「わとうない」誕生
「御苦労、中尉。」
紹興仮設滑走路から偵察機で寧波に戻った百道中尉は、ハミルトン少佐から笑顔での出迎えを受けた。
「貨車山砲は勿論だが、試製ロケットも役に立ったようで何より。」
「煙幕放出機の威力は凄まじいものでした。面制圧という意味では圧倒的です。欧州戦線でドイツが”あれ”を大量配備するとなると厄介ですな。」
百道は答礼すると「……いえ、既に遠い異界の事を心配しても仕様がありませんでした。」と言葉を切り「しかし、爆装機の件では御迷惑をおかけしました。しかも、使わず終いで。」と話を替えた。
「構わんよ。」とハミルトンは事も無げに応える。「むしろ航空爆弾を節約できたのは有難い。」
そして「李成棟が見つかったそうだな。」と続けた。
「それと、我々が要注意としていた人物も。疲れているだろうが詳しい処を聞かせてもらおうか。」
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結論から言えば、李成棟は指揮所としていた城内の邸宅で自刎(自分で自分の首を刎ねる自決方法)した姿で発見された。
また近くでは、福松配下の騎馬偵察隊を指揮していた林が、膾切りに刻まれて死んでいた。
林は白襷姿であったという。
杭州で投降した清国軍俘虜から、福松らが聞き取った情報は以下である。
寧波陥落の報を受け、南京(応天府)の予親王ドドは、長江を遡った位置にある九江方面から戻って来た李成棟に奪還を命じた。
李成棟は当初、南昌の平定を命じられていたのだが、海岸伝いに勢いを示す南明軍の北上が急で、ドドとしても南昌などに兵を送っている余裕が無くなってしまったのだ。
李成棟は南昌攻略軍12,000のうち、500を殿として九江に残すと長江を下った。
元々南昌攻略軍は15,000の兵力を擁し、更に道々徴募兵を加えて行く予定だったのだが、寧波・台州方面での苦戦が伝わると「旗色悪し」と逃亡が相次いだ。
九江を後にする時には、出発時よりも兵数が減少していたのである。
500という中途半端な数を殿軍を残さざるを得なかったのも、匪賊化した逃亡兵のために治安が悪化したためだ。500程度では”焼け石に水”というのも解ってはいたが、寧波を陥落させた『新倭寇』を制圧するためには万余の纏まった兵力が不可欠で、それ以上は割くことが出来なかったという”よんどころない”懐事情があった。
李成棟軍が蕪湖にまで戻ると、事態が容易ならぬ処まで来ていることが分かった。
蕪湖で彼を迎えたのは、予親王ドドから特に遣わされた政治将校の梁化鳳と、その部下1,000である。
梁化鳳が携えてきた情報によれば、寧波を荒らしている新倭寇は、今までのような神出鬼没が故に征伐し難いという類の海賊などではなく、紅夷砲や新式銃を大量に持ち、あまつさえ空から凧で襲い掛かって来る化け物だという信じられない話で、南明朝と手を組んでいるとも伝わっている。
討伐に向かった名将 呉三桂ですら歯が立たず、しかも凧から投げ落とされた震天雷で爆殺されてしまったということだった。
李成棟子飼いの中核部隊の将兵10,000弱は、『嘉定屠城』をやってのけた血塗られた部隊だったから”御伽噺”を鼻で嗤って相手にしなかったが、指揮官の李成棟自身は「話半分だとしても容易ならぬ相手である。」と認識し
「それならば、寧ろ寧波へと討って出るより、各城の兵を纏めて応天府まで兵を退き、南京城の堅い城壁に拠って、新倭寇を引き付けるのが良作であろう。」
と考えた。
――南京城の城壁は厚く、しかも高い。ひたすら城中で敵の攻撃を耐え忍んでいたら、必ず攻め厭いた敵には隙が生まれよう。その機を逃さず打って出る。
という策である。
けれど、その策は梁化鳳から却下されてしまった。
「予親王閣下の御命令は、あくまで寧波の奪還です。応天府以外は一時的にと云えども敵の手に委ねるなどという策は、以ての外。お許しにはならないでしょう。」
梁化鳳は新進気鋭の政治将校でドルゴンやドドの覚えも目出度く、実績は李成棟に劣っていても降将である李成棟は彼の持つ”命令書”を拒否するわけにはいかなかった。
それに李成棟には、ドドの持つ焦りも理解出来た。
