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第五十話「夏の終わり、あるいは三年目の予感について」


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 第五十話「夏の終わり、あるいは三年目の予感について」

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 八月の、最後の週。


 蝉の声が、朝、少しだけ減っていた。


 減った分、風の音が、少し聞こえるようになっていた。


 それが、夏の終わりの合図だった。


 桜塚高校の夏休みは、八月の三十一日で終わる。九月一日が、始業式。始業式の翌日から、授業が再開する。そして、授業が再開する日の放課後から、部活も、通常運行に戻る。


 ぼくは、机に向かって、夏休みの宿題をやっていた。


 数学のワークが、十ページ残っていた。


 十ページは、残量として、絶妙にきつい。五ページなら「まあやれる」、二十ページなら「あきらめる」、十ページは「気合を入れないとやれないが、気合を入れればやれる」という、いやな量だった。


 妹が部屋の扉を開けた。


 「おにいちゃん」

 「なに」

 「夏、終わるね」

 「終わるね」

 「宿題、終わった?」

 「あと十ページ」

 「十ページ、絶妙にきついやつじゃん」

 「妹、人生経験豊富」

 「小学校の夏休みも、宿題十ページ問題あるから」


 妹が、「がんばれ」と言って、扉を閉めた。


 妹の「がんばれ」は、軽くて、効いた。重い「がんばれ」より、軽い「がんばれ」のほうが、ぼくには効くタイプだった。




         *




 携帯が光った。


 田村からのLINEだった。


 「音無、夏、終わるぞ」

 「終わるな」

 「宿題どう」

 「十ページ残」

 「オレ、三十ページ残」

 「終わる?」

 「終わらせる」

 「根拠は」

 「気合」

 「気合だけで三十ページ終わらない」

 「終わる。オレの気合、なめんな」


 田村の気合は、たぶん、ぼくの気合の三倍くらいある。三倍の気合なら、三倍の宿題も、理屈では、終わるのかもしれなかった。


 「音無、コンクール終わったんだろ」と田村が来た。

 「終わった」

 「結果」

 「ダメ金」

 「ダメ金って、なに」

 「金賞だけど、府大会に行けないやつ」

 「なんで金賞なのに行けない?」

 「金賞の中で、さらに上位だけが、府大会に行ける」

 「ややこしいな、吹奏楽」

 「ややこしい」

 「まあ、おつかれ」

 「ありがとう」

 「次、秋の大会ある?」

 「ある。アンサンブルコンテスト」

 「じゃ、また、がんばれ」


 田村の「がんばれ」は、妹の「がんばれ」と、同じくらい軽かった。軽い「がんばれ」を二回もらえる日というのは、けっこう、悪くない日だった。




         *




 九月一日。


 始業式。


 桜塚高校の体育館は、夏の終わりでも、まだ暑かった。


 校長先生の話は、長かった。


 「皆さんの夏は、実りあるものでしたか」


 実りあるもの、という言葉が、ぼくの頭の中で、少し反響した。


 実りあるか、と問われれば、ぼくの夏は、実り以上に、たくさんの出来事の積み重ねだった。合宿、二日目の夜、翌朝、最終日の廊下、七瀬の号泣、コンクール、ダメ金、ファミレス——出来事は、数えれば、十本の指では足りなかった。


