カヤキ43 軍学漫談で「文永の役」について一席ぶつ件
酸性とアルカリ性は、水溶液中の水素イオン濃度(H+)と水酸化物イオン濃度(OH-)によって決まる。
めちゃくちゃザックリ言えば、液が酸っぱいか苦いかの指標だ。
対して酸化・還元とは、電子の遣り取り。
炭が燃えるのは炭素が酸化するからだし、鉄が錆びるのは鉄原子が酸化することによる。
ある物質に対して『酸素がくっつく』のが酸化で、同じく『水素を引き抜く』ことも酸化という。
逆に、ある物質に対して『水素がくっつく』のが還元で、『酸素を引き抜く』ときも還元。
このように『酸性・アルカリ(塩基)性』と『酸化・還元』とは、全く次元が異なる概念というか反応なのだけど、”酸”や”水素”といった出てくる漢字が共通だから、聴いてる方は混乱する(人もいる)。
だから今夜の講義では、酸化還元vs酸性塩基性の違いを、もう一度”おさらい”しておこうかと計画していた。
だって「硝酸塩や有機酸で酸性化してしまった圃場に、藁灰などの塩基性成分を添加することによって中性化を図る」といった説明や、「砂鉄みたいな酸化鉄は、炭素と一緒に高熱で熔かすことで、炭素が酸素を引き抜いて還元することにより、酸化鉄から鉄へと変化する」みたいな説明をするとき、”酸性・塩基性”と”酸化・還元”との意味の違いが理解出来ていなかったら、困っちゃうからだ。
けれども今夜、さて講義を始めましょう、という段になって何時もよりやたらと聴講者が多いことに気付いた。しかもどんどん詰めかけて来ていて、本堂の広間に入り切らずに庭に筵を敷いて、早くもお酒を飲んじゃったりしているメンツも。
毎晩のように夜間講座に姿を見せる、知識の吸収に熱心な諸藩の藩士ばかりでなく、仕事終わりには直ぐにお酒を飲みに行っちゃうタイプの人物までもが、何故か集まっているようなのだ。
――はて、今日はこの場で祭りの打ち合わせでもあるのか知らぬ?
と頭を捻っていたら
「センセ―! 今日はひとつ、軍学漫談でも聴かせて下せぇ!」
(実際には九州弁で「聴かせちゃらんね」なんだけど)
と声が掛かった。
軍学漫談とは――その日に構想していた講義の準備が間に合わなくて――苦し紛れに過去の外国の戦争について語ったことが以前に数回ほどあり、なぜだか”それなり”に好評を博したことを指している。
まあ、高校生なら世界史の時間に習った(あるいは先生が脱線して力が入っちゃった時の)ような内容なんだけど
〇ハンニバルがカルタゴ風”釣り野伏せ”で、ローマ軍に対して会心の勝利を収めた『カンネーの戦い(BC216年)』
〇義経の鵯越奇襲よろしく、オスマン・トルコ軍が70隻もの軍船を”オスマン艦隊の山越え”により陸路で移動・戦闘参加させた『コンスタンチノープル攻略戦(1453年)』
は、物珍しさもあって兵書読みの講談のような感じに「他所の寄席では聴かれんばい!」と結構ウケたのだ。
だから「センセ―、また一席ぶってくだせぇまし。」などという声も耳にするのだけど、こちらとしては化学とか生物学とかの話題に馴染んで欲しくて夜間補修を開いているわけだから、脱線ばかりかましているわけににはいかない。
だから、それとなく「今夜はどうなってるの? なんだか人が多いけど。」なんて今夜の宿直さんに訊いてみると
「”蒸気”の釜の具合だとかで、蚊焼村からの戻り船が帰ってこないんだとか。」
との簡単にして明瞭な返事。
「ですから、夕方の船で長崎の女郎屋へ繰り出そうって連中が、アテが外れて詰めかけて来ておるようですな。」
――ナルホド。釜の不具合ね……。
向こうで何が進んでいるのかは分からないけど、クマさんは”そういう理由で”『足止め』を食らっているという寸法か。
小型汽帆船は、蒸気が上がらなくても帆走で(なんなら櫂による漕走でも)動けるんだから、修理や整備をするなら蚊焼村の桟橋に停泊したままよりも、技師が常駐している高島港か長崎に移動する方が理に適っている。またイザという時の為に並走しているはずの内火艇に曳航させれば、自走する必要すらない。
だから蒸気釜の調整というのは、いわゆる『方便』に違いない。
蚊焼村側がそんな”訳アリ事情”なら、コッチも今夜の聴衆の期待に沿うべく――というか不満軽減のために――合わせるしかないだろう。
「じゃあ今夜は、久しぶりに軍学漫談でもやりますかね。」
