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戦況の分析に、過度な知能指数を要する局面ではなかった。
視界の端、ミニマップのレーダー上に描かれた構図は、極めて単純明快だったからだ。
真紅の光点――『赤ネーム(PKer)』の大群が、黄色の光点を混じえながら、達也たちのいる広間へ向けて猛烈な速度で直進してきていた。その陣形が意味するものは一つしかない。フロア全域の無差別虐殺を敢行し、立ち塞がる者を片っ端から屠ってきたのだ。そして何より滑稽だったのは、後衛の支援職たちが赤ネームの襲撃者たちとパーティを組んだまま突撃してきたことだ。仕様上、赤ネームをパーティに抱えた部隊員は、自動的に他者からの攻撃を無条件で受ける『黄ネーム(交戦可能状態)』へと引きずり込まれる。自らの絶対的な優位と無敵性を過信した者に特有の、致命的な戦術的怠慢。
『DaikiCool』の唇が、冷徹な計算のもとにわずかに歪んだ。
(――ようやく来たか。少しは楽しめそうだな)
達也は視線の微細な動きでVRギアの内蔵録画機能をアクティブにした。ショーの幕が上がろうとしている。
(個人アーカイブ用の撮れ高としては最高だ)
ショートカットの配列を最終確認する間にも、大空洞の空気が劇的に変質していった。ダンジョンの天井を震わせ、規則正しく重厚な軍靴の地響きが近づいてくる。
即席パーティの初心者たちは、迫り来る規格外の重圧を肌で察知し、逃げ場を失って完全に錯乱していた。
ただ一人、DaikiCoolだけが、異様なまでの静寂を保ったまま広間の中央に立ち尽くしていた。錆び付いた安物の鉄クレイモアを肩に担ぎ、表情のテクスチャを極限まで「無関心」に固定して。
「あ、あいつら……『ソーラー・ヴァンガード』だ! どうすんだよこれ!?」
タワーシールドのナイトが、裏返った悲鳴を上げて後退る。
次の瞬間、広間の巨大なアーチ状の入口が、眩い閃光を放つ黄金の重装甲の群れによって埋め尽くされた。
先頭を切って広間へ踏み込んできたのは、ゼフィリオンその人だった。サーバー頂点のギルドマスターは、仰々しい手振りで背後の親衛隊の前進を制止させ、悠然と室内の配置を見渡した。そしてその双眸が、中央に佇む単独の影を瞬時に射抜く。
DaikiCool。たった一度の「まぐれ当たり」によって、ギルドの看板に消えない泥を塗った張本人。
「おいおい、ずいぶんと威勢のいいルーキーがいると聞いて来てみれば」
ゼフィリオンが嘲弄の笑みを浮かべて前に進み出た。課金ボイスチェンジャーによって重低音を効かせたその美声が、広間の隅々まで傲然と響き渡る。
「一度ラッキーパンチが当たったからって、調子に乗っていい気になってるんじゃないだろうな?」
達也はあえて数秒の沈黙を挟み、相手が己の美声に酔い痴れる時間を与えてやった。そして、淡々と、透き通るような平坦な声で切り返した。
「僕は筋を通しただけですよ。そちらのサブ垢が、うちのパーティの魔法使いを理不尽にPKした。だから返り討ちにした。……何か間違ってますか?」
至極真っ当な事実の提示。だが、ゼフィリオンは鼻を鳴らし、狂人を哀れむような仕草で首を横に振った。
「筋を通した、だと? お前が?」サーバーの絶対王は、憐憫を装った嗤いを漏らす。「レベル30そこそこの雑魚が、トップギルドのサブキャラに説教垂れる身分だとでも思ってんのか? 自分が今からどうなるか、その足りない頭で理解できてるか?」
DaikiCoolは、微かに身体を竦めてみせた。わずかに足を踏み替え、初心者にありがちな動揺を完璧にトレースする。だが、その足は一歩たりとも退かず、肩のクレイモアも降ろさない。
