獅子奮迅の張飛の見たものは(二)
その場面は総攻撃をかける前の呉の陸孫の姿を夏風がせがむようにふきつけている。
初夏の蒸し苦しさを感じさせる梅雨の時期に、その暑さを凌ぐため、一時的に劉備は本陣を危険な森林地帯に身構えてしまっていた。
その隙を突かれた呉の総攻撃がいまにも始まる頃である。
劉備軍の面々もあまりの蒸し暑さに戦意のない呉との長期戦を覚悟していたのか、少々油断なる隙が出来上がっていた。
「あまりにもこの蒸し暑い戦場、いささか長期戦に持ち込みすぎたか…」
関羽のかたき討ちばかりに気を取られ、冷静さを欠いて出兵した劉備は諸葛亮のいない戦場にいささか不安を心に秘めていたといえた。
そんななか、この避暑地に転がり込むまで、敵の総大将である陸遜は、並みいる呉の諸将が不平不満をぶつける中、その恥辱と侮りに耐えぬいてみせた。
やがて好機が到来して、反撃なる口火を最大に生かす策を蜀に仕掛けるため、陸孫は相手を見抜き、わずかな隙に導くことだけに専心して、自らの策略は見せることなく、消極的に一部隊だけを交互に送り込み、蜀の部隊には果敢に攻め込むことを控えて戦力を温存し、いかにも意味のない無策といえるような作戦を演出して、劉備の油断に持ち込んだのである。
(とうとう、その待ちに待った風が吹いているではないか、好機到来…今しかあるまい!)
どことなく赤壁のかつての大勝利を演出した諸葛亮の姿を重ねていたのか、まだ若輩なる陸遜は心の中で自信なることばをつぶやいてみせた。
そしてその絶好の機会が訪れると、準備を着々と進めさせられ、不満を口にしていた諸将たちも、その風が吹くのが分かると、いま陣を構えている劉備の長蛇の陣の如何にも隙の甘さにやっとその意味を理解したのである。
「まさか、この夷陵でこの風が吹くとは考えていなかった!」
「奴め、その風が吹くことを計算に入れ、ここまで味方を欺くとは誰が気がつくだろうか」
ひとこと、呉の諸将である周泰がその意味を悟りつぶやいてみせた。
この夷陵の地に吹く梅雨始めの強い南風を「黒南風」というのは以前記した。
暗くどんよりとした梅雨の長雨が続く時期に吹く湿った南風のことで、雨が続いて蒸し暑く憂鬱な心持ちにさせることから、この時節のころの空や雲の色を重ねて「黒」とたとえて表現される。
他に、梅雨中頃の激しい南風を「荒南風」、梅雨明けの明るい空に吹く南風を「白南風」(しろはえ)ともいう。
この「黒南風」が吹くころは、梅雨の蒸し暑さと合体して、肌に感じる風は何となく気持ちが悪く感じる。そんななか森林の中は蒸し暑さをいかにも凌げる場所になっていたのである。
ましてや長期の雨の影響で川面は水量が増している。蜀の軍団が退却するにしても、増水している長江の意味もあることから、深く侵入しすぎた劉備の盲目な陣容にも隙が生じて危険は如何にも目の前にあったと説明できるのである。
この「黒南風」の吹くときから、一瞬だけ「荒南風」に変るころに、雨が降らない一瞬の好機を待ち構えていた陸遜の計略ぶりに気が付いていたのは、当然ながら蜀の諸葛亮だけであったと言えば過言ではない。
前にも記したとおり、布陣を見てその危険性を見抜いたのはいいが、劉備はその意味に気がつくことはなかったのである。
「これは下手すれば、味方の大勝利になろう」
一時は意気消沈気味の周泰が天を見上げ、かつての赤壁の戦いを思いうかべ、その当時の戦闘の意味と全く同様の結果が生じることを意識の中に重ねていた。
(あの時、今は亡き勇将なる黄蓋さまが、魏に偽って亡命する策を演出して、最高の大勝利をおさめられた…)
(われら、股肱の将たちは、弱卒と思っていた陸遜を侮っていた!)
