第二幕:遊行寺の密約 ―敗者の選んだ守り本尊―、3. 十五童子の継承者たち
藤沢の空を切り裂く雷鳴が、遊行寺の古びた資料室を震わせた。
「……逃げ場はないわ」
巳波の声は冷たく、かつてないほど緊張していた。
彼女の視線の先、資料室の重い鉄扉が、まるで巨大な蛇が締め上げるように、外側から不自然な力で歪んでいた。
「巳波さん、彼らは一体何者なんだ」
宇賀神蓮は、左腕の激痛を堪えながら問いかけた。
鱗の痣は、すでに鎖骨から首筋へと這い上がり、その一枚一枚が、室内の微かな光を反射して銀色にぎらついている。
「宇賀弁財天には、その功徳を下達し、神への給使を務める十五人の侍童――『十五童子』が付き従うわ 。印鑰、官帯、筆硯、金財、稲籾……。それぞれが知恵、財宝、法、生命といった現世利益の特定の機能を司る専門の神格よ 」
巳波は、手元のマイクロフィルムを奪い取るように掴み、蓮の背中を出口へと押しやった。
「でも、それは単なる図像上の話じゃない。徳川家が宇賀神との密約を継続するために、幕府は十五の特殊な職能集団を秘密裏に組織した。……薬学を極めて『生命』を操る医師、帳簿を改竄して国家の『財宝』を隠匿する計算師、そして秘密を漏らす者を抹殺する『法』の執行人。彼らは代々その役割を継承し、現代の日本社会の屋台骨に寄生しながら、徳川の正統性を脅かす『不都合な真実』を葬り去ってきたのよ」
扉が弾け飛ぶのと同時に、三人の人影が室内に滑り込んできた。
先頭に立つ男は、仕立てのいいスーツに身を包んでいたが、その立ち振る舞いには、どこか現代人離れした「影」があった。男の首元には、小さな印鑰(鍵)の文様が彫られた銀のペンダントが揺れている。
「印鑰童子の継承者……『秘密の門』を守る者ね」
巳波が忌々しげに吐き捨てた。
「本地仏は釈迦如来 。悟りと解脱へ導くはずの神が、現代では徳川の隠し財産と禁書の鍵を守る番人というわけ?」
スーツの男が、無機質な声で告げた。
「宇賀神蓮。お前は、我々が数百年かけて封印し、酒を注いで宥めてきた『大蛇』の目を覚まさせてしまった。……その痣は、お前が一族の血に刻まれた『依代』として選ばれた証拠だ。お前の存在そのものが、この国の秩序を壊す毒となる」
男の背後に控える二人は、それぞれ「金財」と「生命」を象徴する道具を手にしていた。一人は特殊な薬品が充填された注射器を、もう一人は重厚な金属製の分銅を、あたかも武器のように構えている 。
「金銀財宝を授ける金財童子と、寿命を司る生命童子…… 。皮肉なものね。神の使いが、今やただの暗殺者に成り下がっているなんて」
巳波が挑発するように笑うと、印鑰の男が冷酷な命を下した。
「連れて行け。不忍池の奥殿が待っている。そこで最後の大規模な『浴酒』を行い、神を完全に引き出す。こいつの実体は、すべて黄金へと変換される」
「逃げて、蓮さん!」
巳波が叫び、資料室の消火器を印鑰の男に向かって投げつけた。白い煙が立ち込める中、蓮は感覚を失いつつある足を動かし、遊行寺の広大な境内へと飛び出した。
雨に濡れた「いろは坂」を駆け下りる蓮の背後から、十五の影が、ある者は音もなく、ある者はビジネスカーのエンジン音を響かせて追ってくる 。 彼らは現代の技術と、中世から伝わる呪術を融合させた、世界で最も危険な専門家ギルドだった 。
蓮は、自分が相続した「宇賀神」という名字が、単なる先祖の信仰の証ではなく、この巨大な「管理システム」から逃亡した反逆者の末裔であることを悟った 。
栃木に密集する宇賀神一族は、十五童子の監視の目から逃れ、主君・佐野氏が命を賭して守ろうとした「神の首」を現代まで秘匿し続けてきたのだ。
「佐野へ……磯山弁財天へ行くんだ!」
巳波の声が雨の中に溶けていく。
蓮は、己の腕で脈動する銀色の鱗を見つめた。
富と引き換えに人間を捨てるか、それともこの数百年続く黄金の呪縛を断ち切るか。
宇賀神蓮の、命を懸けた歴史の再審が、ここから始まろうとしていた。