「僕に理解できるのは……そちらが大勢を引き連れて、たかだかレベル32のプレイヤー一人に復讐しに来たってことだけですね」
DaikiCoolは、ほんの少しの失望を込めたように息を吐いた。
「サーバー一位のギルドにしては……ずいぶんとスケールの小さい話だ」
冷徹な事実の切っ先が、ゼフィリオンの肥大化したエゴを深々と貫いた。男の黄金の籠手がギリリと軋む。有象無象の煽り耐性など、最初から持ち合わせていないのだ。これ以上、この分不相応なゴミ虫と言葉を交わすこと自体が、己の誇りに対する冒涜だった。
「殺せ」
ゼフィリオンの短く獰猛な咆哮が轟いた。
「一人残らず、消し炭にしろ」
十八名のエリート部隊が一斉に駆動した。
静寂が暴力の濁流へと反転するこの刹那、達也はあらかじめセットしていた装備変更のトリガーを押さなかった。
ここで『D.A.R.N』の真の姿を現してしまえば、この極上のシチュエーションが台無しになってしまう。
もっと洗練された愉悦――ゲームバランスの限界テスト。初期装備のボロ布と、初期職である戦士の最低ランクのスキルだけで、レベル999の素手ステータスをどこまで運用できるか。この圧倒的なハンデキャップマッチを、達也は心の底から欲していた。
最初の数秒は、文字通りの暴虐だった。
広間全体を埋め尽くす高ランク魔法と範囲スキルの嵐。光線と爆風のベクトルが縦横無尽に交錯する。味方のナイトが盾を構えて広範囲タウントを放とうとしたが、そのモーションすら完遂できずに蒸発した。上位アーチャーの放った三連炸裂矢が、背後の別パーティを塵へと変える。
味方のプリーストも、直後に着弾した広域火炎嵐に呑まれて光の粒子となった。達也の即席パーティは、交戦開始からわずか十秒で完全に消滅した。広間に居合わせた他の初心者たちも、何が起きたのかを理解できぬまま、余波の爆風だけで全滅していった。
もうもうと立ち込める白煙と粉塵が、石畳の上へと沈殿していく。
クレーターと化した広間の中央に――ただ一人、傷一つなく立ち尽くす影があった。
DaikiCool。
被弾ダメージ――完全なるゼロ。
達也がやったことといえば、飛来する光線や矢の軌道をコンマ数ミリ単位で見切り、自らのヒットボックスを紙一重でずらし続けただけだった。
「……ほう? しぶといな、雑魚が」
ゼフィリオンが眉をピクリと動かし、炎を纏う愛剣の切っ先をDaikiCoolへと突きつけた。
「またしても『豪運』か? それともバグ技でも仕込んでるのか?」
達也はゆっくりと顔を上げた。その瞳から、怯えた初心者の光は完全に消え去っていた。
ゼフィリオンは自らの全能感にもかかわらず、その少年の無機質な双眸に、言い知れぬ悪寒を覚えた。
「アキラ」ゼフィリオンが背後へ短く命じる。「この無礼者に、身の程を教えてやれ」
指名されたのは、第二部隊のメインタンクを務めるレベル147のパラディン・アキラだった。白金の重装甲を輝かせ、防御オーラを展開しながら悠然と歩み出る。大所帯の精鋭が揃って格下を囲むなど外聞が悪い。一対一の公開処刑こそが、失墜した威信を取り戻すための儀式だった。
アキラは武器すら抜かず、スパイク付きの巨大なシールドを構えた。盾の一撃で叩き潰す気だ。
合図なき決闘が幕を開けた。
DaikiCoolが先に地を蹴った。錆びた鉄のクレイモアが、鋭い風切り音を立てて空間を裂く。アキラは嘲笑混じりに盾を持ち上げた。安物の鉄刃が砕け散る無様な金属音を期待して。
激突。
鼓膜を破らんばかりの、暴力的な重金属の衝突音が広間に木霊した。物理エンジンが、想定外の質量衝突を処理しきれずに甲高いノイズを吐き出す。