あまりにも戦おうとしない消極策に苛立っていた呉の諸将たちは、味方も欺くような陸遜のしたたかさをやっと理解したのである。
さて、場面は呉の反撃が開始されたときに進める。
孤軍奮闘する蜀の猛将である張飛の獅子奮迅の働きがすさまじい。
「ええい、傷口がうずくわい!」
痛む矢傷の麻酔も抜けたのだろうか、その激痛は張飛の肩に不安をのぞかせていたのである。
「これしきの傷、最後の見せ場、命をかけて奮戦してやるわ!」
張飛は死に物狂いでその手に持つ蛇矛を振りかざしては、攻め入る呉の将兵たちをなぎ倒してゆく。
その場に丁奉がやってきて、張飛に怒号を浴びせる。
「くたばり損ないめ、これを受けてみよ!」
それでも張飛は、丁奉の猛攻撃をしのぎ、一時は呉の陣営を退却させた。
しかし退却はさせたものの、その呉の陣営から放たれる矢に油を染み込ませた細工がされており、その他に投石機を利用した火炎弾なるものが飛んでくると事態は一変した。
あらゆる物を焼き尽くすような猛火を感じさせる火攻めは勢いを増して、蜀の陣営を焼き払うにはあまりにも効果的だった。
ましてや、蜀の陣容では油断が過ぎたのか、甲冑を脱いでいて、まさか総攻撃が始まるとはいささかも考えていなかったのである。
「奴め、一瞬その風が強風となり向きが変化する好機を待っていたか!」
「ましてや、油断しすぎたわが陣営、これでは総崩れになる…」
張飛はつぶやいたが事態は遅すぎた。
蜀の陣容はその猛火にうろたえ、もはや陣形は意味がないくらいに乱れ、諸将もその猛火に焦る者たちも当然いたのである。
逃げ惑う者の中には、蜀の将軍の面々もいた。張南、馮習はこのときに無残にも戦死している。
そんな中、沙摩柯は単騎になり退却を余儀なくされていた。
「これほどの敗戦、味方陣営は壊滅と見える」
そう呟くと、どことなく逃げようとして馬を走らせようとした。しかし、その様子を見ていた周泰がこれとばかりに攻めかかってくる。
「甘寧の仇、今までの我慢の一撃を受けてみよ!」
周泰は沙摩柯めがけて槍を一目散に振り下ろす。
沙摩柯の武器と周泰の持つ槍が何度か火花を散らした。しかし、周泰のほうが腕力的にも実力は上である。
二〇合ほど撃ち合うと、沙摩柯はバランスを崩して馬から振り落とされた。
「今がその首、もらいうけるとき!」
そう叫ぶと、沙摩柯の首は胴体から吹き飛び、地面に落下した。
沙摩柯は叫ぶ暇さえなかった。
「やっと、この周泰、歴戦の友の甘寧の仇を討てた…」
そう呟くと、張飛を探して戦場にかけて行く。
劉備はあわてて逃げる中、馬良の最後に直面する。
もし、この夷陵の戦いで勝利をあげていたとすれば、馬良の功績は多大だった。軍師の諸葛亮が不在の中、蜀の陣中をまとめ、武陵の少数民族である沙摩柯らを味方につけていたからである。そして劉備を何度も諫めては、その戦略の不備をどうにか誤魔化していた。
馬良は逃げる最中に、敵の将の手にかかり深手を負う中、張飛が救うが、その息は絶え絶えで、劉備が抱き起こすが、その命は終焉を告げる時を迎えていた。
「馬良殿、あまりにも無念…」
張飛はそう呟くと、敵の猛攻を防ぐべく突進してゆく。
その姿はどうにか劉備を守ろうとする気力で満ちていた。
劉備は泣きながら、馬良を抱きなおした。
「ああ、失ってはならぬ配下をまたもこの目で見ることになろうとは…」
「必ず、お前の息子は取り立ててやろう」
馬良は最後の力を振り絞りうなづいた。
言葉にならぬ最後の一言、かすかに聞こえた。
「劉備様…」
そういうと馬良は夷陵の地に命を散らした。
馬良、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」といわれた蜀の官僚である。享年三十五歳、まだまだ働き盛りの惜しい戦死であった。
獅子奮迅の活躍を見せる張飛は、その馬良の死を見て大粒の涙を流しながら戦っていた。
「殿は、このわたしが務めます!」
張飛は劉備を見ると、最後の戦いをするべく叫んで戦場にむかってゆく。
劉備は配下の兵卒に守られ、夷陵を落ちていった。
つづく。
最後に劉備を逃がす張飛の最後の見せ場、いよいよ最終回2話構成。




