プロローグ
数多の煙突から噴き出る排煙によって、夕暮れ時のルンベリーの上空は暗く閉ざされている。
ここはその中でも一際暗い一角、リドエンドの工業地区。悪臭と疫病の蔓延る貧民窟と隣接するこの場所には、大小の蒸気機関設備を擁する多様な工場が建ち並んでいる。
その只中を、場違いなほど身綺麗な娘が一人、編み上げブーツの踵を鳴らして歩いていた。
すっきりとしたシルエットの膝下丈のドレスは濃紅色で、裾には洒落たフリルが施されている。三つ編みの茶髪を揺らし、ガス灯に照らされた道を行く姿には、自信と気品が満ち溢れていた。
この道には他に人影は見当たらなかった。一つ向こうの通りで、何台かの蒸気自動車の音がしているきりだ。
しかし突然、娘の背後で荒々しい足音がした。
娘はくるりと振り返った。
いつの間にやって来たのか、そこには痩せこけた男の影があった。擦り切れた衣服を纏っていて、右手には錆びたナイフを握っている。
「おい……」
男が低く唸るように声を発する。
「金を置いてけ。殺すぞ」
対する娘は、一瞬怯えた表情をしたが、何も言わない。
油断なく男を睨み付けながら、自身の右腕の袖を捲り、革製の長手袋を外した。
露わになったのは、年頃の乙女の白い細腕──ではない。赤金色に輝く、精巧な機械の義手である。
男が驚いたように僅かに身を引く。その顔面目掛けて手袋を投げつけた娘は、向けられた刃を物ともせず、男に向かって義手を振りかぶった。
ガス灯に煌めいた金属の拳が、鈍い音を立てて男の鳩尾にしたたかにめり込む。
大の男が不自然な程に軽々と吹き飛んで、向かいの壁に激突し、石畳の路上へとずり落ちた。
娘は追撃を加えることはせず、大声を上げてその場からの逃走を図った。
「通り魔が出たわ! 誰か助けて頂戴!」
丁度その時、一台の蒸気自動車が白煙を上げながら道を曲がってきた。
幌付きの四角い座席、大振りの四輪を備えた車体、騒々しく鳴る排気音。
煌々と光るヘッドランプが、まだ立ち上がれずにいる男の全身を照らし出す。
男は慌てて立ち上がり、横道に逃げ込んでいった。しかしその足取りはよろよろと覚束ない。彼が頭をぶつけた場所には微かに血の跡があった。
「助かったわ」
娘は胸を撫で下ろし、道端に落ちた手袋を拾い上げてパタパタと汚れを払った。
その真横に、蒸気自動車がピタリと停車する。
「アミーリアお嬢様」
運転席から身を乗り出した人物が淡々と呼びかける。
すらりとした体躯に短く切られた金髪、古びた帽子とカーキ色の作業着といった出で立ちで、一見すると男に見えるが、声は若い娘のそれである。
「キャロル。迎えに来てくれてありがとう」
アミーリアと呼ばれた娘は、キャロルが差し伸べてくれた手を取り、すとんと助手席に乗り込んだ。
「ご無事ですか」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
「お一人で出歩かないよう申し上げましたのに」
「だってキャロルは仕事が残ってたでしょう。私だって商談は外せないし」
「お怪我は無いんですね」
「無いわ。でも後で義手のメンテナンスをお願い」
「壊れていましたか」
「いいえ。ちょっと殴っちゃったのよ、通り魔を。これ、ギミックの威力に対して強度が釣り合ってないわね……」
アミーリアはしげしげと己の義手を観察している。キャロルは一旦口を閉じ、道に残されたナイフに目をやり、落ち着かない仕草でハンドルを握り直した。
「……この件は警察と旦那様にご報告致します」
「警察は良いけど、お父様は困るわね……。殴ったことは黙ってて頂戴。社長命令よ」
「承服できません。発車します。お気をつけて」
アミーリアの抗議は、ブゥンという大きな駆動音に掻き消された。自動車が全速力で工業地区を疾走し始める。
ルンベリーの街は、もうじき深い霧に閉ざされようとしていた。