河南の穀倉地帯を南明朝に渡せば、順天府(北京)が干上ってしまうのである。
中原でも麦や稗は収穫できるにしても、穀物の収穫量は圧倒的に河南に劣り、順天府は河南の実りを京杭大運河で吸い上げることによって成り立っている。
穀物ばかりではない。絹や綿、茶といった商業製品の一大産地でもあるのだ。
――南京籠城が長引けば、干上がった順天府は早晩”瓦解”を免れぬ、という事か。
蕪湖から杭州にまで軍を進めた李成棟は、頭を抱えた。
杭州の守備兵は、既に呉三桂らと共に寧波へと向かい、壊滅した後だったからである。
無錫や蘇州、紹興といった大都市も同様だった。
聞けば、寧波に長城を築くのに始まり寧波が陥落するまでの間に、10万余の兵を失ったのだと言う。
それ以前に、台州にて温州攻略の目的で集結していた軍なども失っているから、清国軍の損害は合計すれば15万では済まないだろう。
無論その15万の中には死んだ者も含まれていようが、多くは脱走したか寝返ったわけで、清国軍が弱体化した分、南明(加えて新倭寇)勢力は兵を増やしたわけである。
李成棟の努力は、無錫や蘇州、湖州といった諸城に僅かに残されていた守備兵を根こそぎ動員するところから始まった。守備兵を残さず動員すれば各都市の治安の悪化は避けられないが、今は構ってはいられない。新倭寇を叩いてしまわねば後が無いのだ。
桐郷・嘉興・松江でも同様のことを行なおうとしたが、そちらでは失敗に終わっている。
杭州湾の海岸に近い諸都市では、新倭寇の『信じられないほど遠くからの砲撃』によって兵は逃散し、既に無政府状態になっていたからだ。
討伐に兵を送っている余力は無い。海岸に近い都市は捨て置くことにされた。
また馬鞍山や銅陵といった長江沿いの城からの動員は、更に悲惨な結果を迎えている。
上虞戦に大きな影響を与えた低気圧が、ここ(とその上流)にも大雨を降らせていたのだ。
激流と化した長江によって、水没者・行方不明が数知れずとなり、最終的に杭州に到着出来た者は8,000に満たなかった。
以上の結果から、李成棟が杭州に搔き集めることができた兵力は
〇李成棟直轄分(元南昌攻略軍):11,500
〇梁化鳳配下分:1,000
〇太湖沿岸諸城留守居分:5,000
〇長江沿い諸城動員分:8,000(最終時合計)
の計25,500。
それに加えて杭州や徳溝で3,000人を新規に徴兵しているが、新たに集めた兵には戦闘訓練を行わせる猶予は残されておらず、荷車や川船での輸送任務か土木作業に充てるのがせいぜいだった。
(本来なら、輸送や工事といった経験値が必要な作業はその道の経験者に任せないと、事が上手く運ばない。清国軍のロジスティクスは既に破綻していたのだ。)
台風によって兵の移動が遅延したり損害が出たのは痛かったが、李成棟は富春江の洪水を『紹興に進出しない理由』として使う事が出来た。
水位が上がった富春江を見れば、梁化鳳とて渡河を無理強いはできなかったからだ。
嵐が過ぎると早速対岸には敵が姿を見せ、川舟を集めたり筏をこしらえたりし始めた。
紹興が南明軍の手に落ちたのだ。
李成棟は富春江を楯に南明軍を撃退するべく、兵ばかりでなく住民も総動員して土塁を築き、カタパルトを配置した。
動員された住民は次々に逃亡したが、李成棟はそれを止めようとはせず、梁化鳳との間で論争が起きている。
「逃げようとした者は処断すべし。」と主張する梁化鳳に対して、李成棟は「訓練を積んだ兵は兎も角、槍や弓を扱えない者なぞ惜しくはない。むしろ無駄飯喰らいが減った方が籠城する上で利が大きい。」と論破し、退けている。
(元々李成棟は南京籠城を上策と考えていたわけだから、それを杭州籠城へと切り替えたわけだ。紹興までが南明朝の勢力下に入ったのを見て、さしもの梁化鳳もドドからの指令がどうであれ『寧波へと一足飛びには進めない』のを理解したのだろう。)
南明軍は渡河準備を終えると、夕暮れの薄闇を利用して渡河を開始するという奇襲を仕掛けてきた。
先遣隊は河岸の守備兵を駆逐し橋頭保を築いた上で、後続の教導任務に就くものと思われた。
しかし投石機の放つ散弾を受けて、南明軍先遣隊は退却した。
