へ赴かねばならない。
だが、今日という日の感覚はいつもと違っていた。
達也はPCのシャットダウンボタンを押さなかった。タスクマネージャーでマイナープロセスの優先度を再び『リアルタイム』へと引き戻す。GUIが再び鈍重な沈黙へと沈んでいくのを見届けた。
(――このまま稼働させ続けよう)
学校にいる間、この莫大な演算能力を遊ばせておくなど愚の骨頂だ。
退屈極まりない古典の授業に座らされている間も、自らのマシンが限界値で計算を処理し続けているという確信が、彼に奇妙な万能感を与えていた。
制服のネクタイを締め、ディスプレイの電源だけを落とす。薄暗い部屋にケースファンの唸りを残したまま、達也はスクールバッグを手に部屋を出た。
***
達也は『蹂躙機』の稼働スケジュールを厳格に策定し、アイドリングによる損失を徹底的に排除した。
一日は二十四時間。九時間は、彼が直接PCを操作する時間――MMORPGのプレイ、課題、プログラミング。この間はマイナーを停止させる必要があった。『Survie Q 66』の四基のコアが100%占有されている状態では、PCが実質的な文鎮と化すからだ。そして残りの十五時間――登校中、アルバイト中、そして就寝時――は、全リソースを採掘へと割り振る。
3 MH/sの安定したスループットと当時の難易度において、その出力は極めて予測しやすいものだった。一日の想定採掘量は、およそ650バイトコイン。
更新され続けるウォレットの残高を見ても、達也の心に欲や高揚といった感情は一切湧かなかった。法定通貨換算で言えば、1バイトコインは1セント未満――それすら市場価格というよりは机上の仮定値にすぎない。実質的に、マシンは毎日のように「無」を生成しているに等しかった。純粋な技術的関心による実験。
プラグマティックな計算において、この実験に伴う唯一の現実的コストは電気代だった。達也はハードウェアの消費電力を正確に把握していた。全負荷時のCPUが約100ワット。マザーボード、メモリ、HDD、冷却ファンが合わせて30〜40ワット。システム全体の総消費電力は、一時間あたりおよそ140ワットだった。
当然、熟練の自作erであれば最適化を検討するところだろう。BIOSからコア電圧を引き下げる「低電圧化」を施せば、消費電力と発熱を抑えてワットパフォーマンスを向上させることができる。
だが今回のケースにおいて、その最適化に経済的合理性は皆無だった。電圧を下げた状態でのストレステストに費やす膨大な検証時間は、コンセント側で浮く微々たる電気代に見合わない。
一日あたり約二キロワット時(kWh)。それは、廊下の白熱電球を一晩中つけっぱなしにした程度の消費電力にすぎない。毎月の光熱費を決済している父親が、明細書のわずかな誤差に気づくはずもなかった。青森賢治の意識は遥かに大きな単位の資本に向いており、家庭の電気メーターの端数など彼の視界には入らない。
その計算こそが、達也が採掘を継続する最大の根拠だった。この実験は、実質的に「ノーコスト」なのだ。
仮に暗号ネットワークが瓦解し、開発者が雲隠れし、ウォレットの数字が無価値のまま終わったとしても、失うのはわずかな電力のみ。逆にプロジェクトが生き残り、実際の取引所でわずかでも流動性を獲得すれば、莫大な利潤が転がり込む。期待値の計算は完全に彼の味方をしていた。
毎朝、忌まわしい制服を身に纏い、退屈の牢獄へ向かう前の一連の儀式。モニターを起こし、コンソール画面の統計を淡々と確認する。
ウォレットの数値は着実に増え続けていた。最初は技術的な裏付けを確認する知的好奇心から、やがて作業の小気味よさへ、そして数週間も経つ頃には、感情の介在しない乾いたルーティンへと昇華された。達也自身、採掘したコインに特別な思い入れなど抱いていなかった。バックグラウンドで動かしておくのに何の労力も要らないから、ただプロセスを走らせていただけだ。
ある日の夕暮れ、『電器丸』のバックヤードでジャンクグラボの破損した給電コネクタを付け替えながら、達也はふと店主に水を向けた。
「五十嵐さん、『バイトコイン』というプロジェクトをご存知ですか?」
ハンダごてを握ったまま、何気ない調子で訊ねる。
入荷したサーマルグリスの仕分けをしていた老店主は、あからさまに不快そうな顔で眉をひそめた。
「ああ……またぞろ湧いてきた暗号カルトの類だろ」
吐き捨てるような五十嵐の言葉。
「先行きはないとお考えですか?」
「無から金を生み出そうなんざ、最初から破綻してんだよ、青森」
老人は段ボール箱を棚の上にドンと置いた。
「PCパーツってのはな、現実の問題を解決するためにあるんだ。物理シミュレーション、3D設計、通信の制御。どこの銀行も認めねえようなデジタルのオモチャのコインを手に入れるために、CPUを全開でぶん回すなんてのは本末転倒だ。あんな胡散臭いもんに首を突っ込む暇があるなら、もっと地に足のついた技術を磨け」
「わかりました、五十嵐さん」
達也は静かに頷いた。