 実り、と呼ぶには、収穫というより、畑が耕された、という感じに近かった。


 耕された畑は、これから、何かを植えるための、準備の土になる。


 ——三年目の、土。


 ぼくは、体育館の床を見ながら、そう思った。




         *




 教室に戻った。


 田村が、机に顔を伏せて寝ていた。


 「田村」

 「……」

 「宿題、終わった?」

 「……終わらせた」

 「やれば、できる男」

 「気合で三十ページ、終わらせた」

 「睡眠時間」

 「三時間」

 「寿命縮むよ」

 「縮む」


 田村が、顔を伏せたまま、片手を上げた。


 片手を上げる、は田村の「やあ」の挨拶だった。元気のない田村の片手は、いつもより、五センチ、低かった。


 始業式の日の田村は、いつも、世界で一番、気力がない。それを毎年、繰り返している。




         *




 放課後。


 音楽室。


 夏休み前と、空気が、少しだけ違っていた。


 違っていたのは、温度ではなかった。空気の、密度のようなものだった。


 密度が、ほんの少し、薄かった。


 七瀬が、来ていた。


 音楽室の、いつもの席に、座っていた。


 七瀬は、ぼくを見て、小さく会釈した。


 ぼくも、会釈を返した。


 会釈以上の言葉は、まだ、交わせなかった。


 それでも、会釈は、会釈だった。会釈ができる、ということは、目を合わせられる、ということだった。夏休み明けの最初の一歩としては、それで十分だった。




         *




 のんが、ぼくの横を通った。


 「音無くん、今日、発声練習からね」

 「うん」

 「七瀬ちゃん、今日も来てる」

 「うん」

 「距離は、自然に」

 「わかった」


 のんは、九月の最初の部活で、何も変わらない顔をしていた。何も変わらない顔をする、ということは、一番、場の空気を普段に戻す方法だった。


 のんは、そういうことを、狙わず、自然にやる。


 狙わずにやれる人間は、狙ってやる人間より、ずっと、強い。




         *




 あやのも来た。


 あやのは、七瀬の斜め後ろに、自然に席を取った。


 「七瀬、夏休み、本読んだ?」

 「……ちょっと」

 「何、読んだ」

 「『朝、目覚めると、』って小説」

 「タイトル、途中で切れてる」

 「切れてるのが、タイトル」

 「新しい」


 あやのと七瀬が、そんな会話をしていた。


 会話は、短かった。


 しかし、会話は、成立していた。


 あやのが言っていた「少しずつ、戻ってきてる」は、本当だった。本当だったというより、あやのが、少しずつ、戻してきていた。あやのは、静かに、確実に、七瀬を、音楽室の空気に、戻してきていた。


