富春江第二次渡河作戦17
夜間であるから、紹興仮設滑走路に進出していた2機の偵察機は地上待機を余儀なくさせられているが、仮に杭州上空を飛行していたならば、眼下の清国守備兵が雪崩を打って城内を北へと逃げているのを目撃したことだろう。
しかし、北方の門から首尾よく城外へと脱出するのに成功した員数が、城内を右往左往している人数よりも遥かに少ないことにも気付いたはずだ。
敗走する清国兵は、南側から北端へとグラデーションが掛かるようにその密度を増し、北方の門付近では身動きできない程に密集してしまっていたからである。
要は、門(とそれに付随する外敵防御構造)がボトルネックとなり、統制が取れなくなった逃亡兵が目詰まりを起こして――全員外へ出たい者ばかりであるにも関わらず――互いが互いの脱出を阻害していたのだ。
密度が最高潮に達している門扉付近や関城内では既に、人々の押し合う力で圧死する者が出ていたし、圧死者の物理的体積が通路の空間を塞ぐ事で、更に後続する者の通り抜けを困難にしていた。
また後方からの圧力で心太を突くように門から外に押し出された者も、体勢を崩して倒れれば即座に後ろの者に踏み潰され、潰された死体が後続者の障害物になるという最悪のサイクルを生じさせていた。
篝火ひとつ、松明一本の明かりすら無い漆黒の闇の中、狭い空間に充満する怒号と悲鳴、断末魔の絶叫のみが大惨事が現在進行中であることの証だった。
いわば、それまで既に城内の大路・小路で小規模に発生していた『群衆雪崩』の、極大規模クラス事故が起きてしまっていたのだった。
城壁を北へと進む関仁は、剣付鉄砲を油断なく構えてこそいたが、警戒心は半ば解いていた。
清国守備兵が全面潰走に移ってしまったのだから、城壁の上で抵抗を試みる敵は”ほぼ居ない”はずなのである。
考えてみればアタリマエで、城から外に出ようと思えば、下に降りて門から逃げるしかない。
城壁は『外からの侵入を防ぐ』ために在るもので、『外から中へと迎え入れるための階段』は無い。
それは言い換えれば『城壁上には、外へと脱出するための階段なぞ存在しない』のを意味しているわけで、間抜けな者でも”逃げ出すために城壁に登りはしない”のだ。
だからこそ回廊からは敵が消えてしまったのである。
中には目端の利く者がいて、一旦階下に降りて脱出用の縄梯子か縄を用意し、再び回廊へと登って外への脱出を試みているかも、とも考えたが、敵の上将が”切れ者の李成棟”であることを考えれば、彼奴が『戦力を維持した上での湖州への撤退』ではなく『杭州での抗戦死守』を決意した時点で、守備兵が城外へと脱出する手段や道具は徹底的に処分したはずだ。
縄梯子などは――城に火を掛けたと見せかけた時にでも――焼き払ってしまったのであろう。また降伏を唱えるような怯懦な将兵は、戦闘開始前に見せしめの血祭りに供したに違いない。
いわば、全城兵を死地に追いやって文字通り”死に物狂い”に戦わせる『背水の陣』を採用したのだ。
――身も心も疲れ切っていたはずの清国兵が、驚異の粘り腰で抗戦したのは、退路を断たれて既に死兵と化していたからか!
しかし、と関仁は思考を進める。
――確かに、城の直ぐ近くから響いてきた御蔵の大砲の音は、清国兵の絶望をより深くしたのは間違い無かろうが、その時すでに清国守備兵は窮鼠だったのだ。
――死兵と化した兵どもの心すら折る『何か』が無かったら、清国兵は一斉攻撃を受けても破滅的な逃走には移らなかったのではあるまいか?