僕がそう宣言すると「イヨッ! 待ってました。」と既に出来上がっているらしい酔っ払い集団から拍手が上がった。
藁半紙のメモ帳と鉛筆を手にしていた生真面目グループも、(苦笑混じりというか)笑みを浮かべて筆記用具を懐に仕舞う。
「じゃあ今日は、最初の蒙古襲来――1274年の文永の役ですね――のとき、赤坂から塩屋浜付近の戦いで、元軍が『てつはう』という炸裂弾を使用したのは皆さん御存知の通り。ですが、せっかくの新兵器を使用するのに、それが戦術的に見て正しい投入方法もしくは手段で行われたのかどうか、その妥当性を考えてみたいと思います。」
北部九州では、元寇のときの民間人に対する蒙漢・高麗連合軍の暴虐ぶりは長く怖れられ、『高句麗蒙古』という名の妖怪扱いであったくらいだから、関東・関西方面に比べて海外情勢や外敵に対する関心は根強い。
だから赤坂・塩屋の松・鳥飼浜という地名だけで、竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』に描かれた震天雷のエピソードがピンとくる。
だがそれは、今でこそ絵巻物に描かれた「炸裂する”てつはう”や鎌倉武士の馬から噴き出す血」は「後から書き加えられた」説もあるけれど、1600年代半ばでの一般的なイメージとしては、『八幡愚童訓』にある日本軍大敗と八幡大菩薩の加護による蒙古勢撃退だろう。
だから先ず「重さ4㎏の石を20m先まで、投げることは出来ますか?」という質問から入る。
聴衆の皆さんは石炭作業場で働いているから、キログラムとメートルの単位での仕事に既に慣れているので
〇4㎏=1.07貫
〇20m=11間
と換算して質問する必要は無い。
すると「一貫匁を十一間先までか、行けるかな?」 「20mなら投げれるだろう。」 などと声が上がった。
ちなみに砲丸投げの中学生日本記録(5㎏砲丸)は17.85m。
オリンピック記録だと、7.26㎏の砲丸を23m以上ぶん投げる超人も居るけれど、体格も違うし投擲技術も研究し尽くされた上でのものでもあり、あくまで例外中の例外。
そこで「元軍が使った”てつはう”ですが、重さがだいたい4㎏なんです。」と説明を加える。
「しかも炸裂弾と言っても爆発威力が限られています。端島の現場で発破に使っているダイナマイトには遥かに及ばない。せいぜい広くても2~3m四方くらいが破片が飛ぶ殺傷効果範囲でしょう。火縄銃が無い時代だったとしても、迎え撃つ方は危険を冒すことなく、弓矢で楽々返り討ちに出来ますよね。蒙古兵は兜こそ被っていましたが、鎧は着ていなかったそうですから。」
思った通り、場がザワついた。
「いや、しかし……初めて目にしたならば……」
「20m先で3m四方の爆発しかせぬ武器ならば、童どもの石合戦にも劣るぞ?」
続けて僕は
「それに上陸した蒙古勢には、前線に投入可能な騎兵が居ませんでした。理由は単純で、海を越えて馬を輸送するのが難しかったからです。蒙古勢の船団には馬船という馬匹運搬用の軍船は参加していたみたいですが、数は少ない。また波が荒い玄界灘を越えて馬を輸送すると――馬という生き物が敏感で臆病であるため――損耗も多く出てしまう。だから結局、指揮官……ええと侍大将階級が乗る馬を輸送するのがせいぜいで、ほぼ全員が徒歩の兵でした。騎兵の大群で大陸を縦横無尽に駆け巡った蒙古勢は、九州上陸を果たすなり、いきなり”それまでとは勝手の違った戦”をせざるを得なかったわけです。」
と、機動戦を得意としていたモンゴル軍が、歩兵オンリーの慣れない着上陸作戦で戸惑っていたことを指摘しておく。
次に、黒板に博多から赤坂(現福岡城付近)、鳥飼浜から祖原丘陵、室見川と百道浜の略図を描いて
「百道浜付近に上陸した蒙古軍は、先遣隊を赤坂にまで進出させます。対して日本勢は大宰府防衛のために博多に集結していましたが、一部の騎兵が赤坂の蒙古勢を強襲しました。」
と戦闘の発端を図示する。
「軽装歩兵だけの蒙古勢先遣隊は、日本軍重装騎兵の騎射突撃を受けて支えきれず、赤坂を放棄し鳥飼・塩屋方面に退却します。」
オオ?! と多少戸惑ったような声が聴衆から上がった。
彼らが親しんでいた『八幡愚童訓』の記述とは、大きくかけ離れていたからだ。
「鳥飼方面に退却した蒙古勢は、増援を得て態勢を立て直そうとしますが、更に日本勢の攻撃を受け、損害を払いながら草ヶ江潟を迂回するように後退して行きます。そして祖原丘陵に立て籠るのです。」
