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月影の記憶  作者: しまゆり
第一章 月の姫の日々

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第1話 姫と道隆のお団子談義

月には長い歴史があった。

これは、月の姫とその仲間たちが、まだ穏やかな日々を過ごしていた頃の記録である。

 春の陽射しが、縁側にやわらかく差し込んでいた。

 庭では淡い若葉が風に揺れ、時折、花びらがひらりと舞って畳の上へ落ちる。


 姫は小皿の上の団子をじっと見つめ、真剣な顔で考え込んでいる。

 白い指先が、皿の縁をそっとなぞった。


「……やっぱり、みたらしかしら?」


 向かいに座る道隆が穏やかに笑う。

 湯呑みから立ちのぼる湯気が、春風にゆるやかに溶けていった。


「ほう。姫は甘辛いものがお好きなのですね」


「好き。でも、お団子って気分で変わるのよね」


 姫は指を折りながら数え始める。

 さらりと揺れた髪が肩を滑り、陽射しを受けて淡く光った。


「疲れてる時は餡。楽しい時は三色。ちょっと贅沢したい時は胡麻」


「なるほど。実に奥深い」


「でしょう?」


 少し得意げに笑う姫。

 ころころ変わる表情が、春の日差しのように明るい。


「では、一番お気に入りのお店は?」


「東の市のお店!」


 ぱっと顔を輝かせる。


「焼きたてを出してくれるの。香ばしくて、もちもちで……すごく美味しいのよ」


 話しているうちに楽しくなってきたのか、姫は少し身を乗り出した。

 袖が畳を擦る柔らかな音が響く。


「あと、季節限定もあるの。春は桜餡、夏はずんだ、秋は栗」


「そこまで把握されているとは」


「美味しいものの情報収集は大事だもの」


 姫はふふっと笑う。

 道隆もつられるように笑みをこぼした。

 穏やかな空気が二人の間に流れている。


 少し離れた柱の陰。


 政朝が腕を組みながら、その様子を眺めていた。

 春風が前髪を揺らしても、彼は気にした様子もない。


「……なんか腹立つな」


「……ああ」


 隣にいる賢木の眉間に皺が寄り、その視線は静かに姫へ向けられたままだ。

 賢木と姫、二人に血の繋がりはない。

 それでも、姫が「兄様」と呼ぶようになってから、もう随分と長い年月が流れていた。


「別に距離近いわけじゃねぇんだぞ?」


「分かっている」


「触れてもねぇし、甘い空気でもない」


「分かっている」


 賢木が低く返す。

 湯呑みを持つ手は落ち着いているのに、視線だけが鋭い。

 政朝は唇を尖らせた。


「なのに入り込めねぇ……」


 賢木は小さく息を吐く。

 姫があまりにも自然に笑っているからだ。

 二人の間には特別な空気があるわけではない。

 ただ、長い春の日向のような心地よさが流れていた。


 庭の木々が風に揺れ、さらさらと葉擦れの音が響いた。

 その頃、姫はさらに楽しそうに話していた。


「今度、お茶会とかどうかしら?」


「お茶会、ですか」


「ええ。皆で好きなお団子を持ち寄るの。絶対楽しいと思うの」


「それは素敵ですね」


「道隆さんは何を持ってくる?」


「そうですね……粒餡でしょうか」


「やっぱり!」


 姫の声が一段と弾む。


「絶対そうだと思った」


 柱の陰で、政朝がぼそっと呟く。


「……姫さん、めちゃくちゃ楽しそうだな」


「そうだな」


「俺も行こうか……」


「やめておけ」


 賢木が嗜める。

 静かな声音なのに、妙な圧があった。


「何でだよ」


「空気が変わる」


「お前も入りたいと思ってんだろ!?」


 賢木は否定しない。

 ただ静かに姫を見つめていた。

 風に乗って、姫の笑い声が微かに届く。

 その時、姫がこちらに気づく。


「あ、賢木兄様、政朝さん」


 ぱっと花が咲くように笑った。


「二人も、お団子の宴やるなら来る?」


「行く」


「もちろん行く」


 綺麗に声が重なる。

 姫はきょとんとしてから、くすっと笑った。

 肩を震わせるたび、髪飾りが小さく揺れる。


「二人って、そういうところ息ぴったりよね」


「「違う」」


 否定だけ、また綺麗に揃った。


 春風が吹き抜け、庭先の花びらをさらっていく。

