後編
俺の粘り強い説得で、母親はようやく決意し、父親との離婚に向けて心の舵を切ることにした。
無論その目的を達するのは容易なことではなかったが、幸いなことに良い弁護士さんに巡り合えて、いろいろと尽力してもらった結果、俺と母親にとってかなり有利な条件で、離婚成立にこぎつけることができた。
まあ、なんだかんだとゴネまくる父親が最終的に判を押すことになった理由が、「あまり揉めると会社内での立場も悪くなる(かもね)」という、怖い笑みを浮かべた弁護士さんの脅し……じゃなかった忠告であったのは、ちょっとどうかと思ったけど。
あの男にとって、優先順位のいちばん上にあるのは本当にそれだけなんだなあと、呆れるのを通り越して感心しそうになったくらいだ。
それでもとにかく、家から出て行くのは俺と母親ではなく、父親ということで決着はついた。
「おまえの代わりなんて他にいくらでもいるんだ」と母親に向かって最後まで捨て台詞を忘れなかった父親は、浮気相手だか愛人だかのもとに向かったらしい。相手があんな男を受け入れるかどうかは不明だが、どちらにしろそこでもゴタゴタは起こるだろう。
でももう、どうでもいい。あの男と俺を繋ぐ鎖は切れた。ようやくあいつの支配から逃れられてほっとしたが、これからはまた大変な日々が待っている。余計なことを考える暇なんてない。
俺と母親は、ぎこちないながらもなんとか生活を立て直し、少しずつ新しい日常に慣れていった。俺はまた毎日学校に通い始め、母親はやっと見つけた就職先で仕事を頑張っている。
隣の女の子とは、時々顔を合わせても、すぐにお互い顔を逸らしてしまう。
あの時のことを思い出すたび、未来への夢と希望でいっぱいの中学一年生になんてことを言ってしまったんだと地の底まで落ち込みそうになる。小学生の頃、あの子にちょっかいをかけて泣かせていたいじめっ子よりも、ずっと悪質で最低だった。上背のある俺に凄まれて、睦美もきっと内心では怖かったはずだ。これから将来に渡って消えない心の傷になったらどうしよう。
あの後、泣いただろうか。昔から俺はあの女の子の涙に弱い。今の睦美の傍に、頭を撫でて慰めてくれる誰かがいてくれるといいのだが。
俺にはもう、二度とそんなことはできないから。
***
俺が大学生の時、また人生の転機が訪れた。
母親が大病を患ったのである。医者によると、手術の成功率は半々で、かといって放置しておくとあっという間に悪化してしまうという。
大学近くのアパートで独り暮らしをしていた俺は、すぐに実家に帰った。
家と大学、それから病院にバイト先、その間を何度も往復するのは、肉体も精神もすり減るくらいに疲れる毎日だった。
時間がどれだけあっても足りない。ゆっくり眠ることなんてできるはずもなく、病人である母親にまで「顔色が悪い」と心配されるくらいだったが、そんなことを言っている場合じゃなかった。
やっとあの父親との縁が切れたかと思えば、次は生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる。
どうして母親と俺ばかりがこんなにも苦労を背負わなきゃならないんだと、神というものを呪いたくなった。
俺がそんなことを考えていたのが通じたのか、神はまた俺の前にひょっこりと遣いを寄越してきた。
「こ……こんにちは、お隣の者ですが」
と、かなり不自然な挨拶をして、俺の前に再び現れた睦美は、しばらく会わないうちにすっかり年頃の女の子に様変わりしていた。
もう子どもじゃない。かといって、まだ女性と呼ぶほどでもない。大きな目が昔の名残を感じさせるだけの、溌溂とした生気に溢れた女子高校生だ。肩の下まである髪も、身長は伸びたのにまろやかな丸みを帯びた身体つきも、どこもかしこも大人びて、少し視線のやり場に困ってしまうほどだった。
そんなに言葉は交わしていないのに、睦美はこちらの事情と窮状を素早く察したらしく、手伝いを申し出てくれた。
俺への嫌悪や恐怖心は残っていないのだろうかとこっそり窺ってみたが、成長した彼女の心情など、俺にはもうすでにひとかけらも読み取れない。
「悪いな」
「いいよ」
結局、そんな形でなしくずしに俺たちの交流は再開したのだった。
***
母親の手術は無事に成功した。俺はアパートを引き払い、自宅に戻って腰を据えることに決めた。大学に通うのは少々手間だが、気分的にはずっと楽になった。
家に帰ることにしたのは、もちろん母親のことが気がかりだったためもあるが──もうひとつ。
どうしても離れたくない存在ができたからだ。
睦美に付き合いを申し出るまでには、ものすごく悩んだ。
まず、あちらが俺のことをどのように見ているのかまったく判らない。いや、好意を持ってくれているのは判るが、それが「兄のような幼馴染」に向けるものなのか、それとも「異性」に向けるものなのか、見極めがつかない。
そして、自分自身にも何度も問いかけた。この気持ちは本当にそういう類のものなのか。小さい頃、睦美は俺にとってあくまでも庇護の対象でしかなかった。現在自分が抱くこの感情が、それの延長ではないと果たして言い切れるか?
