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月影の記憶  作者: しまゆり
第一章 月の姫の日々

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第2話 春の市と政朝

人々の暮らしを知ること。

それは後に姫が進む道の、最初の一歩だった。

 春の朝は、どこか浮き立つような空気に満ちていた。

 宮殿の庭には柔らかな陽射しが降り注ぎ、芽吹いたばかりの若葉を揺らす風が、甘い花の香りを運んでくる。


 朝の集まりを終え、皆がそれぞれの仕事へ散っていく中、姫は一人そっと考えていた。


 ——今日は、お茶会の茶菓子にするお団子の下見に行こう。

 お茶会を開くからには、妥協はしたくない。

 せっかくなら春らしい品も欲しいし、皆が喜ぶものを揃えたい。

 けれど、一人で町へ出るのも少し味気ない。


 そう思った瞬間、頭に浮かんだ相手は一人だった。


「政朝さん、町へご一緒しない?」


 早々に仕事を片付け、声をかければ返事は予想通りだった。


「……行く」


 短い返答に、姫はぱっと顔を明るくする。


「では、早く!」


「元気すぎだろ、姫さん……」


 政朝は眠たげに片目を細め、呆れたように呟く。

 けれど、その足取りはしっかり姫の後を追っている。


「今日は大事な下見なのよ?」


「下見って言う割に、絶対食う気満々だろ」


「確認は大事なの」


 しれっと言い返され、政朝は思わず吹き出した。

 そんなやり取りをしながら、二人は春の市へ向かう。


 町はすでに多くの人で賑わっていた。


 色鮮やかな布が風に揺れ、焼き菓子や香の匂いが通りを満たしている。

 花飾りを売る店の前では子供たちの声が弾み、楽師が奏でる笛の音が軽やかに響いていた。


 その景色の中で、姫はまるで子供のように目を輝かせる。


「見てみて、胡麻団子!」


「おー」


「こちらは桜餡ですって。春限定なのね」


「まだ着いて早々なんだけど?つーか、姫さん、花より団子だな」


 言っているそばから、姫は屋台へ吸い寄せられていく。

 政朝は苦笑しながら、その後ろを追いかけた。


 人混みの中、姫の袖が通行人にぶつかりそうになる。

 政朝は反射的にその肩を引き寄せた。


「っと。前見ろよ」


「あ、ごめんなさい」


 素直に謝った姫は、次の瞬間には別の屋台へ視線を奪われている。


 ——ほんと、放っておけねぇな。


 賢木のように器用に守れるわけじゃない。

 道隆のように穏やかに寄り添えるわけでもない。

 けれど。

 姫が楽しそうだと、それだけで十分だと思ってしまう。


「政朝さん!」


 呼ばれて顔を上げると、姫が串団子を差し出していた。


「はい。一口どうぞ」


「は?」


「感想役をお願いします」


「雑な役割だな……」


 呆れながらも口をつければ、香ばしいみたらしの甘辛さが舌に広がった。


「……うま」


「でしょう?」


 姫は顔をほころばせる。

 その笑顔が思ったより近くて、政朝は視線を逸らした。


 市の中央へ向かうにつれ、人通りはさらに増えていく。

 姫と政朝が並んで歩くだけで、周囲の視線が自然と二人へ向けられていた。


「……月の姫様だ」


「隣は政朝殿か」


「あの距離感、随分親しいな……」


 声は小さい。

 けれど、ひそひそと交わされる言葉は確かに耳へ届いていた。

 政朝は聞こえないふりをする。

 一方の姫はまるで気づかず、桜餡の団子を見つけては目を輝かせていた。


「政朝さん、これは新作!」


「はいはい……」


 そんなやり取りを続けていると、近くで遊んでいた子供たちが姫を見つけて駆け寄ってきた。


「姫さま、こんにちは!」


「政朝さまも一緒なんだね!」


 姫はしゃがみ込み、優しく子供たちの頭を撫でる。

 政朝も軽く手を振った。

 すると子供たちは顔を見合わせ、こそこそと何かを相談し始めた。


 嫌な予感がした。

 次の瞬間。


「ねぇ、二人って結婚しないの?」


「ぶっ――!」


 政朝は盛大にむせた。


「な、何言ってんだお前ら!?」


 耳まで真っ赤になりながら声を荒げる。

 胸の奥が妙に熱かった。


 ——嬉しい、なんて思うなよ俺。


 分かっている。

 姫にとって自分は、賢木のような特別な存在ではない。

 せいぜい気安い兄貴分だ。


「……俺はあれだ、兄貴みたいなもんだろ? なぁ、姫さん」


