第三幕:佐野改易の真相 ―消された宇賀神五部経―、3. 龍神の娘と秀郷の遺産
磯山弁財天の懸造の回廊を吹き抜ける風は、五月の陽気とは裏腹に、氷のように冷たかった 。
宇賀神蓮は、二階の暗闇に鎮座する「首のない白蛇像」の前で立ち尽くしていた。彼の左腕の鱗は、あたかも像の欠損を埋めようとするかのように、銀色の光を激しく放っている。
「……巳波さん、この像の首は、本当に僕が蔵で見つけたあの石像なんですか」
巳波は、本殿の柱に刻まれた古い歌を懐中電灯で照らした 。
『うるし千ばい、朱千ばい、くわ千ばいに、黄金千ばい。朝日さす夕日輝く、雀三おどり半の木の下にある』
「これは、この出流原に伝わる『朝日長者伝説』の宝探し歌です。……でも、郷土史家たちが何十年探しても、黄金は見つかりませんでした。なぜなら、秀郷公が遺した『黄金』とは、地中に埋まった貴金属のことではなかったからです」
彼女は、佐野氏の祖であり、平将門を討った英雄・藤原秀郷(俵藤太)の伝説を語り始めた。
「秀郷は琵琶湖の瀬田唐橋で龍神の娘――『龍姫』と出会い、大百足を退治した返礼として龍宮へと招かれました。そこで授かったのが、『尽きぬ米俵』や『蜈蚣切』の太刀、そして『避来矢』の鎧です。……宇賀神さん、思い出してください。『俵藤太』という名の由来を。それは単に米俵を貰ったからではありません。
秀郷は、下野国の押領使としてこの地に赴任した際、渡来人の技術集団を率いて、それまで荒地だったこの地域の地下水脈を完璧に制御したのです」
「地下水脈の、制御……?」
「ええ。『尽きぬ米俵』の正体は、龍神――すなわち宇賀神を祀ることで得た、高度な灌漑技術と農業生産力そのものでした 。この磯山一帯の古生層石灰岩が作り出す巨大な地下ダムの水を、自在に操り、無限の黄金(米)を生み出す『システム』。秀郷はその中枢として、龍宮から持ち帰った『宇賀神の完全体像』をここに安置したのです 」
巳波は、首のない蛇像の背後に隠されていた、さらに古い石碑の文字を読み取った。
「秀郷の娘の一人・鶴姫は、この弁天池の主である白蛇へと昇華したといいます。……秀郷流の佐野氏は、代々この『龍神の娘』の血脈を、宇賀神という神格として奉斎してきました。彼らにとって宇賀神は単なる偶像ではなく、この国の富の源泉を操るパスワードだったのです」
蓮は、自分の名字の重みを、皮膚を貫くような痛みとして感じていた。
「家康が佐野氏を改易したのは……その『システム』を独占するためだったのか」
「その通りです。徳川が遊行寺で宇賀神と密約を交わした際、彼らが欲したのは一族の『子孫繁栄』でした。しかし、それを永続させるには、下野を支配する佐野氏が持つ、龍宮直伝の――すなわち地下水脈と富の源泉を操る宇賀神の『知恵(首)』が必要だった。江戸の大火の夜、信吉公は江戸城から経典を奪い返そうとしたのではなく、家康に奪われ、封印されようとしていた宇賀神の知恵を、守ろうとしたのです 」
巳波の推測は、冷酷なまでに論理的だった。
「家康は日光東照宮という巨大な結界を打ち立てることで、自らが『龍神の王』として君臨しようとしました 。そのために、本物の龍神の血を引く佐野氏を改易し、中枢を失ったこの『体』を、日光東照宮を永遠に回し続けるためのエネルギー供給源――『首のないモーター』として再利用したのです 。そして家臣たちには『宇賀神』という名字を背負わせて監視下に置いた 」
その時、眼下の弁天池が大きく波立った。 池の底から、数百年の沈黙を破るような、重低音の鳴動が響いてくる。
「……あいつらが、来た」
蓮が振り返ると、本殿の入り口には、十五童子の一人「稲籾童子」の継承者と思われる男が立っていた。男は手に、中世の農具を模した不気味な鉤爪を握っている。
「宇賀神蓮。……その腕の鱗を、本来の場所へ返してもらおうか。龍神の遺産は、現代の経済を統制する我ら『十五童子』が管理すべきものだ」
男の合図とともに、本殿の影から黒いスーツ姿の数人が現れ、二階の暗闇に安置されていた「首のない石像」を強引に担ぎ出した。
「待て! それは……!」 蓮が叫ぶが、鉤爪の男が放つ異常な殺気が彼の足を縛る。
「逃げて、蓮さん! ここでは太刀打ちできない!」 巳波が蓮の手を掴み、懸造りの回廊を強引に走り抜けた。
二人は本殿の脇にある風穴洞から噴き出す氷のような冷気に身を震わせながら、急峻な石段を転げ落ちるようにして逃走した 。
背後では、奪われた「蛇の体」が漆黒の大型車両に積み込まれ、下野の闇に消えていく。
彼らの目的地は明白だった。徳川の龍脈が最後に行き着く貯蔵庫――東京、上野・不忍池。
新緑の磯山が、にわかに暗雲に覆われる。 秀郷以来、下野の地に隠されてきた「黄金を生む蛇」の魂が、四百年の眠りから完全に覚醒し、蓮という最後の一枚の鱗を求めて、咆哮を上げようとしていた。