四歳差というのも大きい。今まで付き合ってきた相手はほとんど同じ齢か一歳下くらいがせいぜいだった。しかも睦美はまだ高校生。あれ? これって大丈夫? 下手をすると犯罪になったりしない?
考えすぎて疲れ果て、友人に相談したら、そいつから返ってきた解答は至ってあっさりしたものだった。
「異性と妹のようなものの境界がよく判らんて……そりゃおまえ、その子を相手にエロい妄想ができるかどうかじゃね?」
で、試してみた。妄想の内容は省略するが、結論から言うと、ぜんぜん問題なかった。ちょっと自分でも引いてしまうくらい、睦美を相手にしてそちら方面に進むことになんら心理的な抵抗も躊躇もなかった。いや、あくまで脳内での話だが。
むしろ、俺以外の男がそういうことを考えたり実行に移したりするかもしれないと想像しただけで、腸が煮えくり返りそうになった。睦美が時々してくれる「学校であった面白い話」に同級生の男が登場するとなんとも言えず不愉快になったのは、兄的な立場からの心配からだと思っていたが、要するに嫉妬だったわけだ、そうかそうか。
背徳的なことで興奮するタチではないので、俺はもうずっと以前から、睦美のことを異性として見ていたのだろう。
母親の手術が間近に迫っていた、あの日の夕暮れの中で。
背中を押すでもなく、慰めの言葉を出すでもなく、俺の手をしっかりと握って一緒に前へと進んでくれたあの子の凛とした横顔を見た時に、俺はたぶん恋に落ちていたのだと思う。
が、それは俺のほうの事情であって、あちらにしてみれば単に昔馴染みの知り合いを励ましたというだけに過ぎないのかもしれない。その後差し向かいで勉強を見たり、二人で映画を観に行ったりご飯を食べたりしたのも、「年上のお兄さんに面倒を見てもらっている」くらいにしか考えていない可能性は十分にある。
そこでいきなり交際を申し込まれたりしたら、睦美はきっとびっくりするだろう。いや驚くくらいならまだいいが、「気持ち悪い」と思われたらどうすればいい。今度こそちょっと死にたくなるかもしれない。睦美はどうやら俺が思っていたほど繊細なタイプではないらしいが、やっぱり心の傷になることも大いに考えられる。
などということで思い悩むこと数か月。
ようやく心を決めたのは、俺が就職の内定を受け、睦美の進学先も決まったというタイミングの時だった。
ここを逃すともう一生言い出せないんじゃないかという気がして、俺は睦美に「付き合ってほしい」と切り出した。いや、実際の言い方はもっと変だった。緊張しすぎてそれどころじゃなかったのだから許してもらいたい。
長い間の煩悶と苦悩の末に出したその言葉に対する睦美の答えは、速攻で返ってきた。
「うん!」
満面の笑みを浮かべてその一言を出し、首がもげそうなほど大きく頷くまで、実質三秒くらいしかかからなかった。俺のほうが固まった。
あれ、何か勘違いされたか? ちょっと買い物に付き合って、うんいいよ、くらいのノリで返事をしているのだが。俺の言い方が悪かったのか──悪かったに決まっているが、でも、この子そこまでニブかったっけ?
