第5判定:近接と、越えてはいけない境界
無機質な白磁の廊下は、今日に限ってひどく狭く感じられた。
空気清浄機が吐き出す一定の風音。
等間隔に配置された照明。
その規則正しい空間の中で、私と白石ユウは並んで歩いていた。
「……」
私は無言で、網膜投影される空間座標を確認する。
【目標との距離:1.62メートル】
適性局が定めた近接許容値は1.5メートル。
あと10数センチメートルで、胸元のバッジから警告アラートが鳴り、管理官へのログが送信される。
歩幅、角度、速度。
私は脳内の計算機をフル稼働させ、最適解を維持し続ける。
私にとって、この距離は「安全」を意味する絶対的な防壁だった。
「ねえ、イオリ。さっきの管理官、そんなに怖かった?」
不意に、左側から軽やかな声が落ちてきた。
分析棟に不釣り合いな、太陽のように明るいトーン。
「恐怖という感情は、生存本能に付随するバグに過ぎません。合理的な判断には不要です」
私は前を見据えたまま、即答した。
「あれは、ただの事実確認と、制度上の通達です」
「ふーん。相変わらず可愛くないこと言うね」
ユウは少しだけ歩幅を広げ、私の前に回り込むようにして振り返った。
【距離:1.52メートル】
心拍数が、わずかに跳ねる。
私は反射的に一歩、足を引き、1.6メートルのマージンを再構築した。
「俺のせいで呼び出されたんでしょ。……ごめんね」
「謝罪の必要はありません。因果関係を特定するための情報が不足しています」
「あはは、本当に徹底してるなあ」
ユウは満足そうに目を細めた。
その柔らかい笑い方が、私の計算式を狂わせる「変数」であることを、私はまだ認めたくなかった。
◇
階段を降りる際、前方から演習を終えた生徒の集団が押し寄せてきた。
私は即座に回避ルートを算出する。
右へ15度転回。速度を0.8倍に減速。
それで「衝突」という非効率な事象は避けられるはずだった。
「おっと、危ない!」
不意に、熱が触れた。
ユウの手が私の肩を、強引に、けれど優しく引き寄せた。
【距離:0.2メートル】
アラート。
鳴るはずだった。
脳内が真っ赤に染まり、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
……けれど。
不思議なことに、バッジは沈黙したままだった。
「……セーフ。ね?」
ユウが耳元で小さく囁く。
彼の体温が、制服越しに伝わってくる。
それは、私の知る「合理的な世界」には存在しない、熱いノイズだった。
「……センサーの死角、あるいは、システム側の一時的な処理遅延です」
私は逃げるように距離を取り直した。
喉の奥が、妙に熱い。
「そうかな。……ねえ、イオリ。ずっとそうやって、全部計算して生きてきたの?」
彼の視線が、私の内側を見透かすようにまっすぐ刺さる。
「合理的だからです。失敗と無駄を排除した最適解。それがこの国の、そして私の軸です」
「……それって、楽しい?」
また、その問い。
定義不能。計測不能。再現性なし。
私にとって、最も「無価値」なはずの単語。
「……問題、ありません。平穏な日常に『楽しさ』という不確実な要素は不要です」
「嘘だ。答えが0.3秒遅れたよ」
彼は立ち止まり、私を見つめた。
距離は1.6メートル。規定通り。
なのに、彼との間に流れる空気だけが、密着しているかのように重く、近い。
「今、君は……俺といて、楽しい?」
「……非合理です。評価不能です」
絞り出した言葉は、震えていた。
答えが出ない。
最適解が、どこにも見当たらない。
「そっか。……まあ、いいや。今はそれで」
彼はそれ以上追及せず、またひらひらと手を振った。
「ねえ、また会ってくれる? 次はもっと、君が絶対に予測できないもの、見せてあげるから」
即座に拒絶すべきだった。
接触ログが増えれば、私の評価に傷がつく。
彼は「危険相性」の相手なのだ。
それなのに。
「……監視の目を掻い潜れる、短時間であれば」
私の口から零れたのは、計算ミスとしか思えない「譲歩」だった。
「やった。約束だよ、分析家さん」
彼は太陽のような笑顔を残して、風のように去っていった。
◇
一人になった帰り道。
私は端末を開き、今日の行動ログにアクセスする。
そこには、彼との接触、そして「1.2メートル」まで接近した際の異常な心拍データが記録されていた。
本来なら、システムが異常を検知し、私の適性スコアを削るはずの「汚点」。
……けれど、私は迷わなかった。
流れるような指捌きで、私はその瞬間のログを「環境ノイズによるエラー」として上書きした。
さらに、彼への興味を「観察対象への警戒心」というラベルに貼り替える。
完璧な偽装。
国家のシステムさえも欺く、私の人生で初めての「不正」。
合理的で、再現性があって、多くの人間を救ってきたこの制度。
私はその敬虔な信徒であったはずだ。
けれど今、私は「エラー」を排除するのではなく、それを守るために、自分自身の構築してきた論理を捻じ曲げている。
胸の奥で、まだ彼の手のひらの熱が燻っている。
「……これは、実験よ」
自分に言い聞かせる声が、静かな夜道に響く。
私は、私というシステムを壊し始めた「猛毒」を、自ら進んで体内に招き入れようとしていた。
──次の「予測不能」が、待ち遠しい。
そう思考を上書きした瞬間、私の中の「INTJ」が、音を立てて瓦解したような気がした。




