第一話「陰キャ、降臨」
第一話「陰キャ、降臨」
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僕の名前は音無透。
「おとなし・とおる」と読む。
おとなしい、透明。
陰キャのための名前を、生まれながらにして二つも与えられた男だ。
親を恨む気はないが、もう少し考えてほしかった、とは思う。音無という苗字で透という名前をつけておいて、のちに「もっと自分を出せ」とか「積極的に行け」とか言える神経は、普通の人間にはないはずだ。少なくとも僕にはない。名前というのは祈りであり呪いであり、この場合どう考えても呪いの方だが、もうそういうものとして生きていくしかないので、諦めている。
池田市で生まれ、池田市で育った。
池田市はインスタントラーメン発祥の地として知られているが、それが僕の人格形成に何らかの影響を与えたかといえば、与えていない。与えていたとしたら、お湯を注げば三分で完成する男ということになるが、実際の僕はお湯を注がれても十年経っても何一つ完成していないので、やはり無関係と考えるのが妥当だろう。発祥の地に生まれた者がすべて偉大になるわけではないし、ましてや偉大でなくても普通の人間くらいにはなれるはずだが、それすらも怪しい気がしている。
この春から、大阪府立桜塚高校に通うことになった。
偏差値五十八。自称進学校。
「青春するならここ」という噂が飛び交う、キラキラした学校――というのが事前に収集した情報だった。
しかし実情を確認すれば、キラキラしているのは全国大会常連の軽音楽部とダンス部というごく一部の人間だけだ。こういう話は常にそういう構造をしている。目立つ側が全体の看板を引き受けて、残りの多数は陰でおとなしく生きている。桜塚高校も例外ではなかった。そして僕は生まれながらにして陰の側の人間だ。疑いようがない。疑いたくもない。
入学式の朝、電車に一人で乗った。
池田から阪急電車で岡町駅まで。普通しか止まらない岡町駅。距離はたいしたことない。しかし知り合いはゼロだった。中学の同期はそれぞれ別の高校へ散っていった。あるいは僕が散っていったのかもしれない。どちらの表現でも結果は変わらない。孤独、という事実は動かない。
電車の中で、新入生らしい集団がいくつかあった。
中学からの友人同士なのだろう、笑いながら話している。誰かが誰かのスマホを覗き込んで、「うそ、それ」と反応して、また笑う。ごく自然に、ごく普通に。
僕には、あれができない。
正確には、できるのかもしれないが、やり方がわからない。やり方がわからないのに始められないのは、料理を習ったことがない人間に突然「何か作れ」と言うようなものだ。料理は知識だ。コミュニケーションも、たぶん知識だ。そして僕は、その知識を系統立てて学んだことがなかった。
女子の制服は、近隣でいちばん可愛いと評判だった。
確かに悪くない。グレーとネイビーのブレザー、えりのリボンが清楚で上品だ。ホームに並ぶ新入生たちを眺めれば、なるほどそれっぽいことが確認できた。では男子はというと、学ランである。学ランだ。時代錯誤も甚だしいが、選択肢はないので諦めた。諦めることは、陰キャの基本スキルだ。できていて当然。できていなければ陰キャを名乗る資格がない。
入学式は長かった。
体育館のパイプ椅子に座って、来賓の挨拶を三十分聞いた。続いて校長の話が二十分。担任の自己紹介その他諸々が計十五分。合計一時間以上、一言も発さずにただ座り続けた。陰キャはこういう局面が比較的得意な部類に入ると思っていたが、実際に経験してみると、じっとしているだけでもそれなりに体力を使うと知った。何もしないのも、エネルギーがいる。存在することにもコストがかかる。当たり前のことだが、高校一年の春に初めて実感した。
クラスは一年三組。
隣の席の男子が話しかけてきた。名前を聞いた。相槌を打った。それ以上は続かなかった。
彼が悪いわけじゃない。僕が続かせられなかっただけだ。
陰キャの根本問題は、「何か言わなければ」という焦りが「何も言えない」という結果を生むことにある。一見すると矛盾するが、矛盾していない。焦りは思考を停止させ、思考が止まれば言葉も止まる。言葉が止まれば沈黙が生まれ、沈黙が長くなるほど次の言葉はさらに出にくくなる。完璧な悪循環だ。よくわかっている。よくわかっているのに、解決できないのが陰キャというものだった。
ただ、ひとつだけ決めていたことがある。
吹奏楽部に入ること、だ。
小学校四年生から続けてきた。担当はトランペット。金管の、高音域の、空気を引き裂くあの音が好きだった。息を吐き出すことで、自分の何かが体の外側へ押し出される感覚がある。日常生活の中では何一つ外に出せないくせに、楽器を吹く瞬間だけは正直になれた。感情が音になる。怒りも、寂しさも、うまく言葉にならない何かも、全部トランペットに通せば形になった。だから手放せなかった。だから吹奏楽部が必要だった。この学校で唯一、自分でいられる場所になるはずだと信じていた。
帰り道のことだ。
入学式を終えて、電車のホームに向かった。春の夕暮れは、まだ少し肌寒かった。桜はほぼ散り終わっていて、ホームの上を薄いピンクの花びらが一枚だけ横切って消えた。それを目で追いながら、今年の春はもう終わりなんだな、と思っていたとき。
「ねえ。どこから来てるの?」
声がして、振り向いた。
そこに彼女がいた。
ハーフアップにしたセミロングの髪。新品のブレザー。背が高い――僕より明らかに高い。整った顔立ち、という言葉は少し違う気もして、バランスのいい顔立ちとでも言うべきか。超美少女というわけではない。それでも目が離せなかった。「目が離せない」という表現は通常、比喩的に使われるが、この瞬間の僕にとっては、文字通り物理的に視線が動かなかった。
「……池田から」
「あ、そうなんだ。あたし箕面。隣じゃん」
隣。
池田と箕面が地理的に隣かどうかは厳密には議論の余地があるところだが、そういう指摘は陰キャの悪い癖だと経験から知っていたので、僕はただ頷いた。
「石山奈央。よろしく」
「……音無透」
「おとなし・とおる? おとなしいで透明の? なんか陰キャっぽい名前だね」
失礼な奴だ、と思った。
しかし、反論できなかった。正確無比に合っていたから。
そうして奈央は当たり前のように隣に並んで電車を待ち始めた。少し離れたところに、もう二人の女子が立っていた。後に紹介されるところによると、秋台のんと松木あやの――奈央と同じ中学出身だという。のんは小柄でよくしゃべり、あやのはのんびりしていてよく笑う。二人ともごくふつうに陽の気配があって、僕のような陰の人間には少し眩しかった。
「吹奏楽部入るの?」
奈央が聞いてきた。
「……はい」
「あたしも。のんも」
少し間があって、「トロンボーンやってんだ、中学から」と続けた。
トロンボーン。
あのスライドつきの、大ぶりな楽器を、彼女が吹くのか。
なぜか、その光景がすんなりと想像できた。
石山奈央という名前を、僕はその日から忘れたことがない。
忘れたくても、忘れられない。
十年後も変わらなかった。
どれだけ時間が流れても、その事実だけは動かなかった。