敵先遣隊を撃退したことで清国兵の士気は上がったが、梁化鳳は「一度、敵を着岸させてから鏖にするべきであった。」と李成棟の指揮を批判している。
これに対して李成棟は「貴殿の考えるように事が進めば慶福の至りだが、上陸した敵が手強ければ制圧に手間取り、その間に次々と敵の新手を呼び込むことになる。退き手の見事さから考えて、先手の将(とその部下は)侮れない実力を有していたのは間違いない。」と反論した。
その後、紹興側からの強行渡河の試みは見られなくなったが、代わりに南明軍は話にも聞いたことが無いように強力な紅夷砲を使って、昼夜を分かたず砲撃を加えてきた。
加えて火砲や数百丁の鳥銃を積んた鉄張りの船、恐ろしい凧も猛威を振るい、清国守備隊は疲弊した。
当初28,000(新規徴募兵含む)ほど居た兵数も死傷・逃亡が相次ぎ、武器を手に取れる者は15,000弱と半分ほどまでに減少している。
特に深刻だったのは南明軍が途中から使い始めた『叫ぶ砲』で、爆発の威力も凄まじいが、この音を聞くだけで半狂乱になる守備兵が続出している。
梁化鳳が砲の破壊を買って出て、配下を紹興側に送り込んだが全ての試みが失敗に終わった。
李成棟は河岸陣地での水際防衛を諦め、城まで防衛ラインを下げざるを得なかった。
危機的状況に陥った清国軍だが、宣城・リー陽・朗渓から計3,000、常州から5,000の援軍が到着したことで、なんとか息を吹き返した。
だが”息を吹き返した”だけで、”一息つけた”わけではない。
相も変わらず、南明軍は砲と凧での圧力を掛け続けてくる。しかし、富春江を渡る様子は見せない。
川船を相変わらず集めているのに、だ。
――杭州を攻めるのに、富春江を渡る心算は無い? 紹興の敵は陽動か!
そう考えた李成棟は、南明軍は豊富な軍船を使って海塩に兵を上陸させ、東から杭州の横腹を衝く計画だと考えた。
「挟み撃ちされれば杭州は保てない。一度、海から離れた湖州まで兵を退き、そこで決戦する。」
と梁化鳳に持ち掛けたが、政治将校はその案を受け入れなかった。
「予親王閣下の命令は、寧波の奪還です。それが出来ないばかりか、湖州まで兵を退くなどお許しにならないでしょう。」
そして梁化鳳は
「海賊は自在に海へと逃げるから討伐が難しいのです。逆に陸へと攻め込んで来る場所が分かっているなら、迎え撃つ陸兵に利がある。」
と、まだ元気な常州兵5,000を率いて海塩に向かった。
「百や二百の鳥銃など、虎蹲砲の前には豆鉄砲。蹴散らして清国の力を見せつけてやりましょうぞ。」と意気揚々だったらしい。
結果的には海塩海岸に進出した常州兵が、逆に鎧袖一触で連合水軍に粉砕されたのは前述した通り。
梁化鳳は海塩を放棄して杭州に逃げ戻った。
海塩占領に呼応して、紹興の南明軍も動きを活発化した。
今にも再度の渡河を試みようか、との勢いだ。
しかし、ここで李成棟は致命的な判断ミスを起こす。
海塩から逃げてきた梁化鳳の「敵の攻撃主体は、東方の水軍勢。紹興の敵は渡河を試みても、助攻でありましょう。」というのを信じたのだ。
ただ李成棟や梁化鳳の判断の誤りを弁護するならば、鄭芝龍の上陸部隊を杭州攻略の主攻部隊いだと間違えても仕方がなかった、という面は否定できない。
機甲部隊の着上陸など『有り得ない』時代なのだから、それを目にして敵主力と誤認するなと言う方が無茶なのだ。
そこで李成棟が立てた策というのが
1)杭州から清国兵は撤退したものと見せかける。敵の鉄戦車は意気揚々と海塩から杭州城へと入城してくるであろう。
2)城で鉄戦車を出迎えるのが、白襷を身に着けた兵ならば、海塩から来た南明軍は油断して接近を許すであろう。(李成棟も梁化法鳳も、紹興の南明勢に白襷のエリート兵がいるのは先刻承知していた)
3)偽白襷兵は、鉄戦車に接近したら一斉に襲い掛かって乗員を殺す。馭者さえ殺してしまえば鉄戦車を奪うことが出来る。
4)鉄戦車を奪われた南明軍は、海塩と紹興から兵を退くであろう。
というものだった。
白襷兵への擬態は、そもそもは95式軽戦車と武装ジープの無力化(叶うことならば奪取)が目的であったわけだ。
