海塩攻略
清国兵が壊乱したのを見て、車騎将軍(鄭芝龍)は「頃合い良し。」と橋頭保の鳥銃兵に
「掛かれ!」
と号令をかけた。
「蹴散らせ! 崩れた敵を追い捲って、一気に丘を抜く。」
鳥銃兵は、銃の火鋏に装着してある短く切った火縄を捨て、腰の倭刀を抜いた。
火種を捨ててしまっても個々の兵がビニール袋に燐寸を持っているから、戦闘の流れで射撃戦に移行したとしても火縄に再着火するのに手間はかからない。安心して刀での戦闘に専念出来るのだ。
抜刀した鳥銃兵は、右手に倭刀、左手に火縄銃をかざし、吶喊を上げて戦車隊の前に出た。
射撃戦用の横隊から、突撃ための”鋒矢の陣”へと陣形を改め、澱み無く攻勢に出た第一波だったが、それでも鄭芝龍には『守勢から攻勢への移行速度』に不満が残った。
――ふむ。御蔵勢の”剣付き鉄砲”のような銃であれば、腰の剣を抜く手間も無く、そのまま突撃に出れるものを。
そして「次の改善点は、鳥銃の剣付き鉄砲化だな。」と深く頷いたのである。
それは兎も角、最前列で敵兵を狙い撃っていた戦車兵は、横合いから友軍が前に飛び出してきたのに慌てて、射撃を中断した。
ハ号の37㎜砲は、山なりの弾道を描くよりも平射に適した砲であるし、機銃手席の前方機銃は同士撃ちの懸念があって使えなくなってしまったからだ。
ミラー中尉は3輌の戦車に敵歩兵の蹂躙を命じると、自分は4輌のジープを引き連れて敵騎兵の殲滅に向かった。
95式軽戦車は福州兵と混じり合うようにして前に進むと、快速性を活かしてそれを追い抜いた。
既に恐慌状態に陥っていた清国歩兵は、鉄獣が猛然と迫りくるのを目にして、慌てて手にした得物を捨てた。
だいぶ兵数を減らしているとはいえ、2,000の兵力を有する突撃隊である。
わずか3輌の戦車に怯えるのは不思議に思えるかも知れないが、近現代の戦闘でも、戦場における戦車に対する歩兵の心理としては「迫って来る鉄獣は、俺を目掛けて襲って来ている!」と錯誤しがちなので、それほど意外な出来事ではない。
敵が降伏したのを見て戦車は歩みを止めたが、福州兵は降伏兵を置き捨てて、橋頭保から前進してきた勢いそのままに丘陵の林へと突進を続けた。
降伏した敵兵の処遇は、後に続く第二波・第三波に任せてしまえばよい、という腹である。
福州兵が丘に殺到するのを見て、潮と汐は105㎜の砲撃を停止した。
その頃までには敵騎兵も、大量の遺棄死体や負傷者を残して、僅か50騎に満たない人馬だけが戦場から離脱していた。
装甲艇3隻の前部・後部砲塔計6門から放たれる57㎜の釣瓶撃ちを喰らって、炸裂弾の餌食になった兵ばかりでなく、爆発に驚いた馬が棹立ちになって落馬した兵も多かったし、武装ジープのM2や装甲艇銃塔からの猛射の前には、馬鎧など何の防弾効果も無かったからだ。
だから早い段階で落馬し、痛みに呻いていた兵は、むしろ幸運であったと言えるかも知れない。砲弾片や機関銃弾に切り刻まれて死なずに済んだという、ただ一点の理由から。
白刃突撃で丘を占領した福州軍は――既に105㎜砲の砲撃によって清国軍の指揮命令系統が崩壊していたこともあって――丘陵地帯で後続の合流を待ち、隊伍を整えるとさしたる抵抗も受けないままに市街の主要地域を支配下に置いた。
駐屯していた清国軍支隊は、着上陸阻止の失敗を受けて海塩での抵抗を諦め、雪崩をうって杭州に退却していたのだった。
鄭芝龍は残されたままの大量の補給品の山を見て
「李成棟は、海塩の守将には長期持久を命じていたようだ。」
と感想を述べた。「糧食ばかりでなく、虎蹲砲のような小型砲も集めてある。」
「新町湯の主が喜びますな。」
と応じたのは、車騎将軍の近侍のような立場になってしまった趙士超(趙大人)だった。
「威力は重擲弾筒に遥かに及ばないとしても、屑鉄として考えるならば”そこそこ”の重量でしょう。」
車騎将軍は破顔すると「御蔵勢には海岸の戦いで、ずいぶん砲弾を使わせてしまったからね。」と頷いた。
「金銀財宝よりも、銭と紙と屑鉄とを必要としている彼らに報いるためには、またと無い戦利品やも知れぬ。」
すると趙士超は
「近頃は皮も集めているようで。」
と上司に告げた。
「皮? 何に使う?」
と将軍は趙に問うた。「彼らは皮鎧など使わないだろう?」
趙は「手袋と靴らしいのです。」と鄭芝龍に答えた。
「長崎で人夫を集めて、石炭掘りを本格的に始めたようですから。人夫の手足を守って作業を怪我無く進めるためには必須であるとか。」
そして「新町湯の紹介で職を得た難民の子女が、その職に就いて盛んに皮手袋を縫っております。まあ、靴の方はシロウトには難しいでしょうが。」と続けた。
「飯は腹一杯食えるし、何かあったら舟山病院にもかかれて、待遇は南明軍で兵をやってるより良いようですな。子供には普陀山の僧や、御蔵人が学問も教えているようですし。」
車騎将軍は「それは羨ましい。」と笑ったが、丸っきりの冗句という感じでもなさそうだった。
「戦など、やっている場合ではないな。世の進歩から取り残されてしまうようだ。」
海塩占領が成ったことで、紹興の大将軍(唐王)も動き出した。
連絡を受けて杭州進軍の態勢を整えたのである。
しかし再度の渡河を命じられたのは福松配下の尖峰軍ではなく、大将軍自らが河を渡るという。
先頭に立つのは、元総軍監の馬得功であった。




