01_退役には敵がいる
依頼人は、降伏の練習で負傷していた。
右手首に白い固定具をつけた女が、《ノット・ウィン》の会議卓へ封筒を置いた。肘から先を動かさないよう、左手で右手を支えている。
「軍旗が重かったんです」
「下ろす練習で?」
「旗竿ごと受け止めました」
ネラ・ヴォスは女の後ろを見た。付き添いの兵が二人、目を伏せた。止める間がなかった者と、笑ったことを後悔している者の顔だった。
「次は落とせ」
「貸与品です」
女は言った。
ドーゴが契約用の端末を開いた。彼の隣には、まだ組み込まれていない電力盤が立てかけてあった。会議室が倉庫を兼ねて六週間になる。旗艦の主電力路を焼いて二万八千人あまりを逃がしたあと、彼らは生き残った船を、戦う船には戻せないと知らされた。
砲塔は溶接で塞がれ、上に物干しがついていた。ナーブの十二栽培環は三つしか作付けを再開していない。復旧債務の返済は、収穫が戦前の水準へ戻ってから最短で十年八か月。船を出すにも、留守中の賃金を残していく必要があった。
女の封筒には、十九隻の艦影が印刷されていた。
「十八隻です」
ネラが数えるより先に女が言った。
「一隻は去年、部品になりました。表紙を刷り直す費用が出ません」
ヴェラ・ティン。四十六歳。旧帝国セイル係留艦隊の補給長。階級欄には中佐、現在職には退役整理担当とある。
「十八隻を負けさせていただきたい」
「誰に」
「それが決まれば、自分たちでやれました」
ドーゴが顔を上げた。
「難易度に応じて料金が変わります」
「料金はこれだけです」
ヴェラは金額を書いた紙を出した。ドーゴは指で桁を数えた。口を開くまでに、少しかかった。
「着手金ですね」
「全部です」
ネラは金額ではなく、艦の整備表を見た。
巡洋艦六、護衛艦八、工作母艦二、補給艦二。六隻の巡洋艦のうち、二隻は主砲を外している。護衛艦は同じ名前の級に分けられていたが、推力も応答も揃っていない。片舷だけ新しい船、艦首砲の旋回に時間がかかる船。十八隻を同じ速度で旋回させれば、列の真ん中から折れる。
「操艦訓練は」
「月に一回。燃料を焚かない方式で」
「それは訓練か」
「全員で画面を見るので、士気は下がります」
ドーゴが何か書き留めた。ヴェラは彼を見ずに続けた。
セイルは、冠門の外側に設けられた軍港だった。戦争が終わり、前線がなくなっても、軍港の十八隻には退役命令が届いていない。艦隊の資産を清算する当局と、復員費を払う当局が違っていたからだ。
「そこへ、帰属を引き受ける人が現れました」
彼女が出した映像には、整った襟の男がいた。髪は白いが、首は太かった。セイル航路保安機構代表、レグナー・ホルト。軍需会社と二つの門港が資金を出し、彼の二十四隻が地域の護送を引き受けている。
ヴェラは、その機構が旧帝国清算局から受けた委託状を添えた。軍港資産の保全・接収と、未払い給与の暫定処理。支給額を査定し、資産の持出しを止める権限はあるが、退役命令を出す権限も、給与請求を最終的に棄却する権限もなかった。
「十八隻の修理と、未払い給与を払うそうです」
「いい話だ」とドーゴ。
「代わりに乗員は二年、彼の護送艦隊へ編入されます」
「悪くなるのが早い」
「死者の補充も、途中から止まっています。艦には一万二千四百八十人。そのうち三千人以上は、戦争の最後の年に徴用された整備員です。自分が海軍へ入ったという書類さえ持っていない人もいる」
ネラは人数を卓へ移した。
「本人に選ばせればいい」
「ホルトはそう言っています。ここへ残るか、帰るか」
「では」
「帰りの船は、ありません」
ヴェラは封筒から、使われなかった帰還券を一枚出した。角が丸くなっている。行き先の港名を、三度も書き直した跡があった。
「軍港の食事と寝台を使えば、在勤を継続したことになる。出ていけば、給与請求の窓口も消える。私の部署で毎月説明していました。説明できることと、納得してもらえることは違います」
彼女の右手が固定具の内側で動いた。
「私たちは、軍港を明け渡すつもりです。船も、要るというなら渡す。ただ、人間まで次の戦争へ売りたくない」
「軍港を守らず、兵を逃がす仕事か」
「逃亡扱いにならないように、負けたいんです」
ヴェラはセイルの残務整理命令を開いた。
「退役命令のないまま船を出れば無断離隊、船ごとなら資産持ち逃げです。でも軍港を失い、戦闘を継続できなくなった部隊は解散する。乗員の退去は敗戦処理になり、未払い給与の請求資格も残ります」
「船の所有権は?」
「別です。負けて自分の船になるわけではありません」
「わざと負けても?」
ヴェラは頁を戻した。
「指揮官の責任は調査されます。ただ、その結論が出るまで全員の給与を止めてはいけない。残務整理命令は、そこを分けています。港を失い、武装を解いた事実を、受入れ先が確認すれば、乗員は退去できる」
「私たちが雇われたことも、調査へ出すのか」
「出します。免責を買いに来たのではありません」
「あなた方の艦隊司令は」
「私です。代理ですけど」
「戦闘経験」
「三十年」
ネラが女を見る。
「弾薬を送りました。撃ったことはありません」
会議室の戸が開いた。イルゼが空のカップを二つ持ってきた。客に出す茶がないと知り、置かずに戻そうとする。
「水でいい」とヴェラ。
イルゼは頷き、水を汲みに行った。王女だった女が給湯器の前で湯温を間違え、戻ってくるまで客を待たせた。
ネラはもう一度金額を見た。
「この額で十八隻は難しい」
「十一隻でも」
「数を減らす話ではない」
ヴェラの顔が強張った。
「すみません」
彼女は左手を紙から離した。
「いつも、そうやって計算していたので」
ネラは答えず、艦隊の位置を開いた。セイルへは通常便で二日半。軍港は二つの岩塊に挟まれ、外側の広い航路に保安機構の整備泊地がある。内側には旧鉱石運搬路。ずっと先に、小さな中立港が三つ。
「視察する」
ドーゴが彼女を見た。
「視察だけですよ」
「分かっている」
「前も分かっていました」
ネラは客の前で言い返すのをやめた。
その晩、四人で費用を出した。ネラは前の契約の係争金を、まだ入金されていないまま計算へ入れた。イルゼが消した。ミラはナーブに残す部品の分を引いた。ドーゴは自分の未払い給与を消さなかった。
足りなかった。
「一隻借りる」とネラは言った。「こちらの旗艦は連絡に使う。戦う艦に乗り移る」
「艦は借りられても、乗員までは私のところで直せないよ」
ミラは冷えた夕食を食べていた。卓に落ちた芋を拾い、皿へ戻した。
「だから、二日早く入る」
「二日で?」
「まず見る」
ドーゴは視察費の欄へ金額を書き、ネラへ向けた。
「ここまで。越えたら、もう一度相談してください」
彼女は署名した。
翌朝、会社の留守を預かる栽培環の工事長に出航予定を伝えた。工事長は頑張れとも気をつけろとも言わなかった。
「金曜の支払いは?」
「送る」
「何時」
ネラは予定表を出した。




