富春江第二次渡河作戦6
城に近づくにつれ、火災が噂でなく本当であることがハッキリしてきた。
壁の向こう側から濛々と煙が上がっている。
門扉は開け放たれたままであり、門そのものは壊れていないが上に構えてある望楼は火を噴いていた。
「火を消せ!」
大声で叫びながら、各小部隊指揮官が配下と共に次々に次々に門を潜ってゆく。
「燃えそうな建物を叩き壊して、火が広がるのを防げ!」 「水を探せ!」 「筵を水に浸して火に被せるのだ!」
門を潜る兵たちは始め、炎を背にした清国兵が死に物狂いの奇襲を仕掛けてくるかと警戒しながら慎重に歩を進めたが、敵影はどこにも見えず、また城中に避難した民の姿も無かった。
ガランとした空き城の中では、ただ炎だけが荒れ狂っているばかり。
「ええい! 何という事だ!」
城壁の外に馬を止めた馬得功は、立ち昇る黒煙白煙を見上げて悪態を吐いた。
「騎馬斥候どもは何をしておったのだ!」
そう怒鳴りながらも、彼は斥候たちが李成棟の手にかかってしまったのだろうという事を確信していた。
――空城を見せて斥候を誘い込み、一まとめに飛び道具で始末したのであろう。
――そうやって時を稼ぎ、火を放ってから逃げ出したか!
――さすれば我らは消火に注力せざるを得ず、彼奴らは兵を纏めて悠々と逃げられる。
「まんまと、してやられたわ。」
もはや焦っても仕方があるまい、と馬得功は自分も城内へと馬を乗り入れた。
馬上から目を凝らすと、火と煙とが盛んに渦巻いているのは杭州城の紹興に向いた側ばかりで、全域が燃え上がっているわけではない、と馬得功は確信した。
これならば、何とか被害を城の1/4ほどの損失で抑えることが出来るであろうか。
――李成棟も詰めが甘かったな。清国軍の殿は退却を焦ったようだ。
清軍はおおよそ海塩を失った後、夜闇に紛れて毎夜ごと徐々に撤収を行ない、精兵の多くを温存することで、湖州での再編と戦線の再構築を考えているに違いなく、なればこそ富春江の河岸陣地には士気の低下した海塩の敗残兵を形ばかりに並べていたという欺瞞行動を採ったのであろう。
馬得功はそう考えた。
また『湖州まで退けば、杭州からの退却兵と湖州の守兵を併せて戦力としては充実するし、杭州兵は南明軍の採る戦法も”嫌と言うほど”学んでいる。次の会戦では経験が役に立つ。』とも
『南明軍の大規模渡河が始まったら、更に時を稼ぐために火を放て。』と殿に命じていたのも間違いなし、と敵智将の意図を読んだ。
――そこまでは、彼奴めの策に載せられてしまったわ。
ただし、である。
殿を命じられた将が、紹興に近い側に火を放って逃げたために、焦土戦の意図を馬得功軍に察知されることになったのだ、と馬得功は幕僚たちに解説した。
「この場合は、城の北側――湖州に近い側だな――と中央に火を放って、紹興側の南口に火を放つのは最後に回さなければならなかったのよ。あるいは城の南半は、放っておいてもよかったのだ。しかし殿を務める将が、退き口が無くなるのを案じたのやも知れぬが、敵から煙を見咎められる場所に放火してしまったのが運の尽きだな。李成棟の謀が、それで破れた。」
幕僚の一人が「民の姿が見えないのは不思議ですな。」と感想を漏らす。
「湖州へと連れ去ったものか、あるいは邪魔であると鏖にでもしてしまったものか……」
「急ぎ湖州で陣を立て直さねばならぬのに、足手まといになる民を連れて行く余裕はあるまい。」
と馬得功は言って聞かせた。「また、多数の民を鏖殺する手間暇かける時も無かったであろう。おおかた、城外の野山に追い散らしたのであろうな。城に残っておれば、消火の手伝いをするであろうからな。」
福松は関仁・張孟衡の両将から、鳥銃を剣付き鉄砲へと改造するという献策を受けていた。
確かに鳥銃を剣に持ち替える手間も省けるし、剣よりもリーチが長い剣付き鉄砲であれば、弾を放った後でも手槍のように扱えるから、騎馬の敵や白兵戦の時でも兵科の戦闘力が上がる。
しかし、と福松は両将に再考を求めた。
「尤もな案ではあるのだが、そのような戦法は既に考案されたことがあるのだ。『子母銃』と云って、槍の穂先を銃口に差し込む工夫だ。『兵録12巻』に記述がある。」
「ほう! 既に有る工夫なのですな。それでは早速。」
と関仁は喜んだが、福松は、まあ聞け、とそれを制した。「なぜ今、それが使われていないと思う?」
逆に問いかけられて、関仁と張孟衡は顔を見合わせた。
「抜けてしまうからだ。差し込んだ穂先が。」
と福松がタネを明かす。
「槍で敵を突いたとき、を思いだしてみよ。痛みで敵の肉が締まって、抜くに必要な膂力は大ならん。」
そのために子母銃の穂先は”敵1人を突いた時点で”失われてしまい、全ての銃を子母銃に置き換えるまでには至らなかったのだ、と福松は説明を終えた。
「とは言え御蔵勢が優れた剣付き鉄砲を有しておるのは、そなたらの言う通り。鉄砲に剣を組み合わせる更なる工夫を案ずるのは良き事であろう。……大将軍へと奏上してみよう。」
当初杭州城に突入した時の兵力は14,000ばかりであったが、富春江を渡って馬得功の指揮下に入った南明兵はその後も増えて20,000弱へと増加した。
一時は城を焼き尽くすかと案じられた大火も、将兵の懸命な消火活動によって次第に収まりを見せてきた。
弓や槍を箒や筵に持ち替えて、煤けた顔になってしまった将兵にも、水を飲んで一息入れる余裕が出てきたところであった。
「おや? 白襷兵まで居るぞ。」
煙で赤くなった目を擦り、水を飲み終わった馬得功配下の兵が白襷の兵に向けて手を振る。「早、張将軍も河を渡ったか。」
白襷の兵は、手を振った兵に、手にした槍を高く掲げて応えた。
消火には参加しなかったようで、鎧も兜も綺麗なままだ。
白襷の兵は徐々にその数を増やし、見事な隊列を組んだ。
「ちぇっ。余裕綽々で服も汚れてやしねェ。ずぅっと火消しに追われていた、コッチの身にもなってみろってんだ。」
悪態を吐いた兵を、同僚がマアマアと窘める。
「コッチはもうクタクタだ。城の守りを白襷にやってもらったら、ひと眠り出来るじゃねぇか。それかもしかすると白襷の奴らは、これから逃げる清国軍に追い打ちをかけるために送り出されたのかも知れねえし。」
そりゃ御苦労なこったな、と悪態を吐いた兵も自分の意見を引っ込めたが
「しかし白襷の奴らは倭刀が自慢なんだろ? それにしちゃあ、槍と剣を持った兵ばかりだな。」
と”些細な”疑問を持った。
巡回して消火の様子を検分していた馬得功の幕僚の一人が、白襷の兵を見掛けて戦慄した。
張孟衡の白襷兵団は、まだ富春江の向こう側、紹興城外に居るはずなのである。
――李成棟は逃げてなどいなかった! 杭州に居る白襷は敵だ!
彼は馬を返して馬得功を探しに向かったが……
背後で吶喊が上がるのを聞き逃さなかった。