誤解があるなら訂正しようと思ったのだが、睦美を見るとその頬は赤く染まり、きゃっきゃと浮かれるようにはしゃいでいる。「やっとヤスくんと『彼氏彼女』になれるんだあ~」と言っているところからして、誤解されたわけではないようだ。あ、よかった。いやいや、ちょっと待って。
「……睦美、もう少しよく考えよう」
「ん? 考えるって何を?」
「俺は『男女として』付き合いたいと言ってるんだけど、それは判ってる?」
「えっ、何かエッチな話? やだもー、ヤスくん、ちょっとまだ早いよ! 下にはおばさんもいるし!」
「赤くならないで。俺のほうが照れる。そういうことじゃなく……いや、そういうこともあるけど今は置いといて、付き合うとなるとさ、ほら、いろいろあるだろ?」
「いろいろって?」
「俺たち隣同士だし、正式に付き合い始めたら、どうしたって互いの親にも知られることになる。その後でどうなるかはまだ判らないけど、上手くいってもいかなくても、普通のカップルよりなにかと面倒なことが多いだろうし……」
これから俺たちが付き合ったとして、それは「幼馴染として」のものではなくなるということだから、その先にあるのは結婚か破局かのどちらかしかない。そしてその二つのどちらでも、双方の親を巻き込んでの騒動が起こるだろうことは想像に難くない。
幸福な方向に進めばいいが、もしもそうでなければ、隣り合った二家に深刻な亀裂が生じる場合もある、ということだ。幼馴染同士というのは、気軽にくっついたり別れたりできる他の人たちと、そういう点で違う。
俺がそう説明するのを、睦美はきょとんとした顔で聞いていた。
「……もしも今後、睦美が俺のことを『顔を見るのも嫌』と思うような事態になったらさ」
「そんなこと思わないよ」
「判らないだろ? この先のことなんて、誰にも判らない。もしそうなったら、俺一人がここからいなくなればいい、って簡単な話じゃ済まない。周りも気まずい思いをするだろうし、睦美も苦しい思いをするかもしれない」
「…………」
「『こいつ意外とめんどくせえな』って顔をしない。大事なことだよ」
俺は真面目に言った。
そういうことを含めて考えれば、俺はこれからもずっと自分の気持ちに蓋をして、黙っているのが最善だったのだろう。
……でも、その道を選んだら、いつか睦美が隣に知らない男を置いてそちらに笑いかけるのを、俺は「昔よく遊んだ隣のお兄さん」として祝福しながらただ眺めていなければいけない。
それはどうしても、嫌だった。
「うーん、でもね」
睦美は考えるように目線を宙に飛ばしてから、またこちらに向き直った。
「付き合う前から、別れた時のことを想定しなきゃいけないのかなあ? そんなことを考えるより、私は今のことをたくさん考えたい。どうすればヤスくんが楽しんでくれるかな、とか。今までいっぱい苦労してきたヤスくんが、どうしたらこれからもっと幸せになれるかな、とか。もしかしたら、上手くいかないこともいろいろあるかもしれないけど、それはその時に考えたらいいんじゃない? ヤスくんも、ヤスくんのお母さんも、うちの両親も、みんなが笑っていられる道を探そうよ、二人で」
きっぱりとした口調でそう言って、大きな目がこちらを覗き込む。
俺は束の間、その瞳に見惚れた。
ちっちゃくて可愛くてどんくさくてよく泣いていたあの女の子は、いつの間にこんなにも、強く綺麗になったんだろう。
「大丈夫、私がヤスくんのことを、『顔も見たくない』なんて思うほど嫌いになるわけがないよ。ヤスくんは、私にそんなことを思わせるようなことを絶対にしない」
「……そんなの」
「判るよ。ヤスくんはすっごく優しいからね。昔も今も、私はよく知ってる。そういうところが私は大好きで、ずっと憧れてるんだよ」
「…………」
なぜそんな自慢げな顔をしているんだ、とか、そこまで能天気に片付けていい問題じゃないんだけど、とか、言いたいことはいくつかあったが、俺はそのどれも口にはしなかった。というより、できなかった。
ただ、「──そうか」とだけ返事をして、微笑んだ。
結局のところ。
俺は昔から、この子のこういうところに、ずっと救われていたんだよなあ。
「……じゃあ早速、キスしていい?」