願望先行の奇策だが、そこまで河南の清国軍は追い詰められていた、という事でもある。
作戦が漏れないよう李成棟は城から住民を追い出し、宣城などから集めた兵3,000に白襷を身に付けさせた。
また軽傷の負傷兵5,000ほどに旗だけを持たせて、紹興からの助攻を牽制するため、富春江河岸陣地へと派遣している。
更に梁化鳳へは海塩から退却した3,000の兵を預けて、富春江から敵が上陸してきた場合の備えとした。
〇清国軍杭州守備隊兵力(決戦時)
杭州城) 李成棟直轄:5,000
偽装白襷兵:3,000(宣城兵ほか)
諸城留守居:5,000
河岸陣地)常州兵 :3,000(梁化鳳指揮)
負傷兵 :5,000
紹興の南明軍は、苛烈な砲撃とともに渡河を開始。河岸陣地に詰めていた負傷兵部隊と常州兵は、犠牲を払いながらも助け合って、予定通りに城内へ向けて退却した。
李成棟は海塩から鉄戦車が進撃してくるものだと斥候をバラ撒いていたが、あにはからんや東側から南明兵が接近してくる気配がない。
対して紹興側からは「続々と大軍が渡河しており、後続は遥か遠くまで列を成し、数えること能わず。」と悲痛な報告が届く。
精強無比と見えた海塩の敵戦力が単なる”助攻”であり、紹興側の南明軍こそが杭州攻めの”本命”であったわけだ。
易々と南明軍の渡河を許して「謀られたか!」と李成棟は愕然としたが、今から富春江へと全軍を振り向け水際防衛を行なう時間は無い。既に敵は橋頭保を築いてしまっているのである。
また、この期に及んで湖州方面へと撤退するという選択肢も最早ありえなかった。逃げれば兵は散り散りになり、嵩にかかって追撃する敵軍に呑み込まれてしまうだろう。
それに河南の清国兵力は、本丸たる応天府を除いては、全て搔き集めてしまった後だ。湖州まで逃げおおせたとしても再編は不可能なのである。
「残された策は」と李成棟は主だった者を集めて力説した。「刺し違えてでも、この杭州で南明勢を止める。もはや我らの他には、戦力は皆無だ。”ここ”を抜かれれば、揚子江の南に居る清国に忠誠を誓った者は鏖にされよう。戦って死ぬのも捕まって死ぬのも同じかもしれないが、同じ死ぬなら千に一つの勝利に賭けようではないか!」
聴衆は異様な興奮に包まれて、拳を突き上げ鬨の声を上げた。
南明軍は後続を収容して兵力を増やしつつ、ゆるゆると前進し、決して急がない。
圧倒的な兵力差をつけてから、一気に攻めかかる心算であると見えた。
そして夕暮れを迎え、野営の支度を始めた。
また道々に篝火を焚いて、後続への道標としている。敵は夜間にも抜かり無く兵力を増やしつつあるようだった。
「夕餉を採っているようですな。今なら敵も油断しておりましょう。」と梁化鳳が献策した。「全軍を挙げて攻めかかれば?」
彼は河岸陣地からの撤退戦を指揮して数度の待ち伏せ攻撃を行ない、偵察隊らしい南明兵を始末してきたたところだった。
「それより、敵を慌てさせてやろう。」と李成棟が策を立てた。
「南門を開け放ち、城に火を掛ける。」
「城に火を?!」と驚く梁化鳳に、李成棟はニヤリと笑ってみせた。
「城から火の手が上がれば、敵は我らが逃げたものと考えて、急ぎ入城して火を消そうとするであろう。……そこを白襷の兵で、切り立てる。敵は謀反か同士討ちが起こったと考えて惑乱するだろう。」
「それは上策!」と梁化鳳も破顔した。「乱れた敵を、城内で鏖殺するわけですな!」
頷いた梁化法は「貴殿には、難しい役割を引き受けて頂きたい。」と持ち掛けた。
「兵を500ほど率いて、敵斥候や道標の篝火を襲ってほしい。そして出来れば偽の篝火をあちこちに焚いて、敵の後続を迷子にしてしまいたいのだ。」
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「なるほど。」とハミルトンは頷いた。
「南明軍にも清国軍にも、色々と読み違いや齟齬が有ったと云うわけか。」
「はい。」と百道も同意する。「相手がある事ですから予定通りには進みません。特に戦場では。」
「それで結局、李成棟軍のクラッシュの引金を引いたのは、林氏の働きによるもの、と考えて良いんだね?」
ハミルトンの問い掛けに「ええ。」と百道が応える。
