第五幕:水への帰還 ―呪縛からの解放―、1 三河平井記の真実と血脈の反転
不忍池の水底は、地上で吹き荒れる黄金の嵐とは対照的に、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。 天海大僧正が近江の琵琶湖に見立てて築いたこの池の底には、泥に埋もれたもう一つの「竹生島」――現世と神域を繋ぐ巨大な水門が存在していた 。
宇賀神蓮の意識は、冷たい水の感触を通り抜け、六百三十年の時を遡る精神の「淵」へと沈み込んでいく。
銀色に光る水脈の先に、一人の男が座っていた。
豪奢な装束ではなく、泥と汗に汚れた古い法衣を纏った僧の姿。得川 有親、またの名を徳阿弥 。
徳川家康がその存在を神格化しつつも、同時に徹底してその「流浪の痕跡」を隠し続けた、徳川一族の真の始祖である 。
『……来たか。我が名字を継ぐ者よ』
有親の声は、水紋のように蓮の脳裏に直接響いた。彼の背後には、蓮が鹿沼の蔵で見つけた「老翁の首」と、磯山の風穴から引きずり出された「首のない体」が、幽かな光を放ちながら漂っている 。
「……どうして、あんな誓いを立てたんだ。子孫を蛇に変えてまで、富を求めたのはなぜだ!」
蓮は、自身の腕を覆う硬質な銀鱗を突き出し、叫んだ。
応永3年(1396年)、有親が遊行寺で宇賀神に捧げた『子孫繁栄』の願文。その執念が、数百年かけて一族を黄金の呪縛で縛り付けてきたのだ 。
有親は、寂しげに目を細めた。
『あの時、我ら得川の血脈は絶滅の淵にあった。足利の追っ手に怯え、明日の食い扶持すら持たぬ敗残者。……私はただ、我が子らが、その子らが、二度と飢えに苦しまぬよう願ったのだ。宇賀神という名の「ウカ(食物)」が、いつしか人を食らう「黄金」へと変質していくことも知らずにな』
有親の手元には、遊行寺に秘伝されてきた禁書『三河平井記』の原本が握られていた 。
『家康は、この契約の恐ろしさに気づいていた。だからこそ、神の知恵(首)と力(体)を分かち、佐野の地に封印したのだ 。だが、富は循環を止めれば毒となる。
四百年の間、中枢を失ったまま稼働し続けた「体」のエネルギーが、今、お前を新しい「王」として呼び覚まそうとしている』
その時、不忍池の地上では「十五童子」の継承者たちが最後の一打、人肌に温めた酒を蓮の痣へと注ごうとしていた
彼らにとって蓮は、日本の経済システムという巨大なOSを永遠に回し続けるための「生ける動力源」に過ぎない 。
「……選ぶがいい、蓮」 有親が、二つに分かたれた宇賀神像を蓮の前に差し出す。
「この首と体を完全に繋ぎ合わせれば、お前は神となる。この国すべての富を統べ、不老不死の鱗を纏う『宇賀神王』として君臨できる。……だが、もしこの契約を終わらせたいと願うなら、蛇は自らの尾を噛まねばならぬ」
蓮は、意識の片隅で巳波が叫んでいるのを感じた。
『蛇は、自らの尾を噛んで円環を閉じる。黄金を泥に還して! 名字という名の封印を、今こそ権限として使うのよ!』
蓮は、自らの腕の銀鱗を見つめた。 それは徳川幕府にとって、秘密を握る血族を監視し、システムのバッテリーとして利用するための「タグ」であった 。
しかし、蓮の先祖である宇賀神一族は、あえて敵対した佐野氏の家臣となり、名字の中にこの「神の首」を隠し抜いてきたのだ。
それは主君・佐野信吉への忠誠であり、同時に、いつかこの欲望の暴走を止めるための「忍耐と誇りの記憶」であった 。
「……いらない。誰かの犠牲の上に築かれた繁栄なんて」
蓮は、有親の手から『三河平井記』を奪い取ると、二つに分かれた像の間にそれを挟み込んだ。そして、自身の左腕――銀鱗が脈打つ痣のある腕を、力一杯、宇賀神の像の「尾」に見立てて噛み締めた。
「終わらせるんだ……この黄金の夢を!」
瞬間、名字「宇賀神」は「監視のタグ」から「システムのシャットダウン・キー」へと反転した。
像の「首」と「体」を繋いでいた銀色の糸が、漆黒の泥へと変化し、不忍池の底から、四百年分の執着が巨大な泥流となって噴き出す。
『さらばだ、我が末裔よ。名字は……ただの名前へと還る』
有親の姿が、泡となって消えていく。
蓮の体から銀色の鱗が一枚、また一枚とはがれ落ち、水底に沈んでいく石像の一部へと吸い込まれていった 。
現世と異界を繋ぐ水門が、轟音と共に閉じる。
蓮は意識が遠のく中、不忍池の泥の中に、本来の食物神としての穏やかな顔を取り戻した宇賀神の像が、静かに眠りにつくのを見た。
四百年にわたる徳川の「裏の神譜」が、今、正統なる末裔の手によって正常終了を遂げたのである 。




