墓場の駆け引き
「おかえり、か」
息が凪ぐまでの間も待たずに走り去った妹のいじらしい願い事に、つい口角が緩むのを丹田へ力を込めて堪える。飽きもせず喰らいかかってくる生きた泥を、聴覚で拾う音と慣れた気配で位置を見当づけ、声の大きい方から斬り払ってゆけば、負う傷は浅く済む。幼い頃から親しみ、文字通り体に叩き込まれた剣術である天然理心流は実戦剣法だと聞いていた通り、他より邪道で自由が多い型は応用を利かせやすい。姿の見えない出鱈目な相手でも、危ういながらに時間稼ぎの役はこなせる。僅かな怪我が積み重なってしまうのは、視覚を担ってくれていた猫間と離れたことによる、了承済みの代償だ。過剰運転を強いられている心臓のポンプと、非日常に刺激されたアドレナリンで細かな傷の痛みはほとんどない。止まったらもう動けないなと頭の片隅で考えながら、右下から左上へ刃を滑らせると、床がひび割れるほどの咆哮が鼓膜を揺らす。焼けた喉を行き来する呼吸が建材の粉塵で滞って、被害の実態よりも大袈裟な咳が出た。一番気負っているだろう隣がいるうちはと格好つけて隠していた、ピークを過ぎた体力の在庫切れがいよいよだと認めざるを得ない。ぼたり落ちた汗の粒が、革靴に垂れて弾かれる。定年間際の年配も多い職員室では口が裂けても言えないが、やはり歳はとりたくないものだ。
血の味がする舌の根を唾でなだめながら、正面の呻きへ刀の上身を力任せに突き立てる。魚の内臓を引き摺る柔らかさを掌に感じながら横へ割けば、全方位からの威嚇が増した。推察するに、手加減するよう指令が下されていた少年の母親が既に個室へ招かれたことが、先よりも波がさらに荒れている要因なのだろう。
普通の視界すら霞んできた理由の一つには、避けきれなかった打撃で壁へと叩きつけられた己の不手際も挙げられる。黒のスーツでは目立たない出血が手袋へ伝い、これだけはと握った柄まで取り落とそうとする。がんがんと痛む脳髄は、酸素の巡りが悪いからか、あるいは霊感の元からの訴えなのか判然としない。焼きがまわったなと自嘲しながら、話が通じるかも分からない相手へ、呟くように語りかける。何も事情を知らない人が見れば、狂人の言動だ。
「神様だか何だか知りゃしないがな。役立たずのままでいるつもりなら、大人しく共倒れしてもらおうか。居候のイザナギ殿」
以前、彼に身体を乗っ取られたのは勤務先の地下だった。葵の姿を見失い、一か八かの賭けで泥に自ら呑まれた先で、今と似たような状況に陥ったのだ。異形の群に襲われ、体力の限界と拘束とで身じろぐことすら難しくなった時、ペンキで自我を塗り潰される感覚があった。無断でのルームシェアを強行している神様は、こちらが弱りきった折を狙って肉体に干渉するという、人間臭く卑怯な一面をお持ちらしい。しかし、手綱を奪われたその後は、息が瞬く間に整っていき、全身を苛んでいた痛みすら、その先で気を失う直前までは無かったことにされていた。扱いさえ間違えなければ、彼は強力な味方足り得ることを、既に身をもって知っている。
――で、あれば。使わない手はない。
電流じみた刺激がはしる指先へ、治安の悪い笑みが浮かぶ。
「ぐずぐずするな、主人は俺だ。さっさと従って、家賃分は働けよ」
どうせ進退窮まればここが墓場、逆鱗に触れても構わないと煽ってやると、全身に苛立ったような燃える熱が駆け、炎が流れた端から疲労も痛覚も消えていく。沸騰の衝撃に奥歯を噛み、反射できつく閉じていた瞼を開くと、鈍感だったはずの瞳には、明瞭極まりない敵の姿が映った。




