第2話 監察局の洗濯係
洗濯場で過ごす最後の朝は、いつもより水が冷たかった。
「これ、持っていきな」
グレタさんが、私の前に古い火のしを置いた。持ち手の木が黒ずんで、私の手の形にすり減っている。この二年、毎日使ってきたものだ。
「監察局にだって、火のしくらいあるだろうけどね。あんたの手に馴染んでるのは、これだけだよ」
「……いいんですか」
「あたしが使うと、手が滑るんだ。あんたの癖がついちまって」
グレタさんはそっぽを向いて、釜の火をかき混ぜた。それきり、こちらを見なかった。
ポリーは、朝からずっと泣いていた。
「ひどいわよ、リネット。あんたがいなくなったら、誰が私の噂の答え合わせしてくれるのよ」
「噂を減らせばいいと思う」
「無理!」
ポリーは鼻をすすりながら、私の荷物に石鹸を一つねじこんだ。薔薇の香りの、少し高いやつだ。
「それとね、これ、言おうかどうか迷ってたんだけど」
ポリーは急に声をひそめた。
「昨日の、白い手袋の人。あの人、前にも来たことあるのよ」
「……え?」
「三回くらいかしら。洗濯物を預けるわけでもなくて、入り口でちょっと中を見て、帰っちゃうの。変な人だなって思ってたのよね」
背中が、すっと冷たくなった。
「いつ?」
「さあ……そういえば、あんたが釜の前にいる日ばっかりだったかも」
ポリーは、何でもないことのように言った。
──君は、灯火の家の子だったね。
昨日の、あの穏やかな声。
あの人は、ここに来るたびに、私を見ていたのだ。
*
監察局は、王宮の北の端にあった。
石造りの古い建物で、廊下にまで書類の箱が積み上がっている。窓は曇り、床には誰かの靴の泥がそのまま乾いていた。
「洗濯室は、ここだ」
ルシアン様が開けた扉の向こうは、物置だった。
箒と、壊れた椅子と、蜘蛛の巣。それから、部屋の隅に、山のような汚れ物。
「……ここ、ですか」
「監察局の洗濯物には、証拠品も混じる。外の洗濯場には出せない決まりだ」
「でも、この前は、洗濯場に持ってこられましたよね」
ルシアン様は、少しだけ目を逸らした。
「だから、上から叱られた。二度とやるなと」
「……それで、私をここに?」
「前の洗濯係が三年前に辞めてから、誰もまともに洗っていない。ちょうどよかった」
「三年」
「文句があるなら給金を下げる」
「ありません」
私は袖をまくった。
汚れ物の山のいちばん上に、白いシャツが一枚、丸めて投げてあった。上等な生地だ。持ち上げて広げると、右の袖が、肘から手首まで、くしゃくしゃに皺になっていた。袖口の内側には、細い黒い線が何本も、斜めに写っている。
私は、シャツとルシアン様を見比べた。
「ルシアン様。昨夜も、机で寝ましたね」
「……何?」
「右腕を枕にして。袖の皺は、頬で押しつぶした跡です。袖口のインクは、書きかけの書類の上で寝たから、乾いていない字が写ったんです。鏡に映したみたいに、左右が反対の字が見えます。それに、同じ場所に皺が三重に重なっている。少なくとも三晩、家に帰っていません」
ルシアン様は、しばらく黙っていた。
廊下の向こうで、年配の監察官が吹き出す声が聞こえた。
「当たりだ、お嬢さん。こいつは三晩どころか、今月は二度しか家に帰っとらん」
「グスタフ、黙れ」
ルシアン様は舌打ちをして、シャツを私の手からひったくろうとした。私はそれを、すっと後ろに引いた。
「洗います。私の仕事ですので」
ルシアン様は、何か言いかけて、やめた。
それから、ほんの少しだけ、耳が赤くなった。
*
その日は一日中、洗った。
三年分の汚れ物は、三年分の事件の匂いがした。泥。煤。墨。誰かの血の古い跡。ほとんどは、ちゃんと洗えば落ちた。けれど三年放っておかれた血の跡だけは、もう布の一部になっていて、どれだけ水を替えても薄くならなかった。
夕方、物干し場に最後のシャツを干し終えたとき、私は思い切ってルシアン様の部屋の扉を叩いた。
「ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「なんだ」
「ローゼンハイム公爵家のお使いの方は、よく王宮に来られるんですか」
ルシアン様が、書類から顔を上げた。
「なぜ」
「昨日、洗濯場に、公爵家のお使いだという方が来て。洗濯物の中に、ハンカチが紛れていなかったかと」
嘘は、言っていない。
ハンカチが、私のエプロンのポケットに入っていることを、言っていないだけだ。
ルシアン様は、しばらく私の顔を見ていた。それから、黙って立ち上がって、外套を取った。
「ちょうど、ギデオン卿の件で公爵家に寄る用がある。聞いてくる」
一刻ほどして、ルシアン様は戻ってきた。
扉を閉めて、低い声で言った。
「公爵家は、ハンカチを探す使いなど出していない」
指先が、冷たくなった。
「白い手袋で、甘い香油の匂いの男だったか」
「……どうして」
「公爵家の門番が覚えていた。昨日の昼、そういう男が門の前で、アルベルト様の具合を尋ねていったそうだ。名乗らずにな」
ルシアン様は、私の前に立った。
「リネット。なぜ、その男のことを聞いた」
答えられなかった。
トビーのことを話せば、あの子の秘密を話すことになる。さがさないで、あぶないから、とあの子は書いた。
ルシアン様は、私の沈黙を、長いこと見ていた。
「……理由は聞かない」
そう言ってから、彼は少しだけ、声を落とした。
「ただ、次にその男が来たら、俺を呼べ。どこにいても、呼べ」
目つきの悪い人だと思っていた。
けれど、その目は、思っていたよりずっと静かだった。
「はい」
*
帰りぎわ、ルシアン様が、一冊の綴りを私の前に放った。
「明日から、仕事だ」
表紙に、事件の名が書いてあった。
『ブランシュ伯爵家 家宝の首飾り紛失の件』
「伯爵家の家宝が消えた。侍女が一人疑われているが、本人は否定している。明日、その日屋敷にいた者の衣類を、ここへ運ばせる。汚れ物から、何か出るか見てくれ」
伯爵家。
その言葉で、手が止まった。
トビーのハンカチの、茶色い字。
『マルタも いきてる。きょねん、はくしゃくけの おちゃかいで みた。ちがう なまえで よばれてた』
王都に、伯爵家はいくつもある。
ブランシュ伯爵家がそうだという証拠は、どこにもない。
それでも、綴りを持つ手が、震えていた。
ポリー。王宮でいちばん噂に詳しい洗濯係。たまに、大事なことも言う。
次回、伯爵家の衣類が届く。
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