安喰心:2
11/13(水) 8:30 p.m.
夜に黒猫を追いかけるというのは中々の苦行だ。
片田舎で街灯の少ない道を四つ脚で進んでいくそいつは、影のように楽々と夜に溶けていってしまう。だが、黒猫はオレに気を使っているのか時折此方を振り返って金の瞳を光らせているので、今のところ見失うことはない。
てくてく歩く黒猫の後ろを、間違って蹴り飛ばしてしまわないように数歩距離を空けて歩く。
最初は駆け出した黒猫を走って追いかけていたのだが、やはり運動不足がたたったのか一分も経たないうちに立ち止まり、膝に手をついて息切れを起こす羽目になった。
そんな風に時間をロスしてしまったわけだから、あの黒猫ももう行ってしまっただろうと思っていた。
だが、呼吸を落ち着かせて顔を上げると、律儀というか何というか、そいつは数歩先に四足揃えてちょこんと座って待っていた。
考えてみれば、オレを外に誘い出して何処かへ連れて行こうとしているのは黒猫の方で、オレが黒猫を必死に追いかけなければならないわけではないのだ。
そのことに気が付いてしまえば何というか、昔飼っていたペットに名残を感じたってだけで、傘も差さずに部屋を飛び出してはぁはぁ言っているオレは、ちょっとどうかしている。
一度立ち止まってからは、黒猫がオレを先導するようにてくてくと歩きはじめたので、それにならって今に至るのだが、家を出てから今までに何度か登場した曲がり角には目もくれず、ただひたすら真っ直ぐ進むだけ。
商店街が左側にあった以外は、家が数件と田圃や畑が点々としているだけのしょぼい景色に、徐々に懐かしさを覚えてきた。
このままずっと真っ直ぐ進むのなら、その先にある目立った建造物は一つ、学校だ。なぜあそこへ?
いや、もしかすると方向が同じだけで目指す目的地は違う可能性もある。
……なんて無駄な思考を行っているのだろう。一人で推測などせずとも、本人に聞けばいいのだ。
こいつは普通の黒猫じゃない。人の言葉を話すことが出来る常識外れの奇妙な黒猫なのだから。
「どこまで歩かせるつもりだ?」
誰かに話しかけるくらいのつもりで声をかけたが、考えてみるとどうだろうーー
「えーっと、僕に話しかけてるの? ここは人通りが少ない道ってわけでもないし、こんなところで猫に話しかけるなんて……誰かに見られたら危ないやつって思われちゃうからやめたほうがいいよ?」
……だな。どうやら、まだオレの精神は落ち着いていないらしい。やれやれとため息をつき、ポケットに常備している棒付キャンディを取り出し、封を切って口に放り込む。
出たゴミを反対側のポケットに突っ込みながら視線を前に戻し、揺れる尻尾をなんとなく眺めて歩く。
「ま、いっか。質問に答える前に……」
黒猫はゆるりと長いそれを揺らして振り返り、蜜柑色の縁をした眼鏡の奥に金の瞳を光らせる。しかし歩みは止まらない。
止まらないから、どんどん進んでいく。雨のせいか、人っ子一人いない通学路を進んでいく。
「実は僕ね、君のことは少し前から見てたの。だから、おかしいなーって思ってたの」
オレを見ていた……どういうことだ?
ふいっと、黒猫はオレの疑問をそっちのけで前へ向き直る。
「この一週間、君は一度も学校に行ってないよね。どうして? 17歳の君は、まだ学生のはずだよ?」
「……年齢を教えた覚えはねぇけど?」
「あ、そっか……んー、じゃあ順を追って話そうよ。多分君が僕に感じている疑問や違和感は、いつかキッチリ解消してあげるからさっ」
そう言って黒猫は立ち止まり、また振り返る。それに伴って、こちらも反射的に歩みを止める。
黒猫を蹴りそうだから止まったんじゃない。このT時路を右に曲がれば、左手に学校がある。多分、だからこの足は止まったのだ。
「突然だけど、君には時間がないんだ。そのことを伝えたくて、君を助けてあげたくて、僕はこことは違う世界からやってきたの」
恐らく真剣に話しているのだろう。だが、何処となく声が弾んでいる気がする。
さて、こいつは何を言っているのだろう。横切っただけで人間に不幸を与える存在である黒猫が、オレを助けると言っている理由がわからない。何から助けてくれるのかも。
だが、一々口を出すのは面倒くさい。順を追って話そうと言われたことだし、まず話を聞こう。
今までより騒々しく地面を叩きはじめた雨に、を少し意識を持っていかれながら、四つ足素揃えた黒猫の声に耳を傾ける。
「君は一ヵ月後の今日、12月13日にこの世を去ります。って言ったら、君は信じる?」
なんとまあ、死の宣告とはいきなりだな。なんとも不幸を携えた黒猫らしいこと。
というかもしかして、こんなチビが人間の命を救うつもりだっていうのか? ちょっと予想外だ。予想できるかこんなこと。
だがこの質問に対するオレの答えは案外早くでた。
「正直、信じてもいい」
考えなくても、口をついて答えが出た。
「……え?」
どうやら、今度は此方が予想外をプレゼントすることが出来たようだ。
まあそれも当然か。己の身に降りかかる人生最大の不幸の報せだ。それをそのまま鵜呑みにする人間ってのは、世間一般的に見た普通とは程遠いのかも知れない。
だが、こっちのほうがセオリーだろう。黒猫に助けるって言われるよりは、自らの死を素直に受け入れる言葉の方が幾分か現実味がある。