 そう言うと、姫はふわりと目元を緩めた。


「ええ。政朝さんはとても頼りにしているの。家族が増えたみたいで嬉しいわ」


 その言葉に、政朝は一瞬だけ目を伏せる。

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 ——家族、か。


 周囲の大人たちは、そんな二人を遠巻きに見ながら小声を交わしている。


「子供でも気づくほど仲が良いのだな」


「姫様はお優しいから……政朝殿が誤解されなければ良いが」


 悪意はない。

 ただ、“月の姫”という特別な存在を見上げる者たちなりの距離感が、そこにはあった。

 その時、姫の口元に桜餡がついているのに気づき、政朝は自然と手を伸ばした。


「……ついてる」


「あら、本当」


 指先で拭われ、姫が少しだけ頬を染める。

 その光景に、周囲の空気がまたざわついた。


「……あれはさすがに」


「どう見ても……」


 子供たちはきゃっきゃと笑っている。


「やっぱり仲いいんだ!」


「結婚するんだ!」


「だから違ぇっての!」


 政朝は頭を抱えた。

 姫だけが、意味が分からないまま不思議そうに首を傾げている。


 ——距離感、おかしいんだろうな。


 分かってる。

 月の一族である姫と、地の一族の自分たち。

 普通なら、こんな自然に触れたりしない。

 でも姫は嫌がらない。

 むしろ安心したみたいに笑う。

 その無防備さが、嬉しくて、困る。


「政朝さん?」


「……なんでもねぇよ」


 政朝は頭を掻いた。


 ◇


 帰り道。

 気づけば、団子の包みはかなりの量になっていた。

 夕焼けが通りを橙色に染め、人通りも少し落ち着いている。

 姫は包みを大事に抱え、政朝を見上げる。


「いっぱい買えて満足だわ」


「買いすぎだろ。下見なのにこの量だ。賢木に絶対イヤミいわれるぞ」


「ふふ、賢木兄様はいつものことだから平気よ。皆で食べるの、楽しみね」


 夕風が吹き抜け、姫の髪がさらりと揺れた。


 本当はこうして二人で歩いている時間が、少し特別になっている。

 姫はきっと気づいていない。

 賢木とも、道隆とも違う。

 自分だけの距離が、少しずつできていることに。

 なのに


「……俺との下見より、そっち優先かよ」


 ぽつりと零れる。

 姫が足を止めた。


「え?」


「いや、なんでも——」


「私は、政朝さんと来たから楽しかったのよ?」


 まっすぐな声で言われ、政朝は一瞬、言葉を失う。


「一人だったら、こんなに楽しくなかったもの」


 夕焼けの光が、その笑顔を柔らかく照らしていた。


 ——駄目だ。また調子が狂う。


 政朝は視線を逸らし、大きく息を吐いた。


「……そういうこと、簡単に言うなよ」


「?」


 姫は意味が分からないまま首を傾げている。

 政朝は苦笑した。


 ◇


 一方その頃、宮殿では。

 道隆が茶器の準備を確認しながら、帳簿を閉じた賢木へ視線を向けていた。


「そろそろ姫様が戻られる頃でしょうか」


「……あの二人だ。下見とか言っていたが、どうせ団子を大量に抱えて帰ってくる」


 賢木は眉間に皺を寄せた。

 道隆は眉を下げつつも楽しそうだ。


「茶会の支度は進めております。団子が増えても問題ありません」


「抜かりないな」


「姫様はきっと、満面の笑みで戻ってこられますから」


 その言葉に、賢木は諦めたように肩を竦めた。


 ◇


 夕暮れ前。

 宮殿へ戻ってきた姫と政朝の両手は、案の定、団子の包みで塞がっていた。

 賢木はそれを見るや否や、額を押さえる。


「……下見とは聞いていたが、なんだこの量は」


「姫さんが止まんなくて」


「政朝さんも食べていたでしょう?」


「否定はしねぇけど!」


 即座に返され、道隆がくすくすと笑う。

 女房たちも微笑みながら、茶の準備を進めていた。


「姫様、お茶会の支度は整っております」


「ありがとうございます。では皆でいただきましょう!」


 姫は嬉しそうに団子を抱え直す。

 政朝は疲れ切った顔をしていたが、その表情にはどこか満ち足りたものがあった。

 賑やかな声が広間に広がる。


 ——この宮殿は、きっとこういう場所なのだ。


 春の夕風がそっと吹き抜け、甘い団子の香りを運んでいった。


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