亡命
遼献の生活はこの五年間変わることがなかった。
「それでは終わりにしましょう」
古典経済学の家庭教師に一礼して教科書を閉じる。
「殿下……、カグラーヌバ卿がお見えです」
女官の言葉を静かに聞くとラスコーは椅子から降りてそのまま宮殿の賓客の間に向かった。
「お久しぶりです」
カグラーヌバ・バラダは焦りを感じているのがひしひしとラスコーにも感じられた。
「久しくお目にかからなったのは……やはり南都は父上に付きますか」
ラスコーの言葉にバラダは苦笑いを浮かべる。
「こちらから仕掛ければ恐らくは央都につくでしょう……これで手が出なくなりました」
半分ヤケになったような調子でバラダが吐き捨てるようにつぶやく。ラスコーはただ無力感に苛まれるような醜い笑みを浮かべていた。
「父上……いや、ゴンザレスはどうしても余を追い落とすつもりらしい……」
献に苦笑いを浮かべてバラダは応える。
「霊王の意向ではありますまい。あの方にはそんな判断力は無い」
「一応、余の父上だ」
「そうはおっしゃりますが……」
バラダの言葉には力がなかった。そこに突然衛士が一人駆け込んできた。
「申し上げます」
「東宮殿下の前だ……控えろ」
「はは」
バラダの声に衛士は静かに膝を屈する。
「どうしたんだ」
「はい、侵入者があったのですが……」
「どいてちょうだい」
入口にたむろする衛士を振り払いながら女性が一人賓客の間に現れた。
「キラーナ……」
それはバラダの次女キラーナこと西園寺康子だった。
「ああ、お父様。ちょうど良いところで」
「ちょうど良いではない……何のために甲武から……」
驚きの表情でバラダがつぶやくのに康子はなんとも複雑そうな笑みを浮かべつつ献の前に遠慮なく立つ。
「献ちゃん。亡命しない?」
突然の言葉に献は口を開くことができなかった。
「おい、キラーナ。なんてことを……」
「お父様。すでに南都も央都に屈した今献ちゃんに逆転の目があるとは思えないわよ」
「そういう問題じゃない!」
「そういう問題よ!勝ち目のない戦いをするくらいなら亡命をすることを進めるのが親戚の責任だと思うわよ」
「叔母上……」
「おばさん?」
キッと見つめる康子に怯みながらも献は口を開く。
「私は東宮です。次期皇帝です。亡命など……」
「そんな形ばかりの話をしに来たわけじゃないの。献ちゃんは幾つ?」
「十二になります」
献の言葉に康子は少しばかり愛おしげに視線を向けた。
「十二歳で一国を背負う……お父様、残酷すぎます」
「残酷?ワシは今後のことを考えてだな……」
バラダはそう言うと少しばかり遠慮がちに視線を献に投げた。献は大きくため息をついた。
「叔母上。これは私の運命なんです」
「運命なんて言葉は十二歳の言葉じゃないわよ。亡命すれば兼州の民の安全は保証されます」
「兼州の民は東宮殿下の即位を望んでいる」
「本当にそうなんですのお父様。正統、清流。言葉は美しいけど結局は支配に違いはない」
「西園寺の家にお前を嫁に出したのは失敗だったかな……それよりキラーナ。お前ならガルシア・ゴンザレスの首を掻くこともできるのではないかな……覚醒した『法術師』なら」
突然のバラダの言葉に献は身を乗り出した。大柄でがさつに見える父バラダと違って細身で弱々しげに見える康子に献は興味を持った。
「確かに私の力をもってすればそれくらいのことができるかもしれません」
「だったら頼む。父の頼みだ」
「お断りします」
凛とした調子で康子は否定してみせた。
「力を持つ者はそれを悪用してはならない。私の矜持です」
「軍事力で簒奪を行う相手に遠慮は無用なんじゃないのかね」
「お父様。私にも立場があるんです。西園寺家の次期当主の嫁が一国の有力者を殺害すればそれこそ戦争になります」
「西園寺家の甲武も名前の上だけは遼帝を帝としているではないか」
「だったらなおの事です。反対勢力の火に油を注ぐようなものです」
「叔母上は一人でゴンザレスを倒せるのですか?」
きっぱりと断る康子に献は興味深そうに訪ねていた。
「力……人は法術と呼ぶ力があるのですよ。それを使えばあの程度の軍兵は数には入りません」
強気な調子の康子はそのまま献に手を伸ばした。
「お姉様は嫌ってらしたけど……献ちゃんにも同じ力があるのよ」
「余に……法術が?」
「そうです……今は封印されていますが……時が来れば目覚めるでしょう……時が来ればね」
「今がその時だと思うのですが」
献の問いに康子は微笑みを浮かべた。
「なら使えるはずでしょ?使えないということは今はその時ではないから使えないんです。人間必要な力しか出せないものですから」
康子の言葉に納得できずに献は席に身を投げた。
「余は亡命はしない。それしか言えない」
「そうですか……でもまた来るわ。必ずこの離宮からあなたを連れ出してみせるから」
それだけ言うと康子は身を翻して去っていった。
「何しに来たんだアイツは」
苦々しげにバラダはつぶやく。献はじっとしてそのまま康子の去っていった扉を眺めてい