「まだダメ!」
完全な相互理解に至るには、もう少し時間が必要なようだが。
***
父親と再会したのは、俺が社会人になって一年が過ぎようとしていた頃のことだ。
別に会おうと思って会ったわけじゃなく、会社帰りに偶然ばったりと出会ってしまったのである。気づいて近寄ってきたのは向こうのほうが先だった。俺が先に気づいていれば、知らんぷりしてそのまま通り過ぎたのに。
いや、でももしかしたら、そちらに顔を向けていても、俺が気づくことはなかったかもしれない。自分の意識からすっかり放り出していた存在だったし、なにより、あちらの外見が、俺の知るものとはずいぶん変わっていた。
「元気か」
低い声で問いかける顔には、昔の尊大さの代わりに、卑屈さが乗っていた。視線も上からではなく、下から掬い上げてねめつけるようなものだった。俺の背がこの男よりも伸びたから、という理由だけじゃないだろう。
父親はすっかりくたびれた中年親父になっていた。いや、もう老年に差しかかる頃合いか。それにしたって、実年齢よりもずっと老けて見える。病気が完治してから、毎日仕事に習い事に生き生きと活動している母親とは、雲泥の差だ。
ネクタイはよれよれ、スーツには皺が寄り、ワイシャツの襟元は薄っすらと汚れの輪が残っている。妻がいればさすがにこんなみっともない有様にはなっていないだろうから、あの時の女とは結局続かなかったのだろう。
大体、今はまだ夜の七時前だ。こんな時刻にこいつが外をフラフラするなんて、一緒に住んでいた頃には一度もなかった。しかも目の前の男からは、ほんのちょっと酒の匂いもする。
あれほど縋っていた会社からも、見捨てられたか。
どちらさまですか、と返してやりたいのをぐっと飲み込み、「まあね」と素っ気なく答えた。
「就職したのか」
父親の視線が俺の着ているスーツの上を這い廻る。これは自分の上か下か、と見定めようとしている目だった。根本的に、こいつは変わっていない。
「まあね」
「なんて会社だ?」
「あんたに教える義務はないと思うけど」
冷たい口調でそう言うと、父親は小さく舌打ちした。
「残念だったな。俺がいりゃあ、コネでもっといいところに勤められたかもしれんのに。うちの下請けでも、お前の今の会社よりはずっとマシだろう?」
つまり、あの大企業にかろうじて籍はある、ということらしい。今の状態を見れば仕事内容は推して知るべしだが、左遷されようが窓際に座らされようが、この男は定年まで必死でそこにしがみつくのだろう。
ぼんやりと何もせず社内で過ごし、定時で退社して、酒を少し引っ掛け、誰も待っていない真っ暗な部屋に帰る。これからの人生、毎日毎日、こいつはそうやって過ごしていくんだ。
そして、孤独に死んでいく。
自業自得じゃないか。憐れみも同情も一切湧かない。そりゃ、偶然会った息子には、少しくらい大きな顔をしたいだろうなと思う程度だ。
ずっと俺の頭を上から押さえつけていた大きな手の平は、いつの間にか、勝手にこんなにも小さくなって、萎んでいた。
「──じゃ」
俺は短く言って、踵を返した。
父親は何か言いたげに口を動かしかけたが、結局そこから続きの言葉が出てくることはなかった。もしかしたら母親のことを聞きたかったかもしれないが、さすがにそこまで厚顔にはなれなかったか。いやもしかしたら、それがあいつの最後のプライドということなのかもしれない。
もし問われたとしても、俺がそれに答えることはなかっただろう。母親にもこのことを耳に入れるつもりはない。
あれはもう無関係の他人。それでいいんだ。
***
待ち合わせの場所に行くと、睦美はすでに着いていた。
「遅れてごめん」
「いいよー、お仕事お疲れさま!」
にこにこしながら、労いの言葉を出してくれる。大学生になってから本格的に覚えたという化粧で、以前に比べてぐんと大人の女性らしくなってきた彼女だが、こういう顔をするとまだ少し幼さが覗く。
「急がないと予約の時間に遅れるかな」
「余裕をもって頼んだから大丈夫だよ。楽しみだね、フレンチ」
今日は睦美の誕生日ということで少々張り込んだのだが、喜んでくれたら俺も嬉しい。睦美もいつものラフな服装とは打って変わって、シンプルだが品のいいワンピース姿だ。俺の鞄の中にはちゃんとプレゼントも用意してある。