レベル999の怪物が、ボロ刀越しに解き放った純粋な運動エネルギー。
それが、レベル147の重装パラディンの白金装甲に直撃した。
アキラは即死こそ免れた。膨大なHPプールと最高級の防具補正が、あの脆弱なアサシンのような一撃死を辛うじて防いだのだ。だが、衝撃波のベクトルまでは相殺できなかった。
巨躯が凄まじい勢いで三メートル後方へ吹き飛ばされる。その白金の盾には、クモの巣状の深い亀裂が刻まれていた。
「なっ……!?」
(――なるほど。重装甲のハイレベル帯相手だと、初期武器の数値では一撃確殺とはいかないか)
達也は脳内で即座にデータを補正した。現状のDaikiCoolの攻撃力は、換算するなら「全身を課金装備で固めたレベル150の狂戦士」と同等。
その数値の異常性に、殴られたアキラ自身が最も戦慄していた。
パラディンは蒼白になりながら、上位スキル『正義の光』の詠唱に入った。剣が白熱の閃光を放つ。だがDaikiCoolは間合いを離さなかった。相手の右肩の死角へと滑り込むように踏み込み、放ったのは――『柄打ち(ヒルトストライク)』。
初期職の戦士がレベル5で習得する、誰もが見向きもしない基本スキル。
錆びた鉄の柄が、白金の装甲の継ぎ目にめり込む。極小のスタン判定が、アキラの詠唱モーションを無慈悲に強制中断させ、大技を長大なリキャストタイムの底へと沈めた。
そこからは、純粋な解体作業だった。
達也が繰り出すのは、キャラクター生成時に誰もが与えられる最下級の初期技の連打。『強撃』『ショルダータックル』『足払い』。発泡スチロールの剣で超高層ビルを解体するかのような、不条理極まりない光景。
火花を散らしながら、クレイモアが白金の装甲を抉っていく。アキラは防戦一方に追い込まれ、回復ポーションを煽ろうとするが、達也はアイテム使用モーションの発生フレームを完璧に見切り、ただの前蹴りでそれをことごとく叩き落とした。トップギルドの誇る要塞タンクが、逃げ場のない永久ハメ殺しのループに閉じ込められる。
トドメは、基本突進技『チャージ』。
クレイモアの切っ先が、パラディンの兜のバイザーの隙間へと正確無比に突き刺さった。アキラのHPが完全に蒸発し、巨躯が前のめりに崩れ落ちる。
同時に、負荷に耐えかねたDaikiCoolのクレイモアが、甲高い破断音とともに光の粒子となって砕け散った。
達也は眉一つ動かさず、インベントリから全く同じ予備の錆びたクレイモアを無造作に取り出し、再び肩へと担いだ。
『ソーラー・ヴァンガード』の陣営は、完全な思考停止に陥っていた。
全身をボロ布で包んだ初心者を前に、誰も一歩も動けない。彼らが信奉してきたゲームの常識が、根底から瓦解していた。
「……は? おい、アキラが……」
ゼフィリオンの声がかすれ、あの傲然たる威厳は跡形もなく消え失せていた。
「アキラが……ワンパンじゃなくて、ハメ殺された……!? あの初期装備のクソガキに!?」
後衛のメンバーが悲鳴を上げ、後ずさる。
達也は肩の上で新しいクレイモアを軽く回してみせた。戦慄するエリートたちの群れを冷徹に見据え、静かに告げる。
「どうやら今日も……クリティカルの引きがいいみたいだな」
奇襲による心理的ショックの賞味期限は極めて短い。人間という生物は、どれほど不条理な現実に直面しようとも、やがて本能的な防衛反応を作動させて理性を無理やり繋ぎ止める。
達也に、余韻に浸る気など毛頭なかった。敵が呆然と倒れ伏す仲間を見つめているその硬直の隙に、すでに次なる標的はロックオンされていた。
十メートル右手に位置する、豪華な法衣を纏った上位魔導士。最高峰の魔法火力を誇るが、物理耐久は紙装甲。
