対空防御演習3 ナイロン6,6は白色腐朽菌由来ペルオキシダーゼ処理で風合いが変化する
「技師長殿、この糸は植物から採った物でも、蚕や山繭のような虫の繭を解した物でもない、という理解で良いのですな?」
興味深々で両手に握ったタコ糸ほどの径の糸を引っ張っている黄道周に
「ええ。極論すれば石炭から作られた糸です。石炭は今後順調に入荷する段取りが付いたので、ラボレベルから、早いとこパイロットプラントにまで生産スケールを拡大したいと計画しているんですけどね。ただし化学工場は塩ビ生産向けにラインを拡張してしまっているんで、プラント建設には場所と機材と作業員の手配がなかなか……。中佐殿は『必要不可欠な技術だから』って、敷地とマンパワーとの遣り繰りが付くよう、奔走されておられるのですが。」
と生田技師が頷く。
「ナイロン6,6と言いましてね。ナイロン6とどちらを先に試作してみるか迷ったんですが、片山君の参考書によれば6,6の方が融点が265℃で耐摩耗性や機械的強度が優れている、とありました。ナイロン6の融点は220℃らしくて。摩擦熱によるダメージを考えれば、40℃ほどの差だとしても、融点は高いに越したことは無いでしょう? 布地にまで織り上げれば6,6は絹のような風合、6は綿のような風合と差があるらしいので、両方いければ行きたい気持ちではあります。」
黄尚書付きの通辞は、生田の説明を礼部尚書にどう伝えるのか苦慮しているようだったし、聞いている黄自身も解ったのか解らないのか妙な顔をして説明に耳をすましていた。
けれども生田技師としては、化学式や反応式を用いずに出来るだけ平易に説明した心算であったから、これ以上はどうしようもない、と開き直るしかなかった。
そこで「植物由来の化学処理繊維なら、資源量が多いセルロースをアルカリと二硫化炭素で溶かし、酸の中で湿式紡績する人造絹糸が、既存技術としてあります。しかしレーヨンは強度に問題がありまして、布地には出来てもロープや漁具には、ちょっと。」と生産物の用途に話題をすり替えた。
用途となると黄道周にしてもイメージし易いのか
「ほほう。それでは石炭から布地が作れるようになったわけだと飲み込むとして、しかしこの糸は少々布地には太すぎるようだが。」
と反応する。「それとも試しに作ったは”この糸”だが、糸の太さは思うが儘に変更できるというわけですかな?」
「御明察です。」と生田が受ける。
「出来上がったナイロンペレットを融解して、糸に加工する機械の穴の径を替えれば良いのですから。布を織るなら絹糸サイズの径でラインを組めば良い。この径で試作したのは、最初に目指しているナイロン糸の用途に漁網を考えているからでして。」
「ううむ……。布地より漁具を?」
と礼部尚書は納得がいかない様子。
これはある意味当然の反応で、絹布・綿布・麻布などの布地は、金・銀・銭や米麦・家畜と並ぶ『財物』だからだ。貨幣的価値を持っている、と言い換えてもよい。
『財物』よりも漁具を優先する御蔵勢の意図に、政治家である黄が疑念を持ったのは不思議ではない。国家を運営するにも戦争を行なうにしても、収入の安定化と財政の健全化が必要なのだ。
黄尚書の様子を見て、生田は『この政治家の感じている違和感は、晴らしておいた方が良いだろう』と感じた。政治家が違和感を持つと、往々にして”それ”は不信感に取って代わり、後に軋轢として表面化しかねない。
そこで「漁具の改良は、御蔵島の生活と経済に深く結びついておりまして」と説明を補足する。
「まず、大量に水揚げされる魚は食卓を潤します。養鶏や牧畜が未だ規模の拡大化途上である以上、住民皆がふんだんに摂れる蛋白源としては魚と鯨、豆類に依存せざるを得ない。また魚は蛋白源として鳥獣肉の不足を補うばかりでなく、料理法も様々ですからね。料理人の腕に頼る処もありますが、料理法を替え様々なメニューを提供することで、目先の嗜好を満足させる役割も担えます。」
なるほど? と黄道周が頷くが、まだ納得するまでには至っていないようだ、と生田は感じ取った。
そこで「次に、照明用の燃料油の原料としても必要なのです。」と続ける。
