鬼姫の決断
どこから迷い込んだか、西園寺家の食客の老人がよたよたと庭の真ん中に歩み寄ってきた。
「これはこれは旦那様」
「花鳥老師。仕事の方はどうですかな」
花鳥と呼ばれた薄汚い老人はニンマリと笑うとそのまま重基に歩み寄ってきた。
「虎を……虎を描きたいと思いましてな」
「俺にはもう実物を取り寄せるような芸当はできませんよ」
重基はそう言いながら隣に置いてあった湯呑を手に取ると急須から茶を注いで花鳥に差し出した。花鳥はそのまま湯呑を受け取るとじっくりとその中央を眺める。
「ほう、茶柱が立っていますな」
「いいことでもあるといいですな」
そう言った重基に花鳥は笑みを浮かべつつ茶を啜る。そんなふたりを康子は立ったまま眺めていた。
「実は動物園に通っておりましてな。ただあそこの虎は……牙があって無きがごとしというべきですか、虎らしさがありません」
「虎らしくない虎……で、俺に何を?」
「ちょっと康子様を描かせていただけませんかな?」
突然の話の展開に重基はそのまま視線を奥の間で立ち尽くしている康子に目を向けた。
「まるで私が虎みたいじゃないですか」
「ワシにはそう見えますが?」
突然の言葉に康子は言葉を無くした。そのまま視線を義父へと向けるがこちらは茶を飲むばかりで答えをよこす気配すらなかった。
「描くのはいいですが……私はじっとしているのが苦手なので」
「いえいえ、その方が良いのです。毎朝剣術の稽古をしていますね。その姿を見させて頂ければ」
花鳥に康子は微笑んで見せた。
「その程度でよければいいですわ。できれば稽古の相手なども」
「それは少しばかり勘弁していただきたいものですな」
「いいのかい、康子さんや」
そう言って重基は飲み干した湯呑を脇に置いた。
「ええ、別に秘密があるわけではありませんから……多少危ない目には会うことは覚悟されているようですし」
「やはり康子様は法術を使われるのか?」
花鳥は少しばかり引いた表情でそうつぶやいた。
「少しばかり激しいものを使いますよ。身体強化系のものをちょっと」
「それならばなぜ遼献殿下のところに馳せ参じないのですか?」
純粋な花鳥の問いに康子は俯いて押し黙った。
「それは私から話そう。今回の遼南王朝の件。当家はできる限り関わらないようにしておる」
「嫡男、紅籐太殿が参謀を務めてらっしゃるじゃないですか」
「あれは勘当の身。何をしようと私の知るところではない。康子も義基も遼献に手を貸せとうるさいが……当家としてはそれは出来ない相談なのだ」
「やはり九条一党から目をつけられているからですかな?」
図星を付いた花鳥の問いに重基はゆっくりと頷く。
「それもある。だがそれ以上に当家が直々に動けば立場を逆に危うくする人々がいる」
「東和に逃れた難民達……武帝の側近達のことですかな」
沈黙を続けて花鳥の言葉に同意すると重基は視線を康子に向けた。
「今回の事態に対し東和の態度は一定していない。飛行禁止区域の設定で兼州に寄ってみせると思えば兼州の色の濃い在東都大使を追放処分にしたりする」
「難しいですな、政治は。ですが」
花鳥はそう言うと視線を再び康子に向けた。
「時に理屈だけで動くのではなく感情で動くのもいいかもしれませんな」
「感情で動く?」
康子は花鳥の言葉がわからないというように繰り返した。
「そう、自分の意に沿って動いてみる。行き詰った時にはそんなことも必要かもしれません。まあ出来損ないの絵師の言葉、聞き流して頂いても結構ですが」
「自分の意に沿って動く……お義父様」
声をかけられた重基はゆっくりと自分の湯呑に茶を注いでいるところだった。
「東都に行ってもよろしいでしょうか?」
「東都?なぜ兼州離宮じゃないんだ?」
「法術師がこの戦いに関わるのは良くないと思いまして……それにこの戦いは兼州に勝ち目はない」
「そうだな。だがそれで東都になぜ?」
重基の問いに答えるわけでもなくそのまま康子は部屋の奥へと消えた。花鳥も重基もただ黙って座っている。
奥から戻ってきた康子の手には薙刀が握られていた。静かに鞘を払い、白銀の刃が赤い胡州の空に晒される。
「花鳥さん。絵は今描いていただけますでしょうか?」
「今ですか?」
花鳥のとぼけた答えを無視するようにして康子は白足袋のままで中庭に降り立った。
瞬時に薙刀が振り下ろされ、そして振り上げられる。その尋常ならざる速度のために風切り音がその場に広がった。
「用意をしてまいります」
驚いたとでも言うように花鳥はそのまま食客達が暮らしている奥の棟に向かって走り出した。
「遼献を助けるつもりか?」
「私に出来る最大限のことをするつもりです。でもご安心ください。兼州離宮には近づきませんから」
「そうしてくれると助かる」
重基はゆったりと構えて茶をすすった。康子は再び薙刀を振り下ろし、そしてそのまま振り上げてみせた。