DaikiCoolの足が爆発的な加速を生んだ。間合いは一秒でゼロになる。
振り下ろされたクレイモアが、初撃で相手の自動展開シールドを粉砕。魔導士が悲鳴を上げて詠唱を開始しようとするが、続く二撃目のシールドバッシュがモーションを粉砕する。三撃、四撃――木こりが大木を切り倒すような無骨な連撃が、男のHPバーを消滅させた。
二人目の脱落。
ここでようやく、『ソーラー・ヴァンガード』の残余に闘争本能が蘇った。恐怖が怒りへと反転する。
「囲めッ! 全員で叩き潰せ!!」
広間が、極彩色の高位魔法とスキルエフェクトの暴風雨で埋め尽くされた。達也はその光の渦の中心に飛び込んだ。
もし本隊の装備を纏っていれば、レベル150前後の攻撃など直立不動で完封できただろう。だが現在の彼は、防御力ゼロの初期防具を身に纏っている。レベル999の素手ステータスによる驚異的なダメージカットがあるとはいえ、被弾すれば確実にHPは削れる。
それは、極限の死線を見切るアクロバティックな舞踏だった。
重装バーサーカーの両手斧が床を爆砕した瞬間、達也はその空振りの軌道を滑るように擦り抜け、敵の延髄へクレイモアを突き立てる。三人目。
二人のアサシンが毒刃を構えて左右から挟み撃ちを仕掛けてくる。達也は大剣での受けを放棄し、鋭く身を沈めて刃を頭上にやり過ごすと、回転足払いで二人のバランスを崩した。無防備に晒されたヒットボックスへ、二振りの横薙ぎ。四人目、五人目が光となって散る。
直後、肩をかすめた炸裂矢と、頭上から降り注いだ『氷結星』の余波がDaikiCoolを捉えた。
HPバーが目に見えて削れ始める。90%、85%――。
六人目のランサーを、同じ箇所への執拗な打撃で装甲ごと叩き割って沈めた頃、達也のHPは50%まで低下していた。
並のプレイヤーなら即座に撤退するかポーションを乱打する局面。だが達也は、このボロ刀での泥臭い格闘に、かつてない知的な昂揚を覚えていた。初期スキルだけで、サーバー最高峰の軍団を解体していく快楽。
矢継ぎ早に鬱陶しいアーチャーとメイジ、そして背後で蘇生を試みようとしていたヒーラーを順繰りに叩き潰していく。死体が転がるたび、『ソーラー・ヴァンガード』の規律は完全なパニックへと塗り替えられていった。
温存されていたゼフィリオン率いる本隊の九名が、信じ難いものを見る目でその惨状を凝視していた。完璧な戦術理論が、ただ一人の「不条理な初心者」の泥臭い基本動作によって、紙屑のように破り捨てられていく。
「何なんだよコイツはぁぁぁッ!!」
ゼフィリオンの喉から、理性を失った金切り声が上がった。
「見てんじゃねえ、殺せ! そのクレイモアの野郎を八つ裂きにしろォッ!!」
生き残った主力の八名が陣形を組み直し、DaikiCoolを完全な包囲網へと捉えた。ゼフィリオン自身は自らの敗北のリスクを恐れ、輪の外側で剣を構えて立ち竦んでいる。
だが、八人がかりの集中攻撃をもってしても、彼らのステータス差を埋めることはできなかった。
達也の集中力は極限に達していた。VRギアの神経接続をフルに稼働させ、弱い攻撃はあえて肉体で受け止め、即死級のスキルだけをフレーム単位で潰していく。
一閃。味方を回復しようとしたヒーラーの首が飛ぶ。
致命の一突きでパラディンを沈め、身を捻って火球を回避し、弓を引き絞っていたアーチャーの胸を貫く。
振り下ろされた巨大なウォーハンマーをクレイモアの平で受け止める。凄まじい金属音が響き、跳ね返ったバーサーカーの喉笛を返す刃で薙ぎ払う。
