弘光帝inマニラ4
椰子の樹と植民地様式風の建物が並ぶ表通りを、車列隊はソロソロと速度を殺して這うように進行する。
産業革命以前の時代の道路だから、馬車や荷車が通行できるだけの幅はあるから、つっかえる事まではないが……狭い。
また、戦闘は起こらなそうだと安心した住民が、おっかなびっくり野次馬として道路に湧き出してきたのも、運転手にはプレッシャーになっていた。平和使節団が人身事故を起こすわけにはいかないからだ。
参加装甲車両が軽装甲車だけだから何とかなってはいるが、M3スチュアート軽戦車や97式中戦車だったら車輛での前進は諦めざるを得なかったかもしれない。
先頭は97式軽装甲車で、戦車帽の車長が砲塔から上半身を覗かせ、イエズス会の旗を掲げていた。
履帯が石畳を踏みしめるキャラキャラという音が鳴り響く。
2輌目にはナビシートにキノ神父が座る武装ジープだ。
M2重機関銃の銃手席には藤左ヱ門が仁王立ちになり、左手で銃把を握って、右手で小倉家の紋の旗を振っている。藤左ヱ門は風折れ烏帽子に直垂と、隊列の中では唯一の和装だ。
藤左ヱ門がにこやかにしているのとは対極的に、神父は何故か呆然とした顔をしていた。
3輌目からは幌を畳んだ自動貨車が18輌、ずらりと続く。
それぞれが明国旗・鄭家の旗・日章旗など、とりどりの旗を揚げて賑やかだが、オープントップの荷台に乗車した兵は皆若く、ヘルメットの目庇の下からは油断なく周囲を警戒する眼が光っていた。
彼らはイスパニア兵や植民地兵の襲撃を警戒するというよりは、見物している子供たちが面白がってトラックに触ろうとするのを警戒していたのだ。
だから、ひっきりなしに「エス ペリグローソ!」とか「クイダード!」などと叫び続けていた。
最後尾は先頭と同じくテケが務め、こちらの車輛は砲塔が後ろ向きだ。頭を出した車長も後方を監視している。
先頭の装甲車が37㎜砲を突き出しているのに対して、最後尾の装甲車は7.7㎜機銃搭載車輛。
また被牽引車の上には月之進が座り、面白がって車列隊を追って来る子供らに、飴やビスケット、舟艇母船の厨房で焼き上がったばかりの餡パンなどが入った紙袋を放ってやっていた。
「明国皇帝陛下からのプレゼントだ!」
餡パンの製造が始まるのは、本来なら1874年のことだから、時代を230年ほど先取りしていることになる。
ただし、月之進が撒いているパンは砂糖の代わりに麦芽糖を使用しているから、餡の甘さは控えめだ。
けれども受け取った子供たちは、口々に「リコ!」とか「デリシオーソ!」と満足そう。
ことわっておくが、藤左ヱ門(や加山少佐)にしてみれば、菓子や菓子パンを撒くのは慈善のためではない。
これから乗り込むイエズス会マニラ教会堂で、交渉を有利に運ぶための布石である。
野次馬の子供たちをゾロゾロと引き連れていれば、衛兵だって無闇に剣を抜くことは出来まい、という計算からである。
車列隊が教会堂の前に着くと、ジープから降りたキノ神父と藤左ヱ門が扉に向かった。
教会からは修道士らが「何事ならん?!」と身を乗り出していたし、その中には司教の姿も有った。
司教の姿を認めた藤左ヱ門はすかさず跪き
「ご機嫌麗しゅう。司教様。」
と十字を切った。
司教の方も扉から出て「小倉家の頭領よ、息災であったか。」と鷹揚に頷いて、余裕のあるところを見せる。
大勢の人目があることだし『これは何の騒ぎだ!』と逆上した姿を晒すわけにはいかない――と云うわけである。
元々イエズス会が焚きつけたマニラ日本人街の援明義勇軍は、ダメ元(駄目で元々)で上手く行けば失地回復を果たした折りには明国干渉への布石、という下心が有っての『捨て駒』でしかなかったので、藤左ヱ門が行きに数倍する軍勢を連れて、こうも早く戻って来ようとは思ってもいなかったのだ。
両者が挨拶を交わしている短い間に、トラックから飛び降りた小倉兵が荷台から米俵5俵と麦俵5俵、雑穀5俵を教会の前に積み上げる。
台州戦で得た鄭隆勢の戦利品取り分の一部だ。
それから藤左ヱ門が前に進み出、司教にズシリと重い皮袋を手渡す。
司教は持っていることが出来ず、よろめいて袋を床に降ろす。中からは黄金の輝きが漏れた。
「神と教会とのお導きで、華々しい勝利を手にすることが出来ました。寄進させていただきます。お納めを。」