「ちょっと待った!」と声が掛かる。
「蒙古勢は箱崎にも寄せて来て、畏れ多くも筥崎宮に火を掛け、博多を焼き払ったのではなかったか?」
「違います。」と僕は自信タップリに応じる。
「蒙古側にその記録が無いからです。仮に博多を焼き払うのに成功していたら、軍功としてその成果を記さないはずが無いでしょう? 筥崎宮が焼けたのは単なる失火か、あるいは蒙古襲来の前から潜伏していた密偵の仕業でしょうね。少なくとも百道浜に上陸した蒙古勢には無理なんです。何故なら彼らの最遠進出地点は前述した通り赤坂までで、それ以降は緒戦からズッと退却を続けていたのですからね。」
それに、と続けて「一部の戦力を海路から箱崎浜方面に分遣隊として派遣するのは蒙古軍にとっては危険過ぎました。博多”那の津”の日本軍からは移動が丸見えですからね。戦力を分散すれば小規模の分遣隊など、陸路を進む騎兵と博多湾内を追跡する日本軍小早によって箱崎浜で挟撃され、各個撃破に遭うだけです。日本勢の戦力の全貌が把握しきれていない以上、蒙古軍としては百道浜に上陸させた全兵力を集中運用するしか選択肢が無かったのです。」と元軍側の事情を指摘する。
「なるほど分かった!」と別の声が上がった。
「蒙古勢は”てつはう”を、前に投げて寄せ際の攻め手に使うのではなく、退き際に使ったのだな。火を点けて後ろに投げつつ退く。これならば遠くに飛ばす必要がない。追って来た”敵”が、勝手に罠に掛かるというわけだ。」
「理に適った使い方、と言えるでしょう。」と、一応その考え方に賛意を示しておく。
ですが、と僕は問題点も指摘する。
「騎兵の移動速度を考えてみて下さい。馬の走る速さは時速60㎞/h以上。完全武装の鎧武者を乗せていたとしても、突撃速度は50㎞/hにはなるでしょう。秒速にすれば14m/s。”ひとぉつ”と数える間に14m、7間から8間くらい走るわけです。後ろから抜刀した騎馬武者が突進してくるときに、導火線に火を点け、正しい拍子で4㎏の鉄の塊を投げることが出来ますかね? 一拍間違えれば手元で炸裂するか、自分の首が飛ぶかも知れないのに?」
ウウム、という唸り声が本堂の広間に満ちた。
「そう考えると」と僕は続ける。「”てつはう”という武器は、攻める時・守る時の別無く、野戦に於いては使い難い武器だと考えられます。要害に守られた状況で、寄せ手来る敵に対して守りに使うのが最適なのではないでしょうか。例えば、城の上から石垣や土塁の下の敵に投げ落とすとか。」
そのような使い方をするならば、砲丸投げ選手のような秀でた腕力は必要なくなる。
「だから――結果論になりますが――蒙古勢は祖原丘陵の防戦になるまでは、”てつはう”を温存するべきだったと考えられます。高所に拠って、攻め上って来る敵に投げれば良かった。しかし時すでに遅し。矢玉の尽きた蒙古勢は、祖原の丘も守り切れず百道浜へと総退却します。漢人の副将が馬から射落とされたのも祖原を失った後でした。数少ない馬に乗っていた兜首だったから、目立ってしまったんですね。」
ほう、と聴衆から溜息が漏れたタイミングで
「じゃあ、今夜の軍学漫談はここまでとします。」
と締め括った。
すると、そのタイミングを待っていたように宿直さんが
「番所から使いの者が来ております。なんでも番所の洋灯の具合が悪いとかで。」
と耳打ちしてきた。
玄関に行くと江里口さんが来ていて
「明日まで待っても良かったんですが、洋灯に慣れると書見をするのに蝋燭では心許なくてね。」
と微苦笑していた。「便利なものには直ぐ頼り切りになってしまいます。」
僕は雑嚢を肩に掛けると懐中電灯を出し
「視てみましょう。直せるかどうかは分からないけど。」
と江里口さんと一緒に門を出た。
宿直さんも一緒に来てくれようとしていたけれど、番所の人が同道してくれるから、と断る。
――ランプの故障というのは、寺から僕を呼び出すための口実だな。番所に早良中尉殿かオキモト少尉殿か『待人来ル』で、寺では話辛い密談がある、という段取りだろう。
というのに直ぐに思い当たったからだ。
案の定、番所の奥座敷では武富さんと中尉殿、少尉殿がお茶を啜っていて、ちょっと驚いたことにクマさんも神妙な顔をして正座していた。
クマさんは僕の顔を見るなり、武士の顔で微苦笑し
「片山殿には、まんまと一杯喰わされましたな。いや天晴れ御見事。」
と低く唸った。