DaikiCoolのHPバーは40%を切っていた。視界の端で危険を告げる黄色の警告アラートが点滅する。これ以上の泥仕合は、不慮のラグによる事故死(全滅)のリスクを孕んでいた。
最後の一角、大剣を構えたバーサーカーがスキル『破城槌』で突進してきた。達也は冷徹にクレイモアを立て、ガード体勢を取る。
激突。
甲高い破断音が響いた。安物クレイモアの耐久値が、限界を迎えて完全にゼロへと激突したのだ。
刀身がガラス細工のように無数のポリゴンとなって砕け散り、残された無価値な柄が自動的にインベントリへと回収される。
武器の完全な喪失。
(――頃合いだな)
前座のサーカスは、これで終わりだ。
周囲の目には、それがバグ技にしか見えなかったはずだ。
武器を失ったDaikiCoolが、床を蹴った。通常の跳躍力なら二、三メートルが関の山のはずの空間を、少年は重力を無視して十五メートル以上も宙を舞い、残された敵部隊の射程外となる広間の中央へと、完璧な着地を決めてみせたのだ。
ゼフィリオンを含む、生き残った五名が息を呑んで立ち竦む。
彼らの目の前には、ボロボロの革鎧を着たまま、自分たちの主力部隊を素手同然で壊滅させた怪物が立っていた。
達也は静かに、残された者たちを見渡した。初心者の仮面の下で、冷徹で愉悦に満ちた笑みを浮かべながら。
ゼフィリオンが一歩、震える足を踏み出した。
「……テメエ、何者だ……!?」
サーバー最強の男の声から、傲岸不遜な響きは完全に消え去っていた。
「……運営か……!?」
男の脳が導き出せる唯一の合理的解。GM権限による不正なステータス介入。
達也はゆっくりと首を横に振った。
「いいや」
抑揚のない、静かな声が響く。
「運営はお前たちのようなデジタルのゴミ虫に興味はない。……だが、俺は違う」
その言葉とともに、青森達也は装備変更のプリセットキーを押し込んだ。
演出など存在しない。サーバーコードが、物体のプロパティをリアルタイムで上書きしただけだ。
みすぼらしいボロ布の革鎧が、瞬時に掻き消えた。
その肉体を包み込んだのは、周囲の光を呑み尽くす完全なる漆黒のフルプレートアーマー。床を覆うほどの重厚な闇の外套。そして、素顔を冷徹に遮断する、鏡面のようなオブシディアンの鉄仮面。
右手に、空間の裂け目から引き抜かれるようにして、一本の大鎌が収まる。
『Jack The Reaper』。
禍々しい紫電の魔力光を放ちながら、伝説の神話兵器が低く唸りを上げた。
同時に、頭上のID『DaikiCool』の文字列が激しくノイズを走らせ、解読不能なグリッチフォントの記号――あの処刑人のコードネームへと変色した。
ヘルメットを開放していた『ソーラー・ヴァンガード』の生き残りたちの表情は、まさに傑作だった。
VRギアを通じて脳に直接叩き込まれた実存的恐怖が、彼らのアバターの筋肉を完全に硬直させていた。
「し……死神……ッ!?」
誰かの掠れた悲鳴が、静まり返った広間に木霊する。
「死神だ……! クソが、なんで死神がこんなところにいるんだよォッ!!」
絶望。
前衛の二人が反射的にインベントリへ手を伸ばし、帰還スクロールを掴もうとした。だが、彼ら自身がネットの噂で熟知していたはずだ――死神の射程に入った瞬間、逃走の猶予など一秒たりとも残されていないことを。
『Jack The Reaper』を握りしめ、D.A.R.Nが一歩を踏み出した。重装甲とは思えぬ完全なる無音。紫の刃が、蒼白になった魔導士とアーチャーの顔面を仄暗く照らし出す。
「――さて、続きを始めようか」
兜のボイスフィルターを通過した達也の声は、機械的な冷徹さを帯びて、彼らの退路を完全に断ち切った。
大鎌が薙ぎ払われた。
