第10判定:静寂の解析と、塗り替わる正解
夜の自室は、いつも静かだ。
空調が吐き出す一定の風音。
三秒周期で点滅する端末のスタンバイランプ。
窓の外、等間隔に並ぶ街灯の光。
すべてが計算され、管理され、正しい。
なのに今夜、私はその「正しさ」の中に、ひどく息苦しいものを感じていた。
デスクの端に、二つのガラスの破片が並んでいる。
一つは、中庭でユウが光にかざして見せた、熱で歪に溶け合った古いガラス。
「成分分析のために」と受け取ったまま、結局レポートは一行も書いていない。
もう一つは、海辺の波打ち際で彼が拾い上げ、「記念」と言って手渡してきたもの。
二つとも、システムの評価は同じだ。
【資産価値:0】
窓から差し込む街灯の光が、その表面をかすかに照らしている。
今は虹など出ない。
ただの、不揃いな透明の塊だ。
それでも私は、視線がそこへ引き寄せられるのを止められない。
「……非効率です」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は端末を開いた。
明日の適性試験の予習データが、整然と並んでいる。
【推奨学習項目:社会適合指数の算出と応用】
【推定習熟時間:九十分】
カーソルを合わせて、動かせなかった。
◇
ユウが言っていた言葉が、また浮かぶ。
『楽しいかどうかは、判断基準になりません』
私がそう言った時、彼は笑って言い返した。
『でも俺、楽しい方がいいな』
意味が分からない、と思っていた。
最初は。
今も、論理的には理解できない。
楽しさは、効率の外側にある感覚だ。
適性スコアに換算できず、未来の安定に寄与しない。
切り捨てるべき変数だと、ずっとそう習ってきた。
けれど、海辺で見た、不規則な波の光。
ユウの指先から渡された、新しいガラスの熱。
あの日から私の演算回路が「正解」を弾き出すたびに、どこかで異音がする。
精密機械の歯車に、砂が一粒紛れ込んだような、微細な、しかし確実なズレ。
私は、そのズレの正体を特定しようとしてきた。
分類する。
定義する。
ラベルを貼って、データフォルダに格納する。
けれど、ユウというノイズは、どのフォルダにも収まらない。
「……なぜ」
声が、静寂に溶けた。
私は気づく。
問題は、ユウが「分類できない」ことではない。
私が、分類することを、望んでいないのだ。
◇
端末の画面が、暗転する。
スリープモードに入った光の中で、私は天井を見上げた。
ユウと接触するたびに、ログは蓄積される。
管理官の目は、確実に近づいている。
このまま何もしなければ、いつか必ず、彼は連行される。
そして、私は「正しいイオリ」に戻る。
完璧な適性スコア。
推奨された進路。
管理された未来。
──そのはずの結末が、今夜の私には、モノクロームの刑務所のように見えた。
「……選択肢の洗い出しを、開始します」
私は、端末を再起動した。
今度は、適性試験のデータではなく、学園のインフラ構造図を呼び出す。
これは授業で閲覧を許可されている、公開データだ。違反ではない。
ただ、私がこれを開いた目的だけが、システムの「推奨」から大きく外れている。
◇
答えが出たのは、深夜零時を過ぎた頃だった。
カメラの死角、センサーの未設置区域、バイタルログの送信ラグ。
「……接触可能時間、最大で十一分。ログの上書きも、理論上は可能」
以前、ユウとの接触ログを「環境ノイズによるエラー」として上書きした時と、同じ手口だ。
あの時は、咄嗟の判断だった。
今夜は、違う。
私は、目を開けたまま、自分が何をしようとしているかを完全に理解した上で、この計算式を組み立てている。
◇
デスクの端で、二つのガラスの破片がかすかに光った。
街灯の角度が変わったのか、それとも私の目が変わったのか。
不揃いで、歪で、システムには「資産価値ゼロ」と判定されたそれらが、今夜だけは、どんな「推奨アイテム」よりも重く見えた。
一つは、私が「分析する」と言って受け取ったまま、ずっと手放せずにいるもの。
もう一つは、「記念」という名で渡された、波打ち際の熱。
どちらも、システムには不要なものだ。
どちらも、私には、もう捨てられない。
ユウはあの海辺で言った。
『でも、今の君の顔。「最適解」を探してる時より、ずっといい顔してるよ』
私は、その言葉の意味をまだ完全には理解できていない。
けれど一つだけ、分かることがある。
あの瞬間の私は、確かに、何かを「正しい」と感じていた。
スコアでも、判定でも、推奨でもなく──私自身が、初めて「正しい」と感じた何か。
「……これは、実験です」
私はいつものように、自分に言い訳をした。
嘘だ。
そんなことは、もう自分でも分かっている。
それでも私は、端末に向かって「不正」を、今度は迷いなく打ち込み始めた。
目を開けたまま、正しくない選択を、正しいと感じながら。