じゃあ行こうか、と彼女の背に手を当てて促した。
周囲はもうすっかり暗闇に包まれているが、まだそう遅い時刻ではないためか人通りは多い。街明かりに照らされた道を、二人で他愛ない話をしながら歩いた。
睦美はもうすぐ試験があるのだそうで、しきりとそれについて心配していた。大学の試験なんて今までの講義を聞いてりゃ普通に通るだろ、と返した俺に、「これだから頭のいい人間は……」と悔しそうにぶつぶつ言う。
「高校の時みたいに勉強すればいい点とれる、ってわけにはいかないじゃない」
「教科によっては難しいものもあるかな」
「点数が悪かったら単位が取れないし」
「普通はそこまで悪い点数なんて取らないけどね」
「ああ~、ほんとに大丈夫かな?! 不安! ドキドキする! 単位取れなかったらどうしよう! こんなことなら講義をサボってアイス食べたりお洋服を買いに行ったりしなきゃよかった!」
「おまえが悪い」
すっぱりと決めつけた俺を、睦美は両手を組み合わせてじっと上目遣いに見上げてきた。
彼女得意のおねだりポーズである。俺は若干、身を引いた。
「なんだよ、さすがに大学の試験勉強なんて、手伝ってやれないぞ」
「元気づけてくれるだけでいいから。何か『よし頑張ろう!』って気になるようなこと言って」
「またか」
俺は短く息を吐いた。睦美は何か心配事ができると(大体しょうもないことばかりだが)、いつもこうやって俺に無茶振りしてくるのだ。
仕方ないのでこういう時は、頭に手を置き、優しく撫でてやることにしている。
「大丈夫、大丈夫。俺がついてる」
果たしてこんなことで本当に元気づけられるのか、そもそも試験なんて本人しかどうしようもないことで「俺がついてる」なんて言葉に意味があるのか、甚だ疑問でしかない。
だが睦美は、俺に頭を撫でられて、「んふふふふ」とふやけきった幸せそうな笑いを浮かべた。
……うん、よく判らんが、効果はあるようだ。
だったら、いつもどんな時だって、俺はこの手を差し出すよ。
それで少しでも、睦美の何かが勇気づけられるというのなら。
頭から手を離すと、俺は自分の広げた手の平をまじまじと見つめた。
昔は、邪魔でたまらなかった頭の上の大きな手の平。そこから与えられるもの、もたらされるものが真逆なのは、どうしてなんだろう。
「……ムッちゃん」
そう呼ぶと、睦美はばちりと目を瞬いた。
「俺も、ちょっと聞いてもらいたい話があるんだ」
さっき父親に会ったこと、睦美にだけは話しておこう。落ちぶれた父親を見て、自分の胸を過ぎった、正体のよく判らない一抹の感傷も、睦美だったら答えをくれるかもしれない。
ざまあみろ、とは思わない。スカッとしたわけでもなかった。かといって、気の毒だなんて、針の先ほども思っていない。
どこか寒々しい風が吹くようなこの気持ちを、なんと表現すればいいんだろう。
「んん~? なんだなんだ~? そうかあ、ヤスくんも私によしよししてもらいたいことがあるのかあ~、いいよいいよ、ムッちゃんがなんでも聞いてあげるよ、ムッちゃんが! まったくヤスくんは甘えん坊さんなんだからなあ、もう~」
何を考えているのか、睦美はまったく満更でもなさそうにだらしなく笑み崩れ、うんうんと頷いた。なんかちょっとイラッとするが、俺が彼女を「ムッちゃん」と呼ぶ時は大体いつもベタベタと甘えたい時だから、無理もない。
そうか、俺は甘えん坊さんなのか。はじめて知った。
ちょっと噴き出してしまう。息子が甘えん坊で、父親が威張りん坊。本当、どうしようもない親子だよ。
「お手数かけます」
「まかせなさい!」
軽く頭を下げると、睦美は自信たっぷりに胸をドンと叩いて請け負った。我慢できず、俺はとうとう声を上げて笑った。
──ああそうだ。いつか、自分が父親になったら、子どもにはこう言ってやろう。
お父さんは昔、ただ一人にとってのヒーローになりたかったんだ。
結局、なれなかったけどね。
だけど別にヒーローじゃなくたって、守れるもの、救えるものは、きっとあるはずだよ。
使い方次第で、この手の平ひとつでも。
完結しました。ありがとうございました!