第31判定:恋を、選んだ日
メンテナンス当日、地下ピットへ向かったのは夜明け前だった。
懐中電灯の光を差し込んだ瞬間、息が止まった。
咲いていた。
小さな、不揃いな花だった。
管理された学園の植物とは似ても似つかない、歪な形の花びらが、暗闇の中でただそこにあった。
色は、言葉にできなかった。
データベースを参照すれば一秒で名前が出てくる。
でも今は、参照したくなかった。
ユウが言っていた通り、名前を知らないまま見ていたかった。
懐中電灯を持つ手が、わずかに震えた。
「……ありがとう」
花に向かって、小さく言った。
ユウとの約束を、この花が守ってくれた。
そう思うと、他に言葉が出てこなかった。
メンテナンスの業者が入るまで、あと四時間。
私は花を丁寧に根ごと掘り起こし、小さな容器に移した。
決行は、今日しかなかった。
◇
佐伯先輩への連絡は、朝の講義が始まる前に済ませた。
先輩からの返信は短かった。
「準備します。放課後、予定通り」
朝倉には廊下で短く伝えた。
朝倉は頷いただけだった。
午前の講義の間、私は端末の画面を見たまま、今日の動線を何度も頭の中でなぞった。
朝倉と私は推奨ペアとして図書室へ向かう。
佐伯先輩がユウの経路指示を書き換えて、同じ図書室の該当区画へ誘導する。
三人が区画に入った瞬間、電力系統の不安定なロックが誤作動する。
管理官は扉の外に取り残され、別の管理官を呼んで解錠するまでの数分間、三人だけの空間が生まれる。
朝倉の交際相手である私が、たまたまユウと同じ場所に閉じ込められた。
管理官がそう解釈するかどうかは分からない。ただ、そう説明できる余地だけは、確かにあった。
変数は全て潰してある。あとは動くだけだ。
それでも、胸の奥がうるさかった。
◇
放課後。
朝倉が分析棟の前で待っていた。
近づくと、無言で歩き出した。私はその隣に並んだ。
推奨ペアとして自然な速度で、図書室へ向かう廊下を歩く。
図書室に入り、閲覧室の奥へ向かった。
旧い書架が並ぶ一角。
普段から人が少ない、薄暗い区画だった。
朝倉と並んで、書架の前に立った。
その時、背後から足音が聞こえた。
ユウだった。
先輩の書き換えた誘導経路は、完璧に機能していた。
私の姿に気づいた瞬間、ユウの足が止まった。
目が合った。驚きでも喜びでもない、何かもっと複雑なものが、その顔を一瞬だけ通り過ぎた。
その瞬間、電子ロックの作動音が鳴って、区画の扉が閉まった。
外から、管理官が解錠を試みる音がし始めた。
ユウがは振り返って扉を確認して、それから私を見た。
「……イオリ」
「時間がありません」と私は言った。
朝倉は扉の方へ向き直り、背を向けた。
解錠に手間取っている素振りを管理官に見せながら、こちらへは一切振り返らなかった。
その背中に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ユウはただ、私を見ていた。
戻ってきた日よりも、さらに頬の線が鋭くなっていた。
それでも、その目だけは変わっていなかった。
私は制服の内側から、容器を取り出した。
ユウが、息を飲む音がした。
「……これ」
「メンテナンス当日の朝に、咲きました。今日しかなかった」
ユウは容器を受け取らなかった。
ただ、その花をじっと見ていた。
踊り場の薄暗い空気の中で、小さな花だけが、どこか場違いなほど鮮やかにそこにあった。
「咲いたんだ」
「はい」
「ちゃんと、咲いたんだ」
ユウの声が、わずかに掠れた。
それ以上は何も続かなかった。
壊したくないものを、二人とも知っていた。
「ユウ」
「うん」
「約束通り、見せました」
「……うん」
「それと」
容器を持つ手が震えていることに、その時初めて気づいた。
震えを止めようとして、止められなかった。
「私は、ユウのことが好きです。理由を説明しようとすると、いつも言葉が溶けてしまう。でも、これだけは確かです」
ユウはしばらく、黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
管理官に挟まれて廊下を歩いていた時の顔でも、白い部屋で一人でいた時の顔でもない。
判定室で初めて会った時に見た、あの笑い方だった。
「俺も、好きだよ」
返す言葉が、出なかった。データベースのどこを探しても、今この瞬間に適切な応答が見つからなかった。
それでも不思議と、何も言えないことが苦しくなかった。
ユウの言葉が、言葉のまま胸の奥に収まっていく感触があった。
◇
扉の外で、別の管理官を呼ぶ声がした。
「行ってください」と私は言った。
ユウは頷いた。
容器を私に返そうとして、少しだけ迷い、それからそっと両手で返した。
「また、話そう」
「はい」
数十秒後、扉が開いて管理官が二人、区画に入ってきた。
朝倉が「ロックが誤作動したようで」と、感情のない声で説明した。
管理官はユウを確認し、朝倉とイオリを一瞥して、それ以上何も言わなかった。
図書室を出ると、朝倉が無言で歩き出した。
その隣には並ばずに、後ろから声をかけた。
「……ありがとうございます」
朝倉は振り返らなかった。
ただ、歩きながら片手をわずかに上げた。それだけだった。耳の先が、赤かった。
その背中が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
言葉を吐き出したことで、ようやく張り詰めていた糸が切れたようだった。
胸の奥でずっとうるさかったものが、すとんと落ち着いた。
震えだけが、まだ指先に残っている。
手の中の容器の中で、花はまだ咲いていた。




