カヤキ35 ボタモチを歩き食いしていて一本取られる件
高島の坑口工事はガンガンと進行し、炭脈含みの崖が切り崩されて平地化するとともに、崖下の磯場だった場所にも船着き場が形を成しつつあった。
今も排土板付きチハが船着き場予定地の上を念入りに往復して、地盤を固めている。
かく言う僕もホイールローダーの扱いに慣れ、ダンプへの積み込みがスムーズになってきた。
ただし高島坑口でのダンプへの積み込みは、船着き場が完成すれば終了となるのが決まっている。
船着き場が出来てしまえば、石炭はその場で俵か叺詰めにされ、横付けされた和船や大発に積み込まれることになるからだ。
だから蚊焼村では、高島や端島で大量消費される分の俵や叺編みの仕事が『問屋制家内工業』として村を潤すようになってきていたし、鍋島安芸守様(孫六さま)は大きな作業小屋を建てて人も増やし『工場制手工業』化を画策している。
また、この梱包資材製造作業の産業化の動きは佐賀藩領ばかりではなく、蚊焼村を視察した各藩の”情報将校”が地元へと早馬を飛ばし、来るべき自領での鉱物資源の採掘に備えて『蚊焼モデル』を模倣しつつあるということだった。
殊に石灰石や苦灰石が豊富な黒田藩の動きは早く、遠賀川上流の香春岳に山師を派遣して、既に試掘と河口部への積み出しをしているらしいから、俵や叺の大量生産は急務のようだ。
更に問屋制家内工業の動きは、、煉瓦製造に向いた良い土がある佐賀藩領有田・伊万里や大村藩領波佐見でも始動している。
石炭を火力とする磁器用窯を試作するためだ。
これらの地域は薪炭をエネルギー源とする高級品用の登り窯なら既に持っているが、それとは別に煉瓦積みの石炭窯で規格品の大量生産を行なうのが目的。
薪炭を用いるには森林資源の枯渇を招きかねない規格品の大量生産も、端島や高島の瀝青炭をエネルギー源とするならば山林の乱伐を避けつつ実行することが出来る。
また規格品の大量生産に用いる磁石も、長崎奉行所が天草代官所に繋ぎをつけて、天草砥石の資源開発に着手したと耳に入ってきている。
米の取れ高が額面よりも低く厄介者扱いだった天領天草も、掘った石が銭に替わるとなると、喜びで目の色が変わっているらしい。
さてこのように九州北部にはTF-H1が出現して以来、早くも雪崩的に激動の時代を迎えているわけだけど、江戸の御公儀からはまだ目立ったアプローチを受けるに至っていない。
長崎から江戸までといえば早馬飛ばしまくっても片道10日から2週間はかかる距離だから、限られた情報だけしか入ってこないで、老中やら側用人派閥も混乱状態にあるものとみえる。
また海路を採ったとしても、端島炭を積み込んだ長崎発江戸向け弁財船チャーター第一便が、関門海峡(馬関)を通過後、瀬戸内海を東に向かい、鳴門から紀州沖に抜けて遠州灘をようやく伊豆方面へ航行中といったところ。
風まかせ潮まかせの五百石船 vs 内燃機関のスクリュー船という船の性能を勘案すれば、所要時間だけを考えた場合1,500t級フェリーで東シナ海を寧波まで行く方が”近い”し”早い”のである。
考えてみれば幕末の時だって、ロシア船やアメリカ船が近海に姿を見せただけで大騒ぎになったのだから、現在の江戸城内では早馬の持って来た報告書だけを基に「誰を長崎に派遣するか」という一点だけでもケンケンガクガクの大論争が様々な政治がらみの思惑込みで争われているのだろう。
それに筆頭老中知恵伊豆(松平信綱)氏も公儀隠密長官(中根-平十郎-正盛)氏も”切れ者”だから、入手した限定情報だけからでも、長崎奉行所の地位・兵力程度では『謎の天領軍』を駆逐することも排除することも不可能なのは解っているのに違いない。
だから江戸幕府は京の御所や京都所司代とも連絡を取り合わねばならず、方針が決まるのにはまだまだ時間がかかりそうというワケだ。
この貴重なリードタイムを最大限に生かすべく、ミッテル様や早良中尉殿は日夜長崎界隈で暗躍し、事態の既成事実化を拡大中。長崎奉行所の担当者を天草まで送り届けたのも、早瀬を使った日帰り高速移動だったという。
ここ数日は奥村少佐殿も、水偵で佐賀城沖の有明海や博多湾から福岡城に出張するなど多忙を極めている様子。
それに比べたら、炭鉱で重機作業したあと夜学の講師をしている僕などは、(間に拳銃や小太刀の稽古が挟まるにしても)優雅な身分と言えるのかも知れない。
「片山くん、今日はもう上がって良いよ。」
ゴンドウ曹長から指示を受け、ダンプトラックを運転して港に戻る。
積み荷の石炭を集荷所に荷下ろしすると、集積所の班長さんから
「室長さん、御苦労さん。車輛点検はコッチでやっておくから。」
と点検整備を免除してもらい、ありがたく思いながら下宿先(お寺だけど)へと歩く。
途中、茶店のオバちゃんから
「修ちゃん。上がりなら一つ、抓んで行かんね。サービスだからお代はいいから。」
と牡丹餅をプレゼントしてもらう。
高島の港周辺は、選炭や俵詰めの作業が大規模に行われるようになり、また技術を学びに来る人物も増えて、飯場の小屋掛けが増え続いている。
石炭関連ばかりでなく、製塩やイワシの夜焚き漁も盛んだから、そっち関係の人も集まるばかりだ。
だから茶屋や一膳飯屋の出店も短期間のうちにモーレツに増えて、ボタを燃料とする湯屋の周囲は、さながら市のように賑やか。源さんがいたら『新町湯 高島館』になっていたかもしれない。
そんな状況変化があったせいか『サービス』みたいな外来語が、普通に使われるようになっているってわけ。
元から日本人は――殊に長崎人は”しゃぼん”とか”びーどろ”みたいなハイカラな物に目が無い。
そのせいか長崎の花街界隈では、「片山塾の門下生」を名乗る酔客が痛飲しつつ
「修一先生いわく、水は水素と酸素の結合物なり! 君知らざるや、万物の成り立ちを。」
などと高歌放吟しているのだとか……。
ボタモチをモグモグしながらお寺への坂を上っていると、不意に
すぱぁん!
と後ろ頭をハリセンでクリーンヒットされた。
振り返ると珠さんが満面の笑みで「一本っ!」と宣言。
そして油断していた事よりも、まあ御行儀の悪い! と歩き食いを怒られてしまった。
珠さん、どうも漁具を収納している漁師小屋に潜んでいたらしい。
お寺の山門からも、クマさんや宿直さんたちが顔を覗かせてヤンヤヤンヤと笑っていた。
僕が「今日は早上がりなのを、よく分かりましたね?」と質問すると
「ゴンドウ様が浜に無線を入れて下すったんですよ。そこからは自転車で寺まで早報せが!」
と珠さんが勢い込んで種明かししてくれた。
「宿直の御侍様が柚子皮を持ち帰って下さいましたからね。お聞きしていたレシピ通りに柚子胡椒を拵えてみたのです。饂飩も茹で上がるころですし、修さんには味をみて頂きましょうか。」