 ぼくは、楽器を組みながら、それを、横目で見ていた。




         *




 合奏があった。


 九月の合奏は、コンクール明けの、最初の合奏だった。


 曲は、秋のアンサンブルコンテストに向けた、新しい楽譜だった。


 新しい楽譜は、新しい空気を、連れてきた。


 コンクールの課題曲のことは、もう、誰も、話題にしなかった。


 話題にしないことが、次へ進む、ということだった。


 七瀬のトランペットの音は、八月の本番の日より、柔らかかった。柔らかい、というのは、技術の話ではなくて、心の話だった。心の、肩の力が、抜けていた。


 肩の力の抜けた七瀬の音は、ぼくの、一年前、入部したての頃の七瀬の音に、少しだけ、似ていた。


 似ているけれど、同じではなかった。


 あやのの言った「新しい七瀬」が、少しずつ、音になっていた。




         *




 合奏が終わった後。


 奈央が、ぼくの隣に来た。


 「音無」

 「うん」

 「今日、帰り、一緒に帰ろ」

 「うん」


 それだけだった。


 それだけが、奈央の、今日の、「重要なお知らせ」だった。




         *




 部活が終わって、楽器をしまっていた時。


 奈央が、七瀬のところに、歩いていった。


 音楽室の隅で、奈央が、七瀬に、何かを言った。


 言葉は、聞こえなかった。


 しかし、奈央の、背中で、だいたいのことは、わかった。


 奈央は、頭を、少しだけ下げていた。


 七瀬は、奈央を、じっと、見ていた。


 じっと、見た後、七瀬は、何か、短く、返した。


 短い返事は、長い返事より、場合によっては、意味が重い。


 奈央は、もう一度、頭を下げた。


 二回目の、頭を下げた後、七瀬が、小さく、首を振った。


 首を振った、という動作は、「いらない」という意味にも、「大丈夫」という意味にも、「もういい」という意味にも、取れた。


 しかし、奈央の背中は、「通じた」という姿勢に変わっていた。


 奈央が戻ってきた。


 「音無」

 「うん」

 「謝った」

 「うん」

 「七瀬ちゃん、『今は、まだ、ごめんを受け取れない』って言った」

 「うん」

 「でも、『いつか、受け取る日、来ると思う』って、続けた」

 「うん」

 「それで、いいと思った」

 「いい、と思う」


 奈央は、少しだけ、目に水分を浮かべていた。


 浮かべただけで、流しはしなかった。


 流さない涙は、流す涙より、重いこともある。今日の奈央の目の水分は、重かった。




         *




 岡町駅。


 ホームに、二人で立っていた。


 九月の夕方の空気は、八月のそれと、ほんの少し、違った。


 「ほんの少し」が、夏の終わりだった。


 「音無」

 「うん」

 「今日、謝れて、よかった」

 「うん」

 「コンクールの前は、謝ったら、七瀬ちゃんを追い詰める気がしてた」

 「うん」

 「コンクールの後も、三日前までは、まだ、謝るタイミングじゃない気がしてた」

 「うん」

 「でも、今日、朝、学校に来て、七瀬ちゃんを見た瞬間、あ、今日だって思った」

 「……直感」

 「直感。でも、こういう時の直感は、たぶん、当たる」

 「当たったね」

 「当たった」


 奈央が、少しだけ、笑った。


 笑いは、軽くて、軽いのに、この夏で一番、きれいな笑いだった。




         *




 電車が来た。


 扉が開いた。


 二人で乗った。


 席は、座らず、扉の脇に、立った。


 「音無」

 「うん」

 「あのさ」

 「うん」

 「三年目、どうなると思う?」

 「……三年目」


 三年目。


 その言葉は、始業式の体育館で、ぼくが考えていた「三年目の土」と、綺麗に重なった。


 「わからない」とぼくは答えた。

 「わからないよね」

 「でも、たぶん、ちゃんとある」

 「ちゃんとある?」

 「三年目も、ちゃんと、一日ずつ、来る」

 「うん」

 「で、一日ずつ、やればいい」

 「……音無、偉そうなこと言った」

 「偉そう?」

 「いや、ちょっと、らしい」

 「らしい、って、何らしい」

 「音無らしい」

 「それ、褒めてる?」

 「褒めてる」


 奈央が、ぼくの肩に、一瞬だけ、頭を寄せた。


 一瞬だけ、の重みを、ぼくは、覚えておくことにした。


 一瞬の重みというのは、長い重みより、長く、残ることがある。




         *




 石橋駅で、奈央が降りた。


 「じゃあ、また明日」

 「また明日」


 扉が閉まる直前、奈央が、もう一度、小さく、手を振った。


 ぼくも、小さく、振り返した。


 電車が動き出した。


 窓の外、奈央が、ホームで、遠ざかっていった。


 遠ざかる奈央の背中は、四月に見た時より、ほんの少しだけ、大人びて見えた。


 大人びた、というのは、姿勢の話ではなくて、奈央の持っている、時間の話だった。奈央は、この夏で、ぼくより少し多く、時間を生きた。時間を生きた分だけ、背中が、深くなっていた。




         *




 池田駅で降りた。


 池田は、いつもの池田だった。


 池田は、季節が変わっても、ほとんど変わらない。駅前のパン屋、肉屋、クリーニング店、本屋、どれも、夏休みの前と、同じ場所に、同じ顔で、あった。


 変わらない池田を歩きながら、ぼくは、変わった夏を、思い出していた。


 合宿。


 二日目の夜。


 翌朝。


 最終日の廊下。


 七瀬の号泣。


 音楽室の冷戦。


 非常階段の踊り場。


 コンクール。


 ソロの、一瞬の裏返り。


 ダメ金。


 石橋駅のファンタグレープ。


 ガスト。


 トリプル・ミックス。


 「久しぶりだね」。


 そして、今日、九月一日の、会釈。


 出来事が、一つひとつ、池田の道に、落ちていった。


 落ちた出来事は、道端の、見えない場所に、積もっていった。


 積もった場所は、次の季節の、土になる。




         *




 家の近くまで来た時、空を見上げた。


 夕方の空は、オレンジ色と、青色の、混ざった色だった。


 夏の夕方の空と、少し違った。


 夏の夕方の空は、もっと、重いオレンジだった。


 九月の夕方の空は、オレンジが、少し、薄い。


 薄いオレンジの向こうに、うっすらと、青がのぞいていた。


 青の中に、一番星が、一つ、出ていた。


 一番星は、昨日も、一昨日も、同じ場所に、あったはずだった。


 しかし、今日、初めて、気づいた。


 気づくか、気づかないかの違いは、人生の多くを、決める。



 。。。あれ? そういえば奈央の“本音ノート”ってどうなったんだ?