反論する気など毛頭なかった。五十嵐は職人として卓越しており、無線技士としても一流だが、その思考フレームは依然として「物質世界」の檻に囚われている。
達也は老人を説得しようとはしなかった。ただ毎晩、自室のマイナーを起動し続けた。
***
長期にわたって安定していた日々のバイトコイン採掘量は、ある時期を境に急激な凋落を始めた。
指数のカーブを描くような採掘効率の悪化。一年前には一日あたり六百五十枚をコンスタントに吐き出していた『Survie Q 66』だったが、半年後には四百枚に減少し、やがて二百枚を割り込んだ。そして最近では、同じ十五時間の稼働で得られるコインは百枚を易々と下回るようになっていた。
ハードウェアの故障ではない。『蹂躙機』は依然として完璧に駆動し、ファンは規定の回転数を維持し、グリスの塗り直しもまだ必要としていなかった。
原因はもっと根源的――採掘メカニズムそのものの構造変化にあった。
海外の専門フォーラムを巡回し、達也は即座にその背景を突き止めた。ネットワーク難易度の非線形的な急騰。バイトコインのプロトコルは、参加ノード全体の総演算力が増大するにつれ、暗号パズルの難易度を自動的に引き上げるように設計されていた。
そして直近の数ヶ月間において、ネットワーク全体の総ハッシュレートは、かつてない異常な跳躍を見せていたのだ。
一握りの才気あるプログラマーたちが、演算処理をCPUからグラフィックボード(GPU)へと移植することに成功したのだ。
膨大な数のピクセルやポリゴンを並列処理するために設計されたGPUのアーキテクチャは、暗号ハッシュの単純な総当たり計算という単調なタスクに対して、恐るべき親和性を発揮した。
CPUというものは、たとえ『Survie Q 66』のような怪物であっても、本質的には「万能の天才科学者」にすぎない。複雑多岐にわたる分岐命令を予測し、OS全体を統制し、高度な計算をこなすが、持っている腕は四本――すなわち四基のコアだけだ。対するGPUは、何百人もの単純労働者からなる大軍団だった。高度な論理処理はこなせないが、単純な計算パターンの絨毯爆撃を行わせるなら、これ以上の適任はない。
一枚のハイエンドGPUが、数十個の最上位CPUに匹敵するハッシュレートを軽々と叩き出す。大容量GPUを搭載したマイナーたちが雪崩を打って参入したことで、ネットワーク全体の総ハッシュレートは成層圏を突き抜ける勢いで暴騰した。
ネットワークはこの演算力の爆発に即応し、採掘難易度を成層圏の彼方へと跳ね上げた。
結果として――CPUマイニングの黄金時代は、一夜にして幕を閉じた。
プロジェクトの草創期を支え、自室のPCでコツコツと採掘していた初期の熱狂的なギークたちは、容赦なく時代の波に押し流され、デッキから放り出されたのだ。
達也はモニターの前に座り、コンソールに並ぶ数値を冷徹に見つめていた。
算定は極めて単純明快だった。天文学的に跳ね上がった難易度のもとで、彼のマシンが一日あたりに掘り出せるコインは、すでに三十枚から五十枚程度。GPUマイニングファームの爆発的な増殖曲線を踏まえれば、一ヶ月後には丸一日回し続けても五枚か十枚にまで激減するのは火を見るより明らかだった。
消費電力は以前と変わらない。経済的な観点だけで言えば、依然として電球一個分の電気代であり、父親の口座から引き落とされる光熱費に痛痒を与えるレベルではない。
だが、心理的・戦術的な文脈において、状況は根本から破綻していた。
そこに、かつてのような優越感はもはや存在しなかった。F1マシンが疾走するサーキットに、ママチャリで乗り込むようなものだ。何らの美学もなく、合理的な満足感も得られない、ただの空転。
道具がその実効性を失った以上、直ちに運用を放棄すべきだった。
達也は黒いコンソールウィンドウの右上にある[×]ボタンへカーソルを合わせ、躊躇なくクリックした。
ウィンドウが消滅する。
やがてPCケース内部のタワー型クーラーの回転数が落ち、低く唸っていた排気音は、静謐なアイドリング時の囁きへと静まっていった。
マイニングの完全停止。極めてプラグマティックな決断だった。
そこに未練や失望は微塵もなかった。当初の想定を遥かに超えて、実験は十分に長く続いたのだ。暗号化された彼のローカルウォレットには、一年間にわたって蓄積された莫大な枚数のコインが眠っている。相変わらず一銭の価値も持たないデータにすぎないが、自らの手で組み上げたハードウェアで分散型ネットワークを支え、暗号通貨を生成し続けたという事実は、彼にとって十二分に痛快な記憶として刻まれていた。
意識を完全にMMORPGの仮想世界へと切り替える。そこには、彼の絶対的な集中と統制を求めるタスクがいくらでも転がっていた。
(――今夜はギルドで新ボスの攻略レイドだ。ポーションとスクロールを補充しておかないとな……)
首都の街並みにアバターをログインさせながら、青森達也はいつもの冷徹な思考を取り戻していた。