「植物性の油は、菜種にしろ大豆やトウモロコシにしろ、採油するには種が実るまで待たねばなりません。それに比べて魚油の生産は、漁獲さえ有れば年中行えます。殊に火力発電所を持たない舟山では、夜を明るく過ごすために魚油や鯨油を用いる洋灯が普及しましたからね。ダムが小口の水力発電を開始しましたが、全島に行き渡るほどの電力量は、大型ダムが完成するまでは無理なのです。」
「おお! 洋灯か。あれに初めて接した時には、その明るさに心躍ったものだが……」
と黄は南竿島の夜を思い出す。
「朝潮で旅をした時も御蔵島に来てからも、電灯に慣れてしまってからは洋灯の恵みを忘れてしまっていたな。」
そして本を読むのも書くのも好きな彼としては『明国の大地に戻れば、未だ夜は闇のままか。良くても微風にすら揺らめく蝋燭か灯心じゃな。海の魚の恵みの何と深い事よ!』と漁獲の重要性を再考せざるを得なかった。
辣腕の政治家の心を動かした、という手ごたえを掴んだ生田は、更に畳みかける。
「漁獲の重要さは、それに止まりません。魚油を絞った後の魚にも、まだまだ用途が多いのです。」
「うむむ。搾り滓にもか!」
礼部尚書の感嘆に、化学工場の技師は「そりゃ、もう!」と応じる。
「なんてったって、生でも食える魚なんですからね! 油を搾ったら捨ててしまうなんてバチが当たります。」
そして「乾燥させて魚粉にすれば保存食にも成るし、携行食にも成ります。蛋白質やミネラルはそのまま残っているんですから、握り飯や粥に混ぜる栄養補助食品に適しているんですよ。嵩を増すというゴマカシではなく、穀類だけの場合に比べて、栄養のバランスが格段に上がるわけですから。筋肉が付いて骨も丈夫になりますね。」と続ける。
「国民の健康は国家の大事ですよ。国民の常食が澱粉質リッチな粥ばかりで蛋白質とミネラルが足りないんじゃあ、生産力そのものが疲弊してしまう。それに魚粉そのものに予め味付けを施しておけば、握り飯や粥といった簡単な調理の場合、野外炊飯が極めて楽です。機械的にレシピ通りの配分で混ぜれば、少なくとも最大公約数の味は保証されるわけですから。」
黄道周は再び「なるほど。」と受けたが、今回の”なるほど”は先の疑念混じりのイントネーションではなく、理解したという色合いの濃い”なるほど”だった。
「食は国家の基盤か。銭よりも優先すべき。」
「いえ閣下。」と生田は黄に頭を下げ「長らく国家運営の場で御尽力されていた先生に、釈迦に説法で出過ぎた発言が過ぎました。若気の至りとお許し下さい。」
それから「実は魚粉は、養鶏や養豚の飼料にも使え、田畑に撒けば良い肥料にも成ります。収入の道にもちゃんと繋がっておりまして。」と付け加える。
「特に鶏の卵は、食品としての需要が高いのは勿論、ワクチンという医薬を作るにも不可欠なのだとか。ワクチンの製造に関しては僕はシロウトですから、そちらの方は病院の研究室でお尋ね下さいませ。」
「ほう! ワクチンも?」と礼部尚書は驚いた様子。
「BCGという、肺の病を防ぐワクチンを打ってもらったが、あれも鶏卵からなのか? なんぞ高貴な薬草から創った霊薬かと思うておったが。」
「いやぁ、どうだったかな?」と生田が頭を掻く。
「ジェンナーという学者は、牛痘とかいう牛にしか感染しない近縁株を接種したんだったと記憶はしているんですが。詳しい事は中谷君にでも確かめて下さい。」
(作者注:BCGは当然のことながら「弱毒化させた結核菌」で、種痘に使うのは「弱毒化した天然痘ウィルス」だ。専門外の生田技官は、黄道周と話をしている内に、ごっちゃに取り違えていたわけだ。当然、学問好きの黄道周は医学研究室に確かめに行き、優秀な化学者である生田技師も専門外の分野ではケアレスミスを起こすことに気付く。そして「人は道によって賢し」と認識を新たにするのだった。)
「で、話を戻しますと」と生田技師は漁網の話題に立ち戻る。
「試作品のナイロン糸で網を編んでもらったところ、水切れが綿糸や麻糸を使った従来の網に比べて抜群に良く、トラブルが減って漁獲量も上がりましてね。漁労班からも高評価を得ているんです。」
・・・・・・・・・・・・・・・
ナイロン糸で網を編んだのは、軍務を引退した鮑元蓬莱兵隊長だった。
鮑は生田が持ち込んだナイロン糸を見て、引っ張り強度を試すと
「ふむ。使ってみよう。」
とアッサリ受け取った。
そして実際に漁で試すと「渋で水切れを良くした綿糸より、網に編んだ時には更に水切れが良い。これは使えるな。」と結論を下した。