エージェントの上位スキル――『クレセントスラッシュ(三日月斬り)』。
空間を切り裂く紫の斬撃波が、先ほどDaikiCoolの剣を砕いたバーサーカーの胴体を通過する。男の巨躯は紫の炎に包まれ、悲鳴すら上げずに崩れ落ちた。
戦闘ログに刻まれる冷酷な宣告。
【スキル『喪失』が適用されました。キャラクターレベルが1低下しました】
阿鼻叫喚の殺戮が再開された。飛来する矢も雷撃も、レベル999の知覚の前では止まっているに等しい。死神の外套が翻るたび、アーチャーとメイジが例外なく首を刈り取られ、不可逆なるデレベルの代償を支払って床へと沈んでいく。
残されたHPは37%。だが、彼らに届く刃はもはや存在しなかった。
後方に立ち竦んでいた黄ネームのヒーラーの眼前へ、一瞬で肉薄する。慈悲なき一撃。蘇生を試みる時間すら与えられず、ヒーラーは光となって霧散した。
そして――広間に残されたのは、ただ一人。
レベル201の絶対王者、『Zephyrion』。
黄金の鎧を纏ったチャンピオンは、漆黒の死神を前にして、ガタガタと震える手で剣を構えていた。数千時間の不眠不休の努力、数百万円の課金、築き上げてきた絶対的な地位――そのすべてが今、この瞬間に消滅しかけているという、投資家特有の麻痺するような絶望。
D.A.R.Nは数秒間、無言で男を見つめていた。己の無力さを、骨の髄まで味わわせるための猶予。
「ランキングアリーナでの君の動きを見たことがあるが」
兜の奥から、冷ややかな声が響いた。
「レベル201のコボルトと大差ないな。……君の強さは、単なる過剰装備の数値にすぎない」
侮辱ですらなく、客観的事実の提示。実際、イグニス・ダンジョンの200層付近に生息する上位コボルトの単調な行動ルーチンは、この男のPvPスタイルと酷似していた。
「そのレベルを上げるために費やした時間に敬意を表して、一つだけ慈悲をやろう。……今すぐ『インスタントテレポート』を割り、この階層の存在を忘れろ」
達也は大鎌の切っ先を下げ、明確な退路を提示してみせた。
被弾による詠唱中断を無視して街へ即時離脱できる、超高額な課金アイテム。ギルド倉庫を私物化しているゼフィリオンのショートカットには、確実にそれが装填されているはずだ。今すぐそれを使えば、レベルも資産も守ることができる。
だが――その代償は、男のプライドにとって死よりも重かった。
全サーバーの面前で、仲間を見捨てて尻尾を巻いて逃げ出したトップギルドのマスター。その烙印は、『ソーラー・ヴァンガード』の支配を完全に終わらせる。
「……ふざけるな」
ゼフィリオンが硬直を解き、血走った目を剥き出しにした。
「俺は……このサーバーの頂点だぞッ! テメエのような正体不明のゴミに、舐めた口を利かれてたまるかァァッ!!」
炎のオーラを纏い、男が突撃してきた。
D.A.R.Nはただ、小さく首を横に振った。
「――救いようのない愚か者だ」
ゼフィリオンの放った、九連続の必殺連撃。黄金の軌跡が空間に複雑な幾何学模様を描き出す。見た目だけは美しい、だが無駄の多い太刀筋。
D.A.R.Nはその場から一歩も動かなかった。大鎌の柄をわずかに傾け、飛来する刃のベクトルをミリ単位で弾き落としていく。金属の衝突音が連続して火花を散らすが、九撃のすべてが完璧な受け流しに阻まれ、被ダメージは完全なるゼロ。
通常の攻撃が通じないと悟ったゼフィリオンは、狂乱のままに最強の切り札を切った。
レベル200到達によって解禁される、チャンピオンの究極奥義。
――『サンダークラッシュ』。
大気が超高圧の雷撃によって凝縮され、紫電の雷柱が天井を突き破る。長大な詠唱を要するが、当たればあらゆる生命体を消滅させるという、男の最後の拠り所。