「えーっと、どうして信じてくれるの? 君と僕は、今夜初めて出会ったはずだよ?」
一見して分かるほど動揺した黒猫は、お行儀のいい姿勢から右前足を一歩出し、恐る恐る此方に歩み寄ってくる。
どこまで近付いてくるつもりか知らないが、ずっとオレの顔を見上げていたんじゃ首が痛むだろう。濡れたズボンが地肌に密着するのは気が進まないが、黒猫の目線の高さに近付くように屈んでやる。
そして、猫二匹分くらいの間隔を空けてちょこんと座り込んだそいつに用意してあった答えを言う。
「自分が一ヵ月後に死んでいようが生きていようが、どうでもいいんだよオレは」
これは本心だ。
いつからだったか、オレは自分という存在に対する興味を失くした。
特に大きな感情の起伏のない日々を、一人で過ごしていたからだろうか。
それともこいつの言うとおり、学校という集団生活の場から逃げ出してしまったからだろうか。
或いは、なんの夢も目標もなく、ただこの世に存在しているからだろうか。
わからないし、もうオレはわかろうとも思っていない。
一人思考を巡らせたところで、結局答えが出ることはないのだから。
それに、何も考えないというのはやってみると恐ろしく楽なことだ。
何も考えず、興味を持たず、何にも関わらなければ確実に当事者になることはない。加害者にも、被害者にもならない。その他大勢としての部外者でいられる。それが望みだった。
なのに、今日のオレはどうかしている。死んだペットの面影を見たってだけで、普段じゃ絶対出ないこんな雨の日に家を飛び出して、結果的に面倒ごとに関わってしまうなんて。
自分に対する呆れから、つい漏らした溜息に顔を引いた黒猫だったが、オレの返事に対してはあまり驚いていないようだ。
猫の表情なんて読み取れないのでなんとも言えないが、哀れみの目を向けられている気がする。小動物に憐れまれる日が来ようとはね。
「確かに君は生きた人間の目をしていないよ。でもその割には元気そうっていうか、鬱症状が見られるわけでもないし、かなり特殊な人間だね」
サラッと酷い評価を受けた気がするが、喋る猫にかなり特殊だと言われてもな。明らかにスケール負けだ。
「それで人間。さっき話した最悪の事態に対する解決策として、僕は君を学校に連れて行こうとしているのだけれど、大丈夫? 学校恐怖症とかだったりしない?」
そんなピンポイントな病が存在するのかは知らないが、多分それはない。そんなことが原因で通学を辞めたわけじゃないしな。
今から中に入るとして、この時間なら残っている生徒も少ないだろうし、態々オレに関わってこようとする物好きも恐らくいない。
もう一年以上中には入っていないが、万が一見つかったとしても不法侵入で御用ということも多分ないだろう。未だ学校側から退学を知らせる通知が来ていないからな。
別に退学でも構わないと伝えてあるにはあるのだが、それでは示しがつかないとかなんとからしい。所謂大人の事情ってやつだ。大変だねー。
「入るだけってなら問題ねえよ。だけど、それとオレの寿命になんか関係あんのか?」
とはいえ、生徒と鉢合わせになるのは避けたいというのが本音だ。確かな理由がなければこのまま黒猫と別れて部屋に戻ってやる。
「あるよ。あるけれど、それは学校の中で話そうと思うんだけど、ダメかな? このまま雨に濡れてたんじゃ、風邪引いちゃうしねっ」
さいですか。
先刻の思考を繰り返すことになるが、オレは出来るだけ何事にも関わらないようにしている。それには理由が二つあり、一つはさっきの通りそのほうが楽だから。
そしてもう一つは、一度関わってしまうと、それを上手く断ち切ることが出来ないからだ。
例えるなら、オレは一度手をつけた本は読み切るまで手放さないタイプだ。知ってしまった以上は事の顛末を見なければ気が済まないというか、途中で読むのを止めてしまうと続きが気になって仕方がなくなってしまう。
流石のオレも、自分の命に関わる現実の展開を読書と同じように捉えるというのは、どう考えても可笑しいとは思う。頭がイカれている。
だが、事の顛末をオレは知りたい。
「はぁ……わかったよ。中で聞いてやるから、手短にな」
客観的に見れば、突然現れた何故か眼鏡で言葉を話す黒猫に一ヶ月後に死ぬといわれた不登校の不良生徒が、その黒猫に救われるというのは、読み始めるとオチが気になるストーリーだ。
逆に主観的に考えると、なんとも傍迷惑な面倒な話である。
だから聞くだけ聞こう。内容さえ分かってしまえば、いくら気になるとはいえ、ネタバレを食らった作品を最後まで読む必要性は格段に下がるからな。
「勿論そんなに手間は取らせないよ。色々質問はさせて貰うかもしれないけどねっ」
にゃははっと、あからさまに猫っぽく笑い、楽しそうに声を弾ませた黒猫はオレに背を目的地へと再び歩き出す。
どうにもあいつの掌の上で踊らされている感が否めないのだが、了承してしまった以上、ここで引き返す選択肢はない。
自分で決めたとは言え、もう進むしかないという面倒さに深く溜息を吐いて立ち上がり、下校時間を過ぎた学校へ向かう。
はぁ。こんなに長くなるなら、ポケットにアメを詰めてから来ればよかった。