弘光帝の南征?(16)
南竿島には電源が無い。
それに翠光丸には手回しゼンマイ駆動の蓄音機を積み込んではいなかったから、弘光帝はレコード音源の楽曲を聞こうと思ったならば、南安伯館から船まで足を運ばなければならないことを意味する。
翠光丸側としても、電蓄とレコード盤とを貸し出せば済むという選択肢は採れなかったわけだ。
その事態に対する皇帝の判断は明快そのもので
「今日は素晴らしいモノを見せて……いや聞かせてもらい礼を言うぞ。明日もまた聞かせてくりゃれ。」
と大満足で明日の来訪も決定した。
「そなたらも今宵は南安伯館に泊まるとよい。車騎将軍の館は豪奢でな、部屋も柔らかな寝台もたんとある。」
そのために船長も鄭芝鳳も、小倉隊船団の無事が確認できても港から出航出来ずにいたし、貨物船乗組員一同としても『皇帝直々の招待』を断るという無礼を働くことはできず、半舷上陸――クルーの半数が船に残り半数が上陸するという体制――を採らざるを得なくなった。
船長としては、船を降りて貴人の賓客となるのは気が重かったが是非も無い。
「ハモニカを吹ける者は、一緒に来てくれ。」
と部下に頼み込む。
仕方なく部下の何人かが、おずおずと手を挙げた。
船長たちが南安伯館に到着すると、皇帝の武官や文官たちは御蔵島の技術に関する新知見を吸収したいと詰め寄ったが
「朕が招いた賓客に対して、そちらの態度は無礼であろう。」
と弘光帝が珍しく色を作して退け、「ゆるりと寛ぎあれ。今から酒肴など運ばせるゆえ。」と皆を酒席へと誘った。
礼部尚書は、館の皆が御蔵人から音曲以外の話を訊きたいという欲求制御することが出来ないでいるのを理解はしたが、皇帝の態度の方が客人をもてなす礼儀において正しいと認めざるを得ず
「陛下の仰せの通りである。」
と、今は無粋な問いを発するのを禁じた。
通辞を通した会話というのは本来なかなか弾まないものだが、ホストの弘光帝は如才なく場を保ち、強権的ではない外交能力の高さを垣間見せた。
武張った人物でなかったことが、かえって有効に作用したわけである。
頃合いを見計らった船長が
「それでは、酒宴の御礼に、陛下にハモニカの演奏を御笑覧賜りたく。」
と申し出、部下に用意を命じた。「なにぶん船乗りの手慰みであるますので、楽団の演奏のようには参りませんが。」
弘光帝は「これは素晴らしい余興であるな。」と手を打って喜び、演奏を促した。
五人の奏者が複音ハーモニカを構えると、船長は「それでは『埴生の宿』を。」と指示した。「さん、ハイっ。」
優しい中にも若干の哀愁を感じさせるメロディが流れ出す。
弘光帝は「ホウ……」と目を閉じた。
「笙の響きにも似ておるが、音の立ち上がりや区切りがクッキリと際立っておる。」
次に船長は「では次に『草競馬』を。」と曲を指定。
今度は一転して明るいフォスター・メロディが溢れ出す。
皇帝も「うむうむ、心が浮き立つような調よな。生きる者たちの活力を感じる。」と身を乗り出す。
そして「不思議な楽器であることよ。」と絶賛した。
音曲の評価には長けた人物であるから、この”絶賛”には多少の世辞も入っていたのかも知れない。けれども『楽器』への関心が本物であるのは間違いないだろう。
船長は「ハモニカという楽器でございます。」と一台のハーモニカを献上した。
「陛下のお持ちになられている芸術センスをもってすれば、早晩難無く思い通りに奏でる術を会得されるのは確か。」
「むむっ! くれると申すか。」
弘光帝は目を輝かせた。
「この楽器は明国の何処にも存在せぬ名品であるな。されば、朕がこの楽器を奏でられるようになれば、明国一の腕前であると申しても過言でないはず。」
そして「それでは早速であるが、奏で方を教えてくりゃれ。」と、パープーと音を出した。
弘光帝の演習は、その日、夜明け近くまで続いたのである。