達也には、それを阻止する手段が幾重にも見えていた。スタンを合わせることも、影の中へ潜ることも、ただ首を刎ねることもできた。だが彼は、あえて直立不動のまま、その攻撃を迎え撃つ道を選んだ。
(サーバー最強の一撃の威力――試させてもらおう)
閃光。
轟音とともに、巨大な落雷が黒甲冑の直上へと撃ち下ろされた。
視界が真っ白に焼き切れ、乱数生成器が牙を剥く――痛恨のクリティカルヒット判定。
エネルギーの奔流が死神を飲み込み、HPバーが一気に減少していく。
白煙が晴れた時――。
死神は、全く同じ位置に、何事もなかったかのように立ち尽くしていた。
HP残量――25%。
サーバー一位の男が放った、全霊のクリティカル究極奥義は、怪物の装甲をわずかに焦がしただけにすぎなかった。
達也は兜の奥で、わずかに片眉を持ち上げた。
「……終わったか?」
氷の宣告が、静寂を切り裂く。
実験の時間は終わりだ。達也は、自らも同じ「レベル200解禁スキル」を選択した。このサーバーにおいて、彼以外の誰も習得していない、エージェント専用の殲滅奥義。
システムログに、カタカナの銘が躍る。
――『ツイン・バイタカッター』。
死神の手首が、視認不能な速度で二度、交差した。
空間を切り裂く二筋の紫電が、炎熱の十字架を描いてゼフィリオンの身体をすり抜ける。
防御の構えすら許されなかった。
一撃目で男のHPは消滅し、二撃目がそのポリゴンの残骸を完全な消滅へと追いやった。
サーバー最強の男が、紫の炎を吹き上げながら石畳へと沈んでいく。
ピロリン、と無機質なシステム音が鳴り響き、戦闘ログが更新された。
【スキル『喪失』が適用されました。キャラクターレベルが1低下しました】
達也は燃え盛る死体へと歩み寄った。
フォトモードを起動し、大鎌を掲げる死神の威容、足元に横たわるゼフィリオンの亡骸、そしてその頭上に浮かぶギルドエンブレムを、完璧な構図でフレームに収める。
撮影完了。
五分後、ブログ『死神の収穫』に、一枚の鮮烈な画像がアップロードされた。
添えられたテキストは、極めて簡潔だった。
『レベル200へようこそ』
その投稿は、瞬く間にネットのタイムラインを爆発させた。傲慢な王の失脚を喜ぶ無数のプレイヤーたちによって、数十万の拡散が記録される。あの日を境に、かつて畏怖された覇権ギルド『ソーラー・ヴァンガード』には、コミュニティから消えない不名誉な蔑称が刻まれることとなった――『不名誉軍団』と。
D.A.R.Nは帰還スクロールを破砕し、青い光とともに安全地帯へと転移した。そして即座にログアウトを選択し、頭部からVRギアを外した。
現実世界への帰還。耳の奥に微かな耳鳴りが残り、達也は軽く肩を回した。客観的に見ても、極めて生産的な一日だった。
書斎を出て、ダイニングルームへと向かう。
窓の外には、郊外の静謐な夜が広がっていた。柔らかな間接照明に照らされた広い食卓では、完璧な身なりのメイドが、無言で優雅に夕食のセッティングを進めていた。
その手際の良さを眺めながら、達也は明日からの予定を思考のパレットに展開した。
続く三日間は、小林とのビジネスに集中する『実務の日』だ。アーケード施設の四半期利益の監査、投資ポートフォリオの再編、そして事業拡大のスキームの策定。高い精度を要求される、現実のルーティン。
そして、その義務を果たし終えたなら――彼は再び、『Stellar Reckoning Online』の電脳の深淵へと潜行するのだ。
理不尽な略奪者を狩り、肥大化したエゴを打ち砕き、歪んだ秩序を正すために。
――何より、それが最高に愉快だからだ。




