第二話:祈りの雫と、月下の語り部
夜の静寂が、白亜の石造りで建てられた大修道院を優しく包み込んでいた。
聖教国の最果てに位置するその聖堂は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。立ち並ぶ重厚な柱の合間を抜け、高い天井から吊り下げられた燭台の微かな灯りが、床の磨き抜かれた石畳を仄暗く照らしていた。
ステンドグラスから差し込む蒼い月光の渦。その中心、荘厳な神像の前に膝をつき、深く頭を垂れている一人の少女がいた。
少女の名は、エレナ。 まだあどけなさの残る十五歳の修道女であった。 頭には漆黒のヴェールを被り、質素な修道服に身を包んでいるが、その隙間から覗く肌は雪のように白く、閉じられた瞼の長い睫毛が月光を受けてかすかに影を落としている。
「——慈悲深き神よ。どうか戦火に追われし哀れな羊たちに、安らぎの夜をお与えください。故郷を失いし者たちの傷を癒やし、明日を生きる糧をお恵みください……」
組まれた両手は小さく、指先は祈りの強さに白くなっていた。 彼女が胸の前で抱きかかえるようにしているその首元から、ふと、柔らかな光が漏れ出た。
漆黒の衣の上に滑り出たのは、一握りほどの小さなペンダントだった。 鎖の先で揺れているのは、透き通ったティアドロップ型の結晶。月光を浴びてキラリとひと際強く瞬いたその輝きは、まるで夜空から零れ落ちた一滴の涙のようであり、同時に生き物のように脈打つ神秘的な温もりに満ちていた。
『パナケイアの雫』。
あらゆる病を遠ざけ、あらゆる傷を癒やすと謳われる極上の聖遺物。 この小さな水晶が宿す奇跡の力が原因で、彼女の両親は狂気と欲望に呑まれた者たちに惨殺され、少女自身もまた血塗られた運命の渦へと叩き落とされたのだ。
現在、彼女は聖教国の庇護下に置かれ、表向きは「見習いの修道女」として保護されている。その身を陰から守るべく、腕利きの聖騎士たちが護衛として配備されていたが、彼女が『聖女』として祀り上げられ、『パナケイアの雫』を宿しているという事実は、国家の最重要機密として秘匿されていた。知られれば即座に、刺客の群れがこの静寂を切り裂くことになるからだ。
「……お父様、お母様」
祈りを終えたエレナは、そっと胸元の水晶に触れた。ひんやりとした滑らかな手触りが、彼女の記憶の中にある温かな家族の思い出と、あの惨劇の夜の血の匂いを呼び覚ます。
少女は胸の前に強くペンダントを抱きしめ、誰にも聞こえない溜息を月夜に吐き出した。
◆
明けて翌日。 昨夜の静寂が嘘のように、聖教国の国境沿いに広がる平原は熱気と混迷に包まれていた。
他国で勃発した凄惨な戦争——その戦火から難を逃れてきた無数の避難民たちが、国境の壁の前に巨大な移民キャンプを形成していたのだ。立ち並ぶつぎはぎのテント、泥に塗れた子供たち、衰弱しきった老人、そして絶望に目を落とす大人たち。
その粗末な野営地の一角で、聖教国の神父や修道女たちが総出で炊き出しを行っていた。
「焦らないでください! 食事は全員の分があります!」 「温かいスープですよ、どうぞ器を出してください」
エレナもまた、修道服の袖を捲り上げ、大きなお玉を手に汗を流していた。 彼女の周りには、表向きは一般の神殿騎士として甲冑を身にまとった護衛たちが、周囲に不審者が近づかないよう鋭い視線を走らせながら、表面上は避難民の列の整理や薪拾いを手伝っている。
「ありがとうございます、修道女様……」 「神のご加護がありますように」
スープを受け取った人々が、疲れ果てた顔にわずかな微笑みを浮かべて去っていく。 エレナは健気に微笑み返し続けたが、その瞳には隠しきれない痛ましさが宿っていた。
(私が持つ『パナケイアの雫』の力があれば……この人たちの怪我も、病も、一瞬で癒やして差し上げられるのに……)
だが、それは許されない。 この場で万能の奇跡を使えば、たちまち「聖女」の所在が全世界に露見する。彼女を守るために命を落とした両親の死を無駄にしないためにも、そしてこれ以上の混乱を巻き起こさないためにも、エレナは奇跡を封印し、ただの一人の修道女としてスープを配るしかなかった。
その無力感が、重く胸にのしかかる。
と、その時だった。
ふわり、と。 混雑するキャンプの雑多な喧騒を切り裂くように、澄んだ美しい音が風に乗って流れてきた。
「……? この音は……」
エレナはスープをよそう手を止め、顔を上げた。 それは、今まで聞いたこともない不思議な旋律だった。
澄み渡る金属的な響きと、木管の温もりが混ざり合ったような音色。オリエンタルな情緒を醸し出す細身の横笛が奏でるそのメロディは、決して主張が激しいわけではない。しかし、聞いた者の心をすっと落ち着かせ、吸い寄せるような不思議な魔力を秘めていた。
避難民たちのざわめきが、急速に静まっていく。 子供たちがスープの列を離れ、吸い寄せられるように音の聞こえる方角へと歩き出していた。大人たちもまた、重い足取りを止めて首をかしげている。
