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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
75/88

惰性の恩情と細腕

「おい! しっかりしろ!」

 すぐ傍らから投げかけられる、変声期をとうの昔に過ぎ去った教師の声に振り向けば、網膜に投影される映像が数秒強く乱れた。視神経の根本が焼け焦げたのではないかと錯覚した熱で、思わず瞼を瞑ってしまう前に見えた彼は、短かったはずの後ろ髪を高い位置で結わえ、そのまま下へと垂らす一本の長い束を作っていた。見慣れない髪型のセンセは、先刻に背中へ与えられた衝撃で言うことを聞かないオレの身体へおもむろに腕を差し入れ、軽々と肩口へ抱え上げた。抗議の声は、みぞおちへの圧迫感と、傷口が引き攣れた痛みとで、可愛げのない呻きに昇華された。目の前には、ポニーと形容するには長すぎる黒髪が艶めいて揺れている。毛先は、腰骨まで届いているだろうか。そういえば、黒に吞み込まれる前の少年も、以前に会った時よりも随分と髪が伸びていた。

「一旦退く。周りの様子がおかしい」

 霞がかかっていた思考へ、冷や水をかけられる。嫌々と首を振るだけの力も、あまり残されてはいなかった。

「巡が、まだ中に……」

 ここは渦中だ。今離れたら、命の危険があるかもしれない。行きがけに見付けた使用人とは異なり、あの泥に取り込まれたことがある自分が無事だったから大丈夫と太鼓判を押してやるには、首謀者であるはずの幼子が使役物の反逆によって消えた事態は、あまりにも異常すぎる。彼に言われた通り、周囲の様相は巡と会う前までとは比較にならないほどで、個の数も湧く殺意も多くなっている。指を叱咤し、呼び直して両手に握りしめた二丁拳銃で先頭の群を数体弾いてみても、次から次へと駒が装填され、終わりが見えない厄介な大渋滞が起きるばかりだ。空いている方の片腕で斬り払っている兄のおかげもあり、半径三メートル弱程度は諫められているが、そこから先は、まるで壁のようにそびえ立った汚泥が、歯のない口を忙しなく開閉している。時間が経てば経つほどきっと、彼らは勢いをさらに増して、首謀者だったはずの少年をもその毒牙にかけるかもしれない。巡と話した部屋から離れるための歩みを止めない、乾の背中を強く叩く。

「センセ、聞いて! お願い! 置いていくなんて」

 できない、と駄々をこねた拍子に、天井から降りてきた穢れが、青い睫毛をかすめて舐めた。自身の喉笛が鳴るより先にそれを排除したのは片割れに違いなくて、もはや音だけで判別しているとは思えないほど見事な手際だった。オレを助けはしても、頑なに引き返そうとはしない彼に、やるせなさもがないまぜになった疑問が、ろくに形をとれないまま舌先から零れた。

「なんで――」

「一緒に、溺れてやるつもりか」

 尋ねる音だった。

 咎めるでも叱るでも、ましてや怒るでも、悲しむでもなく、純粋に真意を求める声色に、さて自分は、ここに残って何ができるのかと、沸騰していた脳髄が凍る。あの子を、助けてやりたい――どうやって? たった二人であの渦を討って、五体満足で少年の沈む手を掴めるか? ……それができたら、どんなに良かっただろう。

 分かりきった答えが見えてしまって、自分の不甲斐なさに奥歯が軋む。次々に雪崩れて矛先を向けてくる、人から生まれた人ならざるモノへと遣るかたない銃弾を打ち込んでる間にも、どんどんと子ども部屋から遠ざかっていく。倍に増えた軍勢の養分は遺体かとちらついた妄想を、ほのかに青い炎を纏う一発で散らした。己の身ならいくらでも責任を取れるのに、別の個を抱えるためには、二本だけの腕が頼りなかった。

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