カヤキ31 実は緊張感に満ち満ちている平凡な夕べの件
「修さん、洗濯物は取り込んでおきましたぜ。今、着てる汚れ物もチャチャッと脱いじまって下せェ。」
高島採炭場候補地から戻ってくると、ツノクマさん――元い、クマさん――が声を掛けてくれた。
「ああ、ありがとうございます。洗う方は自分でやりますんで。水浴びもする事ですし。」
僕がそんな事を言いながら汚れた顔を擦っていると
「あらあら修さま、洗い物なら私が。」
と珠さんが庫裏から顔を出した。「偉丈夫が、男鰥みたような真似は止めて下さいまし。」
男やもめとは、妻を亡くした夫のこと。『女やもめに花が咲き、男やもめに蛆が湧く』なんて両者を比較した(というか、男やもめをコキ降ろす)慣用句がある。
ちなみに僕は”部屋住みの書生っポ”だから、男やもめですらないわけで、特に貶されたという感慨も皆無。
実はこの”珠さん”が問題の人物で、寺男がどこぞから連れて来た”縁続き”なんである。
歳の頃なら二十歳過ぎくらいか。
『鬼も十八、番茶も出端』よりは上だが、『小股の切れ上がった年増』と形容するにはまだ若い。
龍造寺カルトかつ割かし若い女性で、しかも『タマ』だから、ガッツリ鍋島の化け猫感がアリアリなのだけど、コケティッシュな猫というよりはクールな狐系の美形。
端島に来るまでは――本人の弁によるならば――温泉宿で仲居さんをしていたらしい。
江戸時代には人別改という戸籍調査があって、人別帳という書類が作られていたわけだけど、問題のカルトは”流れ物の犯罪集団”というわけではなくて元から肥前の住民なのだから、書類上は異状なく辻褄が合わせてあるに違いない。
一応、古狸の武富さんが裏付け調査をしてくれてはいるけど、「簡単に尻尾を掴ませるようなタマじゃあなかろうなぁ。」とダジャレを言って、自分でウケていた。
ついでに件の寺男はといえば、珠さんを連れてきたのと同時に、長年の体調不良を理由に寺男を辞めている。
しばらく湯治に出るとか何とか言っていたらしいが、珠さんが『何かをやらかす』のに巻き込まれたくなくて逃げたのだろう。
ちなみにクマさんが、なんで寺男が戻ってきた後も端島に残っているのかというと
「えっへっへ。いえね、ウチの殿が急に江戸まで用事を言い遣ってめえりやして。アッシは当然御供と心得ていたんでやすが、路銀が馬鹿にならないからオメエは留守居してろ、なぁんて言われちめぇました。奉行所務めは辛気臭いナァと溜息ついてたら、御奉行様から『そんなら、お前は端島で寺男の助っ人を続けてろ』なんてね。ハイ、そんな訳でござんすよ。」
という事だ。
つまり、隠密の元締めである側用人 中根平十郎(壱岐守)への伝令を、調役下役の本所さん自らが務め、そのことは長崎奉行自身も了解済みという風に理解できる。
(もっとも老中派には口を噤んでいるというわけにもいかないだろうから、御奉行様としては両睨みで別口に伝令を出しているのも間違いない。報告内容が同じかどうかは知らないけれど。)
さてさて、珠さんに服を脱いで渡せ、と言われた僕はというと
「妙齢の美女に脱いだ服を渡すとか、恥ずかしくて無理です!」
とキッパリ断った。
体育会系の連中ならマネージャーに洗濯してもらったりもするのかも知れないが、生物部にはそんな伝統はない。
それに、そもそも僕が岸峰さんにそんな事を頼んだりしたら
「ブッ飛ばす!」
と大喝されるのは確実なトコロで、君子危うきに近寄らず、自分の事は自分でやるのが海の漢の伝統なのさ、と嘯いていた方が万事丸く収まるというものだ。
まあそればかりではなく、直に身に着けている小型ピストルを改められたりしたくない、というのが最大の理由であったりするのだが。
すると珠さんは「そんな恥ずかしがるもんじゃありませんよ。修さんは弟くらいの年恰好なんだから。」と艶めかしく笑った。
「さあ、私のことは姉だと思って。」
寺男代行としてはイヤに馴れ馴れしい言動ではあるまいか、と考える向きがあるかも知れないが、これにはチャンと理由がある。
珠さんは到着当初、御住職に寺男補佐の職務を許されると、僕のところへもやって来て
「御奉公に上がらせていただく珠と申します。庫裏の仕事のみならず、ご逗留のお武家様のお世話も言い遣っております。至らぬ点はございましょうが、何なりとお命じ下さいませ。」
と神妙この上無い面持ちで挨拶をしてきた。
来るのはカルトのスパイか幹部の可能性が高い人物なのだから、普通ならクマさんみたいな隙の無い”働き盛り”男性を予想するところだが、なにしろ『鍋島の化け猫騒動』を知っている僕としては『ある意味想定の範囲内』でもある。
だから『窮鳥入懐――窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さず』方式で甘えてみることにしたのだ。
僕は正座をすると深々と頭を下げ
「片山修一と申します。本を読むこと以外、右も左も分からぬ部屋住みの若輩です。世間知らずで御迷惑をおかけすることばかりでしょうが、よろしくお引き回し下さいませ。」
と挨拶を返した。
そして「お見かけするところ、珠さまは丁度ワタクシの姉ほどにあたるお年頃かと存じます。何かとお世話になる事でもありますし、ワタクシの事は弟分の心算でシュウイチと呼び捨てににお願い致します。」と再度土下座。
これには二つの計算があって、一つ目は疑似姉弟関係を構築することによって、相手の攻撃性向を鈍らせるため。加えて残りの一つは、疑似姉弟の条件付けを行うことで珠さんからの色仕掛けを封じる、という目的だ。
どちらも脆い心理的防壁かもしれないが、薄かろうが脆かろうがバリアは無いより有る方がマシだろう。
と、まあそんな初対面からの流れで、今に至る。
僕がもぞもぞして困っていると、珠さんはホッホッホと妙齢美女にしては豪快に笑い
「じゃあ、身ぐるみ剥いじまうのは又の機会ということで、早く水浴びをお済ませ下さいませ。ご学問の会が始まる前までに夕餉を食べて頂かなくては、お腹が空いて目を回しておしまいですよ。」
と解放してくれた。
それを見てクマさんも
「アッシも、皆さんの夜食の支度を手伝ってめえりやす。」
と僕に意味深な目配せをくれると、珠さんを追って庫裏に入った。
幕府の隠密として、カルトの珠さんが夜食に毒をもったりしないか、監視に行ってくれたのだ。
僕の『暢気でオッチョコチョイの学問バカ』という設定を、二人がどこまで信じてくれているのかは分からないが、腕利きの隠密とカルトの大物とが互いに牽制し合う事で、僕に対するマークが少しでも薄れるのは有難い。
僕は汚れた作業衣袴やシャツを洗って物干しに掛けると、クマさんが取り込んでいてくれた洗濯済みの服を身に着けた。
それからリュックのポケットを探って、岸峰さんと雪ちゃんとが残してくれていた『お守り』を取り出し、少しの間だけだけれど”穴が開くくらい”の眼差しを注ぐ。
二人からのプレゼントは、今日も僕に気力と活力とを補充してくれた。