護衛の聖騎士が警戒露わに剣の柄に手をかけた。 「おい、何の音だ? 刺客の仕業か……?」 「待ってください、危険な気配はありません。見てきます!」
エレナは吸い寄せられるように、人だかりができている広場の一角へと向かった。
◆
そこには、二、三十人ほどの避難民たちが輪を作って集まっていた。
輪の中心に座っていたのは、一人の青年だった。 使い古された泥色の外套を羽織り、首には薄汚れたマフラーを巻きつけている。肌は病人のように青白く、時折思い出したように「ゴホゴホ」と胸を押さえて苦しそうに咳き込んでいた。いつ死んでもおかしくないような、弱々しい佇まいである。
だが、その青年の手には、滑らかな黒檀の木で作られた見たこともない横笛が握られていた。
青年の指先が優しく穴を塞ぎ、息を吹き込む。 それはただの音楽ではなかった。かつて「呪術の王」と呼ばれた彼が、二千年の歳月の中で昇華させた、人々の意識を優しく集束させる『誘引の呪言』を乗せた音色。敵意を削ぎ、好奇心を刺激し、ただただ「声を聞かせる」ためだけに調律された、秘められた呪術であった。
青年——ルーヴェンは静かに笛を唇から離すと、集まった人々を見回した。 その深遠な黒い瞳には、途方もない歳月の重みが静かに揺らめいている。
「……みなさん、ようこそ。お集まりいただき、感謝します」
青年の声は低く、どこか嗄れていたが、不思議と周囲の雑音をかき消して全員の耳へと届いた。
「わたくしはルーヴェン。世界各地を旅し、古い物語を語るただの病弱な語り部にすぎません。……ゴホッ、ゴホッ! すみません、喉が弱くてね……」
苦しそうに喉を押さえるルーヴェンに、集まった子供たちが「お兄ちゃん、大丈夫?」と心配そうに声をかける。ルーヴェンは力なく微笑むと、首を振った。
「ええ、大丈夫ですよ。……さて、皆さんは今日、厳しい旅の途中で傷つき、心を痛めていらっしゃる。ですからほんのひととき、遠い異国の、不思議な物語に耳を傾けてはみませんか?」
大人たちも、思わず引き込まれるように地面に腰を下ろした。 エレナもまた、人だかりの後ろからその青年をじっと見つめていた。なぜだかわからない。ただの哀れな旅人にしか見えないのに、胸の奥にある『パナケイアの雫』が、彼に対して微かに、本当に微かに反応して温かくなったような気がしたのだ。
ルーヴェンは懐から、一粒の古びた琥珀の欠片を取り出し、人々の前にかざした。
「今日お話しするのは……いまや忘れ去られた、太古の『聖遺物』に纏わるお話です」
ルーヴェンの声が変調する。 まるで物語の情景が、そのまま空気中に立ち上るかのような圧倒的な臨場感。
「今から千年以上も昔。はるか東方の地に、どんな怪我も一瞬で癒やし、死者すらも蘇らせると言われた『太陽の鏡』と呼ばれる聖遺物がありました。……人々はそれを神の恵みと讃え、争って買い求めました。怪我をした騎士も、病に倒れた王も、誰もがその鏡の光を浴びたがったのです」
子供たちが目を輝かせて物語に聞き入る。
「ですが……人々は知らなかったのです。その奇跡の代償を。鏡が傷を癒やすたび、その人間の『寿命』が削り取られていたということを。……やがて、鏡の光を浴び続けた人々は、ある朝突然、理由もなく灰となって崩れ去りました。奇跡とは、タダで与えられるものではない。世界の理を歪める聖遺物には、必ず相応の『歪み』が宿るのです……」
ルーヴェンの言葉に、避難民の大人たちが息を呑む。 そして、群衆の後ろでその語りを聞いていたエレナは、ハッと息を呑んだ。
(聖遺物の……歪み……?)
彼女が持つ『パナケイアの雫』。両親の命を奪い、自分を追われる身にした呪われた奇跡。青年の語る「神の遺物への警鐘」は、誰よりも深く、エレナの胸へと突き刺さった。
物語を語り終えたルーヴェンは、再び「ゴホゴホ!」と痛々しく咳き込み、外套の襟をかき抱いた。
「……ふぅ、長話が過ぎましたね。私のような病人が喋りすぎると、命が縮んでしまいます」
自虐的な冗談を言って薄く笑うルーヴェン。 その姿は、どこからどう見ても「今日明日にも病で倒れそうな哀れな男」そのものであった。
だが——ルーヴェンは咳き込むフリをしながら、外套の下で静かに胸元の『界の羅針盤』の感触を確かめていた。
羅針盤の針は、真っ直ぐに……人だかりの後ろに立つ、質素な修道服を着た少女——エレナの胸元を指し示していた。
(……見つけたぞ。『パナケイアの雫』。そして、あれに運命を狂わされた哀れな犠牲者を)
病弱なフリをした二千歳の不老不死は、前髪の隙間から、少女の胸元で秘かに光を放つティアドロップ型の水晶を、冷静に見定めていた。
この出会いが、世界を揺るがす惨劇の幕開けになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
(第二話 完)