「煙幕放出機の砲声を合図に馬将軍が総攻撃をかけると、白襷の兵が『李将軍は逃げた! 湖州で再起を期す。皆、城を出て湖州へ向かえ!』と清国陣内で触れ回った者が居た、という事で。」
「死兵と化していたはずの守備兵が、それで乱れたのか。元々李成棟は一旦は湖州撤退を考えていた節があったみたいだから。」
ハミルトンが感慨深そうに言った。「林氏はそこまで読んでいたのだろうかね。」
「そこまでは分かりません。」と百道は首を振った。「部下の仇を討ちたかっただけなのかも。何しろ彼の部下のほぼ全員が、杭州で死んだわけですから。」
そして「とにかく彼は、これ以上は無いという絶妙なタイミングで清国陣営に混乱を起こすと、剣を片手に李成棟の首を狙った、と考えられます。」と続けた。「自らの手で討ち果たす事は叶わなかったようですが、結果として李成棟は自刎しました。」
「見事に仇を討ったな。彼も本望だろう。」と感想を述べたハミルトン少佐は「ところで」と話題を換えた。
「ミスタ内藤――伍長の方でなく、監物・内藤の方だが――が首を獲った将というのが、梁化鳳だったというのは大きいね。」
と意味有り気な表情をした。「カタヤマ・レポートにあった、あの梁化鳳だろう?」
梁化鳳は1659年の『南京の戦い』で、清国軍の総兵(軍団長)として南京籠城戦を戦い、10万余の鄭成功軍を壊滅させるはずの人物だから、である。
片山修一は端島に向かう前、南京攻撃時の注意点として籠城軍が突門を使用して奇襲を仕掛けてくる可能性をメモに残している。
メモはカタヤマ・レポートとして御蔵軍では広く読まれていたし、南明朝に属する人物としては鄭隆と英玉(長平公主)、それに趙士超が接している。
史実としての南京の戦いが起きるのは、今からまだ14年も先の予定だが――それどころかその前に河南の清国勢力が駆逐されそうではあるのだが――1659年の清軍勝利の立役者を一介の政治将校の身分のうちに未然に排除出来たのは、南明朝と同盟している御蔵勢にとっては大きな出来事であると言えた。
「ただ、ミスタ内藤にとっては不幸なことに、自分が切った将軍が『そこまでの大物』だとは知り得ないことだね。……将官の首だから、それなりの栄誉は受けるのだろうけどね。」
少佐の指摘に、百道は「どうも、妙な事に成っていまして。」と異議を唱える。
「大将軍は、馬得功に次ぐ戦功二位に彼を挙げました。……福松将軍の独断が気に入らなかったようで、意趣返しのように。」
「ほう? 唐王と鄭成功との間に、隙間風が吹いている?」とハミルトンは難しい顔になった。
「魯王から戦力を削り取ったり、鄭成功を疎んじたりと、唐王の振舞には”きな臭い”ものがあるな。……上昇志向が強烈な人物であるという、傾向は見えていたが。」
「イエッサー。」と百道も表情を引き締める。
「そして内藤監物を、大功を挙げた倭刀使いの達人として重用するようです。『倭刀内』として一軍を率いさせ、明石隊から独立させた上、自分の近衛としました。」
「配下を引き抜かれた分、明石掃部の騎馬銃隊は弱体化する、というわけか。」
ハミルトンは、どうにも困ったものだな、と表情を硬くした。
「捕虜の話を聞く限り、南京への道はハイウェイのように平らかになっているとしても、だ。まだ戦争が終結したわけでもないと云うのに。」
「はい。それに『わとうない』というのが、気に掛ります。」と百道が応じる。
「それがどうかしたかね?」とハミルトンが不思議そうな顔になる。
「和刀使いの内藤で、日系人だからJapaneseで『WATHO-NAI』と呼ぶのに決めただけじゃないのかね?」
「少佐殿にはピンとこられないかも知れませんが、日本人には不思議な暗合と感じるネーミングなのです。」と百道が説明する。
「近松門左衛門という劇作家が、1715年に明清戦争を舞台に『国性爺合戦』という戯曲を書くのですが、その際の鄭成功――ここでは鄭福松将軍ですが――の名を『和藤内』としているのです。」
そして「ここでは福松将軍が鄭成功に成っていないのに、別に『わとうない』が現れた。それが引っ掛かっていまして。」と、大きく見開かれた少佐の目を見つめた。