関仁は様々に思いを巡らしたが、その『何か』を結論付けることは叶わなかった。
「内藤君、火縄は点けるなと配下に伝えろ。」
微高地の茂みに伏せた趙士超が、双眼鏡を覗きながら内藤監物に注意を与える。
「闇の中では、火縄や煙草の火でも遠くから目立つ。……まあ奴らには、周囲に気を配るような余裕は無いだろうが、ね。」
そして「見てみろ。」と双眼鏡を内藤に渡す。
「城門前には圧死者が積み上がって、ほぼほぼ道が塞がっている。辛うじて逃げ出すことが出来たヤツもいるが、今のところ大将首らしいのは皆無だな。身体を痛めて足を引きずって歩くのがやっと、という雑魚ばかりだ。」
双眼鏡を使った内藤監物は、惨状の凄まじさに息を呑んだ。
歳こそ若いがシャムを脱出して以来、幾度となく死線を潜り抜けた歴戦の武士を持ってしても、その光景には肝を冷やさせるものが有った。
「李成棟は、まだ城内で采を握っているのでしょうか?」
「全く分からん。」
と趙は率直に答えた。
「あるいは既に、死んでいるのやも知れぬな。……あの混乱ぶりを見る限り。」
そして「しばらく物見を続けていてくれ。万が一、魔法でも使って逃げ出して来るやも分からんからな、」と内藤に依頼すると、通信機を背負った兵を呼んだ。
「趙大人からです。」
内藤伍長は送受話器を受け取ると「仕留めましたか?」と単刀直入に訊ねた。
煙幕放出機2基による支援砲撃を行なった後、砲撃陣地は奇妙な”戦場の真空状態”に置かれていた。
激しい戦闘が起きているはずの城内の状況は全く情報が入ってこないうえ、敵遊撃隊の接近も無かったからである。
『否』と無線機の先で趙が答える。
『出て来ない。あるいは出て来れる状態じゃないってのが、正しいのかも知れん。』
そして『こっちで見たままの状況を教えるから、百道中尉に伝えてくれ。そうしたら紹興の南明勢にも話が届くだろう。』と言うなり、北側の門で起きている惨事についての説明を始めた。
「分かった。軍師将軍殿の御耳にも入れておこう。悪いがしばらくは現状のまま待機していてくれ。」
自動車化輸送部隊との通話を終えた百道に、「首尾は?」と訊ねたのは福松である。
彼はヤキモキしながら通話が終わるのを待ちわびていたのだった。
「清国軍守備隊は崩壊し、組織的戦闘は終わった模様です。」
「おお! 勝ったか。」百道の返答を聞いた福松は、喜色を露わにした。
「大将軍もお喜びになる。……勝手に兵を動かした件に関しては、お叱りを免れまいが。」
ホッと一息ついた福松が、頼りになる御蔵の勇将が不可解な表情をしているのに気付くのには間があった。
「何か気懸りな事でも?」
「いえ、お味方の大勝に間違いはございません。また、李成棟が城から逃れることが出来たとしても、直ぐさま湖州で再起を図ることは出来ますまい。……なにしろ杭州で兵を――それも戦慣れした熟を――失い過ぎましたからね。」
百道は胸ポケットから煙草を取り出すと、福松に勧めた。
いや結構、と福松が断ると、百道は「それでは失礼して、自分は吸わせていただきます。」と燐寸を擦った。「少し頭をハッキリさせたいもので。」
「李成棟は退路を断って、乾坤一擲の大博打を打ったようです。」
と百道は紫煙を燻らせた。「杭州の兵は、死兵と化していたのだとか。」
「一か八かの”背水の陣”か。」
福松が頷く。「総軍監殿が手を焼いたのも不思議は無い。」
しかし、と福松は続けて「それでも馬得功殿は、最後には勝ちを収めていたでありましょうよ。何しろ兵の数、士気や疲労の度合いが違う。全てにおいて我が方が勝っていたのですから、力攻めで押し通せたのも間違いはなく。まあ、戦が長引いたなら、我が方にも甚大なる被害が出て、今後の進軍に影響が出たとは思います。……百道殿の御助力には、感謝しておりますよ?」
「畏れ入ります。」と百道は、礼には適っているが無難な返答をした。
「趙士超殿の見立てだと、死に物狂いの抵抗を見せていた清軍が急に崩れたのは、城内で李成棟の身に変事が起きたのではないか、という事です。」
「なるほど、それで急に。」と福松も納得の表情を見せた。「采配を振るう者に何かが起きて、全軍に動揺が伝播したという事情でしたか!」
「何が起きたのでしょうな?」
と問いかける福松に、百道は「分かりません。」と答えた。
一旦、口を噤んだ百道だったが、「李成棟の身に起こったことにも興味は湧きますが、それより自分が奇妙に感じているのは、李成棟が採った戦術なのです。」と続けた。
「李成棟が狡将・智将である、とは伺っておりましたが、全てを賭けた博打を打つような将軍のイメージ……ええと、印象が無かったものでしてね。ホラ、事前の打ち合わせの時でも『李成棟なら火事に紛れて兵を退かせ、次の要衝である湖州で再度決戦を挑んで来るだろう』というお話しだったでしょう。」
これには福松も同意するしかなかった。
「言われてみれば……李成棟らしく……ありませんな。」
そして「督戦のために、別の将軍が遣わされていた?」と、百道が感じているであろう疑念を口にした。
「例えば応天府の予親王ドド自らが?」
流石にドド自らは動けないでしょう、と百道は首を傾げた。「清国軍は、揚子江の南では負け続きですからね。求心力が下がっている。南京を空けたら、叛乱でも起きて城を乗っ取られてはかなわない、と考えているのではないでしょうか。」
百道の見解に、福松もフムと考え込んだ。「では、誰が?」
「見当も付きません。」というのが百道の答えだった。
「”今”すでに高名である将とは限らないのです。ドドの信頼を得ていて、戦意が高く冒険を厭わない者。そんな武人であれば、例えば地位が低くても若くとも誰だって可能性があります。督戦するのにはドドか――あるいはドルゴンの――委任状か命令書を持っていれば、李成棟も逆らえない。李成棟が『杭州で粘っても勝ち目はない』と合理的な判断を下していても、です。」




