第三幕:佐野改易の真相 ―消された宇賀神五部経―、2. 栃木・磯山弁財天の結界
五月の終わりの陽光が、栃木県佐野市 出流原の深い森を鮮やかに焦がしていた。
名水百選にも選ばれた弁天池の透明な水面が、鏡のように初夏の空を映し出している。
宇賀神蓮と巳波の目の前に現れたのは、山の急斜面に吸い付くように建つ、極彩色の朱塗りの威容だった。
「……これが、磯山弁財天」
蓮は息を呑んだ。釘を一本も使わずに組み上げられた「懸造」の構造は、京都の清水寺を彷彿とさせる。崖からせり出した舞台が、眼下の池と下野の平野を睥睨していた。
「天暦2年(948年)、藤原秀郷公によって創建された聖地です」
巳波が、自身の手帳に記した中世の配置図を確認しながら言った。
「秀郷はここを拠点に、地下水脈という名の『黄金』を支配しました。……宇賀神さん、思い出してください。佐野信吉公が改易された際、家康が不快感を示した『江戸を見下ろす不敬』という言葉を。この場所もまた、江戸を、そして後に造営される日光東照宮という『表の太陽』を、真横から監視する位置に配置されているんです」
二人は楼門をくぐり、130段を超える急峻な石段を登り始めた。
蓮の左腕の銀鱗は、一歩登るごとに焼けるような熱を帯び、服の繊維を突き破らんばかりに隆起していた。
本殿の内部に入ると、そこは水神としての蛇の意匠に満たされていた。欄間には波間を駆ける白蛇の彫刻が躍り、最奥の厨子には八本の腕を持つ「八臂弁財天」が鎮座している。その頭頂部には、白蛇が巻き付いた宇賀神が、蓮を嘲笑うかのような翁の顔で乗っていた。
「この像の真裏を見てください。……『風穴洞』です」
巳波が指した岩穴からは、一年中一定の冷たい風が不気味な音を立てて吹き出していた。
古くから地下水脈への入り口と信じられてきたその穴こそ、龍宮へと繋がるゲートだとされている。
「秀郷が龍宮の王から授かった『龍宮の遺産(完全体)』は、家康によってこの場所で分断されました。……家康は、神の『知恵(中枢)』である首を切り離し、中枢を失ったこの『体』を、日光東照宮という巨大なシステムを永遠に回し続けるためのエネルギー供給源――いわば『首のないモーター』として、この風穴の結界に再封印したのです」
蓮は導かれるように、本殿の隅にある、一般の参拝客は気づかないような狭く急な隠し階段を見つけた。そこを登った二階の暗闇に、それはあった。
「……本当だ。首がない」
蓮の声が震えた。そこに安置されていたのは、とぐろを巻いた巨大な白蛇の石像だった。
しかし、本来あるべき「老人の頭」の部分が、鋭利な刃物で断ち切られたように欠損していた。
「1614年の夜、佐野信吉公が命懸けで江戸城から奪い返したのは、この蛇の『頭(首)』だけだったのね」
巳波が、蓮が蔵から持ち出したあの「翁の顔の石像」と、目の前の「首のない体」を交互に見つめた。
「徳川の繁栄を支えた黄金の蛇。その本体はこの磯山の地下水脈(風穴)に繋がれ、供給される霊的エネルギーは日光を支えるパーツとして搾取され続けてきた。……そして今、あなたが持ってきた『首』と、この『体』が四百年ぶりに同じ座標に揃った。……封印が、解けるわ」
その時、風穴洞から地鳴りのような鳴動が響き渡り、本殿全体が激しく揺れた。
眼下の参道を、黒いスーツに身を包んだ「十五童子」の継承者たちが、音もなく、しかし確実に距離を詰めて登ってくるのが見えた。
「宇賀神蓮。お前の中の『最後の一枚の鱗』が、この首のないモーターに火を入れる。……徳川が最も恐れた、龍神の再誕が始まろうとしている」
追っ手のリーダー格である「印鑰童子」の男が、鉤爪のような鍵を手に、本殿の入り口に姿を現した。
新緑の磯山が、にわかに墨を流したような暗雲に覆われる。四百年の沈黙を破り、分断された神の首と体が、蓮の腕に刻まれた鱗の痣を媒介にして、共鳴を始めていた。