 姫の笑い声は、しばらく縁側に残っていた。


 ―― 陽が傾き始める頃。


 人も減った庭を眺めながら、賢木は湯呑みに口をつけていた。

 空は薄く茜色に染まり、池の水面にも夕陽が揺れている。

 その向かいに、道隆が腰を下ろす。


「珍しいですね。今日はお一人で」


「政朝なら姫に振り回されている」


「ああ……なるほど」


 道隆はすぐ察したように笑った。


「市へ連れて行かれましたか」


「団子の下見だそうだ」


「楽しそうで何よりです」


 賢木は吐息混じりのため息をつく。

 遠くから、賑やかな笑い声が微かに聞こえた気がした。


「お前らはあいつを甘やかしすぎる」


「そうですね。姫が楽しそうにしておられると、こちらも嬉しくなりますから」


「それが甘いと言っている」


「賢木様が厳しすぎるのですよ」


 穏やかな返し。

 だが、その言葉に賢木はわずかに口元を緩めた。

 夕陽がその横顔を淡く照らす。

 道隆は気づいている。

 賢木は本気で嫌なら、そもそもこうして会話を続けない。


「しかし」


 道隆が茶を置く。

 かすかな陶器の音が静かな回廊に響いた。


「政朝殿は、よく賢木様に食らいつきますね」


「無駄に胆力があるよな、俺の方が立場は上なんだが」


「普通は少し引きますが、政朝殿なので不思議ではありませんね」


「まったく、面倒な奴だ」


 即答だった。

 道隆がふっと笑う。


「ですが、嫌ってはおられないでしょう?」


 賢木は沈黙する。

 風が吹き、回廊の簾が揺れた。

 その間だけで、道隆には十分だった。


「……あの男は騒がしい」


「ええ」


「距離感もおかしい」


「ええ」


「姫の隣が当然の顔をしているのも腹立たしい」


「それは嫉妬ですね」


 賢木が無言になる。

 道隆は湯気の向こうで微笑んだ。


「ですが、政朝殿のおかげで姫が笑っておられるのも事実です」


「……分かっている」


 賢木は視線を庭へ流した。

 夕風に花びらが舞い、池へ落ちて静かな波紋を広げていく。


「分かっているから、余計に厄介なんだ」


 その声音は静かだった。

 道隆は少しだけ目を細める。


「賢木様は、本当に不器用ですね」


「なんだ、今日はよく口がまわるな」


「おや、そうですか」


 道隆はわざとおどけて見せる。


「お前も似たようなものだろう」


 道隆は一瞬だけ言葉を止め――やがてふっと笑った。


「否定はしません」


 賢木もつられて笑う。

 感情的にならず、必要以上に踏み込みすぎず、けれど互いの考えは自然と理解している。


 道隆は淡い陽へ目を留めた。


「姫の周囲は、本当に賑やかになりましたね」


「ああ」


「昔はもっと、静かでした。賢木様のお側が心地よいとおっしゃって」


 その頃の姫は、世界の大半を賢木の背中越しに見ていた。


「……よく笑うようになった」


「ええ」


 道隆は穏やかに頷く。


「それは、とても良いことです」


 しばし沈黙が流れる。

 遠くで鳥の鳴く声だけが、静かな庭に響く。

 賢木はふと口を開いた。


「ところで道隆」


「はい?」


「茶会は、お前も本気で参加する気か」


 道隆が吹き出した。


「まさかそこを気にしておられたとは」


「答えろ」


「もちろん参加しますよ」


 賢木が露骨に眉を寄せる。

 道隆は楽しそうに笑った。


「賢木様、顔に出ています」


 夕刻の風は心地よく宮殿の回廊を吹き抜ける。

 その風が、彼らの間にあるわずかな距離を、そっと撫でていった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

実は『月影の記憶』は、もともと全5話で完結する予定のお話でした。


いきなりお団子のお話から始まったので、「どんな物語だろう?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。


この先、姫はたくさんの人と出会い、悩み、支えられながら少しずつ成長していきます。


気が向いた時にでも、姫たちの物語にお付き合いいただけましたら幸いです。

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