対空防御演習4 木牛・流馬の参戦――蘇州開城――
大将軍(唐王)率いる南明軍主力に兵力を集中させたため、軍師将軍(鄭福松)の別動隊は総兵力9,000を切る小所帯となってしまっていたが、揚子江南岸の清国軍そのものが壊滅状態であったため、太湖東岸を順調に進撃していた。
これは車騎将軍(鄭芝龍)の水軍が、杭州湾沿岸の諸都市(桐郷・嘉興・金山・松江)を次々に占領/宣撫していたことも味方している。
清国兵の進駐で一度は清に靡いた”民心”が、再び明朝支持へと回帰していたのだ。
出自が貿易商人で、清濁併せ吞む事も辞さない鄭芝龍は、ともすれば苛烈に成り勝ちな唐王よりも民衆と云うものが解っていたのである。
だから、清軍占領期には率先して弁髪となり領民にもそれを奨励していた県令などにも
「アッハッハッハ、髪などどうでも良いのだ。どうせ黙っていても、また生えてくるものなのだからな。儂も平戸に居たころは、日本風の髷を結ったりしたものだ。」
と笑って安心させ、今後の協力を約束させていた。
ただし弁髪拒否者を処刑した者などは、その行為の中心人物のみを特定して
「弁髪のままで死なせてやろう。せめてもの餞にな!」
と即座に最小人数のみ首を刎ねさせ、締める処は締めて、清軍占領中の不満のガス抜きも忘れなかったのである。
鄭福松は、鄭芝龍軍の一部と、蘇州近辺で邂逅を果たした。
鄭福松の軍勢には福松直属の手勢の他には、関仁のスコップ兵団と数を減らされた明石掃部の騎馬銃兵しかいなかったから、大都市 蘇州に進軍するには流石に手駒不足が懸念されていた処で、猛将今関羽こと関仁もこの僥倖に胸を撫で下ろした。
鄭芝龍の分遣隊を教導していたのは、関仁も杭州始末で顔馴染となった趙士超で、聞けば「福松軍の進撃は”御蔵の凧”が常に空から見守っており、凧から報せを受けた車騎将軍が、援兵を融通する決定を下したのだ。」という。
そして趙は「援軍こそ連れて来たものの、蘇州で戦は起こるまいよ。なぜなら、既に城中に”白旗”が立ち並んでいるそうだ。」と蘇州の近況を伝達した。
同じころ、明石掃部も懐かしい顔と再会していた。
到着した荷駄隊から「明石殿ォ!」と明るい声を掛けられたのである。
荷駄隊といっても馬はおらず、50台ほどの自転車がそれぞれにリヤカーを牽引しているという、明石にとっては奇妙に現実離れした部隊で、皆が御蔵兵の軍服を着用し、連発式ライフルを肩から吊るしている。
リヤカーを牽引せず、車体に荷を所狭しと縛り付けた自転車も100台ほどあった。こちらは運転者が自転車に乗って荷を運ぶのではなく、自転車を押すことで――一種の手押し車として――兵站任務を果たすものらしい。
三国志で、諸葛孔明が蜀の桟道を踏破するのに工夫した”木牛”・”流馬”でも今の世に蘇って、その隊列を目にするが如しである。
――俺には、あんな妙な知り合いは居らんが?
と頭を捻った明石だったが
「私でございますよ! ホラ、藤左ヱ門の倅の。」
と声の主が鉄兜を外すと、ようやく合点がいった。
「オオ! 月之進ではないか。」
二人は共に配下に小休止を命じると、道端の草の上に座り込んだ。
「陛下が呂宋まで談判に向かわれ、奥方様らは既にマニラの地を離れ、御蔵へとお越しになっておられます。」
そう月之進が説明すると、明石は
「なんとッ! 陛下、御自らが!」
と驚いた。
「船での行幸は大儀であられたであろうに。」
「いえ、陛下はたいそう御機嫌麗しゅうございました。椰子のジュースもお好みに合われました御様子で。」
月之進の返事に、明石はひっくり返りそうになった。
「月よ! その方、帝と共に旅をしたのか?」
月之進は「はい!」と元気よく頷き「陛下が南安伯館を仮御所とされておりました時から。」と顛末を告げた。
「現在、陛下は礼部尚書閣下らと御蔵の里でお寛ぎあそばされておられます。」
鄭福松は「これはこれは、御援兵いただき心強うございます。」と懇ろに小倉藤左ヱ門を迎えた。
しかし内心では
――装備はともかく、兵数が期待したほどではなかったな。
と失望もしていた。
藤左ヱ門が率いて来たのが、趙士超の騎馬偵察隊100を含めても1,000に足りない兵数であったからだ。
福松ははじめ『これらは先乗りで、後ろには万を超す水軍勢が追従しているのだろう』と考えていたのだが、どうも違う様子なのである。
率いて来た兵とは異なり烏帽子直垂姿の藤左ヱ門は
「いえ、我らが小勢でありますことに、御不満はございましょう。」
と頭を下げた。
「なれど、これには車騎将軍の読みがございまして。」
「父……いや、車騎将軍の?」
福松の疑問に藤左ヱ門は「左様、でございます。」と応じる。
「恐れながら、湖州から蕪湖へと兵を進めておられる大将軍は、軍師将軍閣下が大兵を握ることを快く思われていない御様子。これは杭州での仕置きを見ましても、まず間違いの無いところ。」
福松もこの指摘には「うむ……」と言葉を詰まらせるしかなかった。
「そのような事も、あろうかな。まあ、応天府の予親王を攻めるには、兵を集中するが最善というお考えからであるやも知れぬが。」
福松は、血が繋がっている父には時に強く反発することもあるが、この航海経験豊かな日系武将には反駁するのに難しいものを感じた。
それは遠慮であるのかも知れないし、烏帽子直垂姿に平戸を思い出しての郷愁が有ったのかも知れない。
「そこは、それ」と藤左ヱ門は福松の言い訳を軽く往なして
「理由はどうでも良うございましょう。結果として見る処、軍師将軍閣下は今、みだりに兵を増やさぬ方が良いという事にございます。まず眼前の蘇州は容易く城門を開きましょうし、閣下のなされるべき事は民を安んじ、兵を募らず、田畑の力を蘇らせる事。それが結局は明国の国力を回復させ、国家としての明日に繋がりましょう。車騎将軍は、これまで下して来た城すべてに、同じ手を打ってきておられます。」
と晴れやかに笑った。
「実は、我らが荷駄の運び来し品は、武具や矢玉ではございませぬ。」
「なんと?! 戦場に馳せ参じるに、鉄砲や火薬以外の品をわざわざ運んで来た、と?」
福松の驚愕に、藤左ヱ門は「御意!」と力強く頷く。
「種籾・種芋に、魚肥でございます。」
そして「蘇州入場と同時に種籾や魚肥を民に施せば、城の者全てが戦が遠く去り安逸が戻ったことを解しましょう。」と続けた。




