獅子奮迅の張飛の見たものは(一)
張飛の書状を胸に秘めた向寵が道を急いでゆく。梅雨の時期の蒸し暑さは、肌を濡らし、何とも気持ちの悪い汗がにじみ出ていた。
「今日は余計に蒸し暑い…」
季節に落ちた雹の粒をみた向寵は天を見上げている。
「この雲の中から、あのような雹が舞い降りてくる」
「天というものは、如何にも不思議なものである」
張飛の言っていた風向きの変化を気にしながら、向寵は早馬を走らせていた。
その頃、呉の陸遜はしたたかに風向きが変わる時を待っていた。
「風の方向が変わる…」
空を見上げる陸孫が、その「総攻撃に転じるのだ」と考え、その時が来るときの準備を整えている。
かつて、赤壁の戦いのときに、陸孫はまだ二十五歳の弱卒であった。諸葛亮の奇策の意味を目の当たりにしていた頃は、それに目を輝かせるばかりであったが、あれから時は過ぎて、蜀と相対し、こうして指揮を執る立場になることを、かつて夢見ていた彼は、時の到来を予測して、その心のうちに本音を漏らした。
「諸葛亮がいない夷陵の戦い、劉備は自ら油断して、わたしを侮り、その罠にかかってきたのだ」
赤壁の戦いから、数えて十四年の時を迎えるや否や、今では三十九歳の働き盛りである呉の陸遜は、その勝利をつかもうとしていたのである。
その頃、襄陽に向かっていた男は、医術の心得のある兄を引き連れ、その馬に鞭を打ちながら必死に道を急いでいた。この男の兄は、かつて華佗に師事して、その貴重な医術の教えを受けたことがある。
その師範になる立場である華佗は、養性の術に通暁しており、医術や薬の処方にも詳しく、麻酔を最初に発明して使用したのも彼の業とされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったといわれている。
その華佗もこの世には存在していないのが現状であった。華佗は、かつて、曹操の典医となり、持病であった頭痛や目眩の治療に当たっていた。
しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。
そこで、帰郷への念が募り、医書を取りに行くといって故郷に戻って、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。
しかし、曹操が調べた結果、妻の病気は偽りと判明したのである、これに怒った曹操は華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かずに、拷問の末に彼を殺してしまっていた。
後に、溺愛していた息子である曹沖を病から治療する事ができず、夭折させてしまった事を、後々まで後悔したと言われている。
その華佗に師事した男は、その麻酔術に心得があり、張飛の矢傷の治療にあたるべく道を急いでいたのである。
「今回の張飛様の矢傷、どうにかなるかは我の術次第…」
そう考えてか、弟の要請に応えるべく、意を決してことにあたると決めていた。
「張飛様がいる場所まであとわずか」
休むこともせずに、この両名は張飛のいる陣営まで十五里の距離にいたのである。当時の距離の計算方法では、一理はだいたい四百メートルに換算することができる。およそ、張飛のいる場所までは六キロぐらいの距離にいたことになる。
その頃、張飛は矢傷の痛みに耐えていた、しかし肩口に受けた矢じりには、呉の施しで毒が塗っていたのである。
「ええい、この俺の命もこの矢傷次第、あれから肩口に受けた矢傷の毒は回り、紫色にただれた皮膚が熱を帯びている…」
その毒の方は、奇跡的に張飛の肉体には影響を与えている度合いは強くもなく、その医術の心得のある男にすべてが託されている状況だったのである。
「まだか…、呉の総攻撃が始まれば、ひとたまりもあるまい」
張飛は赤く染まる襄陽の方角を見つめている。