さらに鮑は「ただし、結び目を作る場合には軽く湿してやらねば、そこからが切れやすいな。……まあ、糸がシッカリしているから修理は楽だが。」と注意点も見逃さなかった。
生田は鮑のサジェスチョンから、結び目が弱くなるのは糸と糸とを締め付ける際に発生する摩擦熱によるもの、と直ぐに原因を究明し『ナイロン糸で網を編む際の注意点/ナイロン糸の利点と欠点』というレポートを作成した。
ナイロン実用化の第一歩であった。
・・・・・・・・・・・・・・
「でも、ナイロンの布地やシートへの応用を捨ててしまったわけではありませんよ。」
と生田は続ける。
「岸峰君にナイロン製のパンティ・ストッキングスを見せてもらいましたが、絹にも勝る逸品でした。まあ実際に製品化出来るまでには幾つもハードルが有るのでしょうが、世の御婦人方は大金を払ってでも手に入れたいと思うでしょうね。」
「パンティ・ストッキングス? それは錦の衣の様な衣装ででもありましょうかな?」
首を捻る礼部尚書に、生田は「錦と言うより、天女の羽衣のような薄布ですね。」と応答する。
「その天女の羽衣の生地で作った、股引です!」
「天女の薄衣で織った股引ですか??」
生真面目な大政治家の混乱は、更に深くなったようである。
「それはそれは……御婦人方ばかりでなく、それを着せたい殿方も多いことでありましょう。」
普段ならば、絶対に口にしないようなセリフである。
「間違いない、と確信します!」
生田は礼部尚書の見解に、激しく同意した。
彼が、ナイロン生地の製品化例を見せて欲しい、と岸峰に頼んだところ、彼女が持って来たのがパンストとブルマで、化学研究室でパンストの手触りを確かめた金田信子事務員が
「これ、良いわぁ……」
と夢見心地で呟いていたのを目撃していたからである。
その時、生田は『よし! ナイロンのストッキングスは必ず完成させる。』と固く心に誓ったのであった。
「先ほどナイロン6,6は絹、ナイロン6は綿の肌触りと申しましたが、6,6ナイロンは酵素処理することによって、更に親水性と風合とが変化するのだそうですよ?」
と生田は黄に語り掛けた。
・・・・・・・・・・・・・・・
岸峰純子からの受け売りである。
彼女によれば
『白色腐朽菌の産生する加水分解酵素は、6,6繊維の表面を浸食し、旋盤で丸棒を削ったような溝を刻む』
のが高倍率の顕微鏡で観察されたのだそうである。
(ちなみに6,6製メンブレンフィルターなら、ボロボロに分解される。)
「まだ研究途上でモノに成るのかどうかは分かりませんが、毛糸のようなナイロン糸や、天鵞絨のような生地が出来るかも、って私たちが居た世界では情報が発表されていました。」と岸峰は語った。
「問題は強度でしょうね。単繊維に溝を切るわけだから。」
「そこは処理時間で調整が利くんじゃないかなぁ? ほら、細身の金属棒の太さを調整するのに”酸洗い”って手法があるじゃないか。」」と生田は応じた。
「むしろ問題なのは、そのペルオキシダーゼを産生する菌株だね。僕にはどこで採って来れば良いのか見当も付かない。」
「菌そのものは集めてあるんですよ。」と岸峰はタメ息を吐く。
「水酸化ナトリウムと高温・高圧とを必要としない紙パルプ製造ってハナシが有ったじゃないですか。アレ、片山くんが手を付けて、白腐れを起こした木から寒天培地に有望株の釣り上げを試していたんです。そしたら紙は藁半紙が安価に生産できるようになってバイオパルピングの必要性は低くなるし……」
「そうか。それに当の片山君が、ハシマ作戦で長崎に投入されているからねぇ。」
岸峰の憂い顔を見て、生田は
「逢いたいかい?」
と言葉を掛ける。
岸峰は「そりゃ、もう!」と恥じらうことなく率直に答えた。
「この世界に転移してきて以来の……いえ、それ以前からの同志なんですから。」
・・・・・・・・・・・・・・・
「おお! 石炭は焚物になるばかりでなく、絹にも天鵞絨にもなるのか。」
礼部尚書の感動に、生田技師は
「そうですね。しかしそれが出来るようになるには、長い時間が必要でした。」
と応じる。
そして少し笑って
「石炭の原料になる巨木が茂っていたのは、巨大な竜が普通に地上を闊歩していた時なのですからね!」