         *




 家に着いた。


 玄関で、靴を脱いで、「ただいま」と言った。


 「おかえり」と母が言った。

 「おかえり」と妹も言った。


 「おかえり」が、二人分、返ってきた。


 二人分の「おかえり」は、いつも、ちょうど、いい。


 夕飯は、鮭の塩焼きと、お味噌汁と、小松菜のおひたしと、ご飯だった。


 「今日、始業式どうだった」と母が聞いた。

 「長かった」

 「長いよね、校長先生の話」

 「長かった」

 「でも、始業式は、夏の終わりだね」

 「終わり」

 「夏、どうだった?」


 「……濃かった」と、ぼくは答えた。


 「濃かった」というのは、のんがファミレスで言った言葉だった。借用だった。しかし、借用でも、他に言いようが、なかった。


 「濃かったの、いいね」と母が言った。

 「いい?」

 「濃い夏は、人生で、そんなに、たくさんはない」

 「……そっか」

 「じゃあ、濃い夏、お疲れさま」


 母の「お疲れさま」は、田村の「がんばれ」と、妹の「がんばれ」と、全部合わせた分より、少しだけ、深かった。


 深い「お疲れさま」を一つもらえる日というのは、九月一日の、特別な日だった。




         *




 部屋に戻って、机に座った。


 数学のワーク、残り三ページ。


 「気合を入れればやれる」と、妹の声で、思い出した。


 気合、を入れた。


 一ページ、解いた。


 二ページ、解いた。


 気合は、案外、持った。


 三ページ、意外と簡単に終わった。


 生活が、元に戻った、ということだった。




         *




 夜、布団に入って、目を閉じた。


 目を閉じた後、すぐに、色々な音が、聞こえてきた。


 耳の中で、聞こえた音。


 蝉の声——ただし、今日の蝉は、少し、疲れていた。


 風の音——夏の風より、少しだけ、乾いていた。


 奈央の、ホームの「じゃあ、また明日」。


 のんの、「来年も確定」。


 あやのの、「新しい七瀬」。


 七瀬の、会釈。


 母の、「濃い夏、お疲れさま」。


 全部が、頭の中で、一つの、静かな合奏に、なった。


 合奏は、音楽室の合奏ではなかった。


 日常という合奏だった。


 日常の合奏は、音楽室の合奏より、音量が小さい。


 しかし、音量が小さい分、長く、続く。


 長く続くものは、強い。


 強いものに、ぼくは、支えられていた。




         *




 眠る前、もう一度、目を開けて、天井を見た。


 天井は、昨日と、同じ天井だった。


 しかし、見る側のぼくは、昨日のぼくと、ほんの少しだけ、違った。


 違ったのは、夏を通過した分だった。


 夏を通過した分、ぼくには、ぼく自身の、新しい入り口が、いくつか、開いていた。


 入り口の先には、三年目が、待っていた。


 三年目は、まだ、半年以上、先の話だった。


 半年以上先の話を、ぼくは、今日、初めて、具体的に、考え始めた。


 考え始めたこと、それ自体が、三年目の、始まりだった。


 三年目は、四月に始まるのではなかった。


 三年目は、九月一日の夜、ぼくが、天井を見上げた、この瞬間に、静かに、始まっていた。




         *




 目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、田村のLINEが光った。


 「音無」

 「うん」

 「宿題、残り」

 「五ページ」

 「オレ、ゼロ」

 「やればできる男」

 「やればできる男」


 「おやすみ」と田村が送ってきた。


 「おやすみ」とぼくも返した。


 田村の「おやすみ」が、夏の終わりの、最後の一文字になった。




         *




 窓の外で、蝉が、一匹だけ、鳴いた。


 一匹の蝉は、この夏の、最後の蝉かもしれなかった。


 最後の蝉は、短く鳴いて、やがて、黙った。


 黙った後、風の音が、部屋に、入ってきた。


 風は、秋の、匂いを、少しだけ、連れてきていた。


 秋の匂いは、夏の匂いより、薄い。


 薄い匂いの中で、ぼくは、眠りに、落ちていった。


 落ちていく寸前、最後に、頭の中で見たのは、音楽室の、いつもの光景だった。


 七瀬がトランペットを構えていた。

 奈央がトロンボーンを抱えていた。

 のんがスネアを叩いていた。

 あやのがクラリネットのリードを調整していた。

 桐島の双子が笑っていた。

 橘が打楽器の前で楽譜を見ていた。


 そして、ぼく自身も、その中にいた。


 その光景は、これからも、続いていく。


 続いていく、という予感だけを、手のひらに握って、ぼくは、夏の終わりの夜に、眠った。




 ——三年目が、静かに、始まっていた。




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            (第五十一話へ続く)

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