その肩に傷を受けている張飛の様子を伺いに、張苞がその父であるおとこのいる宿営を訪れてきた。
「大丈夫ですか、親父殿、矢傷の傷はいかがでしょうか…」
張苞の顔に悲壮感が漂う。
「この張飛の命も、こちらに向かっている医術の心得のある男次第…、息子よ、風向きが南向きに変化した」
「今宵は油断できぬぞ!」
張飛は、呉の陣営の動きに予断が許せぬと考えていた。
しかし、その言葉を聞いた張苞は笑いながら言った。
「なあに、弱卒の臆病者である陸遜、恐れるには足らんと思います」
息子の張苞はまったく、張飛の言葉には危険性があるとは考えもしてなかった。
「しかし、息子よ、等の義兄弟である関羽を葬った裏の人物は陸遜だと聞いている」
「侮ることはできまい…」
張飛は顔を赤く染めて、少々怒りに満ちた顔を見せた。
「興奮すると大事に至ります、血の巡りが高まれば、親父殿の体には毒であります…」
張飛はその息子のひとことに、
(確かにそうだ…)と頷いていた。
傷口を見た張苞が言う。
「親父殿の体には毒でも回らぬ、怒りに満ちた凝固剤でもあるのかもしれません」
張飛は冗談はやめてくれと言わんばかりに一言返す。
「おまえも人が悪いのう、心配せぬのか…」
息子である張苞は言った。
「まだ、ここで倒れるような親父様なら、関羽様の霊も浮ばれますまいて」
張飛は無言で考えていると、息子の張苞は一言いって陣営を出た。
「この戦いの鍵になるのは、親父次第だ!」
内心、張苞もその危険なる状況を察していたのかも知れない。
それから間もなくして、医術の心得のある男が張飛のもとにやってくる。それから、張飛は麻酔術を施してもらい、痛みを堪えて、矢傷の治療を受けた。
「ええい、これしきの痛み、どうにかなるわい」
張飛はその治療のために用意した陣幕のなかで、いつもと変わらぬその意気込みである凄みを見せていた。
それから半時ぐらいであろうか、治療の施される張飛の唸り声が陣営に響いている状況であった。その状況を聞いている兵卒たちは恐れの声をあげている。
「御大将である張飛様が、その痛みで荒れねばよいが…」
兵卒たちが心配に感じている頃合いに、向寵がやっと劉備の陣営にたどりついた。張飛の書状を胸に秘めた向寵が道を急ぎ、やっとの想いで劉備にその書状を渡す頃であった。
しかし、無常か…。
「劉備の陣営に総攻撃を加えろ!」
「火をもって、奴らを焼き尽くしてしまえ…」
陸遜の時を得た攻撃が、その南風の起きた夜半に、猛攻撃の轟が響いていたのである。
張飛はその矢傷の手術を終えたころであった。
「休む暇もない、これは総攻撃が始まったぞ…」
張飛は痛みのある肩口を見つめているが、愛用の蛇矛を右手に握りしめ、片手の戦いを強いられる現状につばを吐いて、陣幕を出ていく。
「おのれ、呉の狐のような陸遜め、とうとう本音を現わしたぞ」
この一言が蜀の陣中に木霊している。
蜀の宿営している陣営は林の中にあった。その林の中で避暑のためとはいえ、油断していたのが現状であった。呉の猛攻は激しく、今までにない勢いで攻めかかってくる。同時に、放たれている火矢の影響により、風下に変わっていた蜀の陣営では大混乱が起きていたのである。
「これは如何!」
劉備はその光景を見て、愕然とするが後の祭りであった。
そんな中、傷口を応急手術で済ませた張飛が、蛇矛を振りかざし、蜀の陣営で獅子奮迅の戦いを繰り広げている。張飛の様子は鬼神と化していた、これが最後の戦いと決めていたのだろう…その戦いぶりは敵を恐れさせる凄みを帯びていたのである。
亡き甘寧の陣を引き継いだ丁奉が、張飛の姿を見て驚いた。
「あの矢傷を受けていて、生きているとはさすが化け物よ!」
丁奉は、張飛の蛇矛に傷を負うが、それでも十合ほど撃ち合うと、その場所を引き上げていく。
(奴のいる陣営はまだ、倒すことは難しいだろう)
それだけ、死に物狂いで張飛は戦っていたのである。
夷陵の空は赤く染まっているように見えた。