矜持
先の部屋から深追いしてきた群れを振り返って撃ち、四方から寄る腕に捕らえられないよう気を払いながら、幅が広く仰々しい階段を大股で踏み越える。卒業式の写真撮影に近い形式で複数人が列を成し、思い思いのスーツを身に纏った大人たちが報道陣に微笑むお立ち台でもある階段は、穢れに侵された段や手すりが不自然に脆く崩れている。肉体を絡めとられて地下の別室へ連れ込まれた自分の例から、精神に影響を及ぼす以外の範疇でも、「向こう側」がこちらに干渉することはさほど難しくはないと、あらかじめ学習してある。尽きる気配がない敵を根こそぎ殲滅する案は即刻ドブに捨て、黒が最も多く湧き出る場を探し、根元からの対処の模索へと作戦を切り替えた。事件の核が巡であるならば、配下たる穢れの発生源は、彼の居場所と等しいはずだ。少年はどこに、と見回している間に疎かになった前を、八時の方向から飛んできた乾の警告で遮られる。左脚で踏み込んだ勢いのまま斬り捨てられた大型が、歪な牙を露出させたままにくずおれる。礼の代わりに、背後から飛びかかってきた小型をいくつか、左右の拳銃から交互に飛ばした弾で消滅させてやった。
「目だと数が多くて時間かかりそうなんスけど、センセってどっちから呻き声が多いとか判別つく感じっスか?」
「聞こえる範囲はな。それと、俺にやらせたいことは大体分かった。先に進むから、違ったら言ってくれ」
「話が早くて助かるなァ」
「何年目の付き合いだと」
「はいはい、頼りにしてるっスよおにーちゃん」
背を合わせた体勢での競り合いを中断し、直前とは逆転した順番で化け物の胃の中を進む。埋もれたドアノブを探るために壁面を彼が一閃した副作用として、流麗な線がくっきりと、官邸の扉に彫られてしまった。加えて、鍵がかかっているものについては銃弾を三発ずつほど差込口にお見舞いしたがために、こちらも器物破損の片棒を担いでしまったが、緊急事態における不可抗力として是非ともお咎めなしであってほしい。こっちだって公の機関なのだから、持ちつ持たれつとしてくれ。
流石に呼吸が限界に近くなってきた頃、明らかに様子が違う一辺が、長い廊下の突き当たりに浮かび上がった。先行する教師の背を叩いて呼び止め、追っていた目的地を指さす。粒になった汗が首筋や額に垂れ、眼鏡の長方形のレンズへ寄りかかろうとした水滴を乾が手の甲で雑に拭う。体育部の顧問でなければこうも順調には進まないだろう三十路が病み上がりであることを今更ながらに思い出したが、自分も人のことは言えないので、無理をしないで欲しいという我儘は通らない。それでも、こちらが勝手に不始末を犯した罪に彼を巻き込んでいる現状に歯がゆさは募っていて、申し訳ない気持ちと情けなさが、荒れた心臓の陰で息をする。加えて、少年に伝えなければいけない言葉だってちっとも纏まってはくれないし、結局のところ、自分はあの子へ弁明をしに来ているのだから、どうして堂々としていられるだろう。巨躯に倣った大きさの目玉が剝き出しな化け物の眼球を潰すと、周囲の勢いが少し弱まる。それと同時に、走っていた足が床に張り付いて、動かなくなってしまった。台本を考えようとしても、頭の白紙に書き込むための空想のペンが器用に逃げて掴めない。現実の手からも拳銃が滑り落ちそうになって、取りこぼす寸前に握り直せば、頑丈なプラスチックが変に軋んだ音がした。
不意に、液体ではないものが頬へ触れる。知らず知らずのうちに俯いていた顔が、優しく、慎重に上向かせられる。顎に添えられた掌が移動して、布で覆われた指が、よれて張り付く青い前髪を横へ流した。
「ほら。待っててやるから」
「……センセは」
来てくれないの、と。甘えた弱音を押し出しそうになった喉が惨めで苦しい。不自然に途切れた会話を困ったように微笑まれて、迷う気配の後に、禁煙を破った残滓へ包まれる。分けた火種を灯した心臓の、強張った筋をほぐす香りだ。
「俺はまた暴走しかねないし、そもそも、二人の件については部外者だ。……お前の味方でいたいんだよ。けじめをつける最後のチャンスを、棒に振らせたくない」
背中を叩く拍が穏やかなせいで、再び脈動を活性化させつつある異形をうっかり見落として、嫌なことを全て忘れてしまいたくなる。土壇場になってすくむ心に、情けなさで視界が揺らいだ。ようやく等しくなれた二人で補って進んだ時間がどうしても嬉しくて、苦しませている相手への顔向けが立たないと疎いながら、へその緒と共に離れた愛着を取り戻すことは出来ないと再び痛感する。オレは、どうしたって薄情な加害者だ。
「なるべく静かにさせておく。早くしないと、また過保護になるぞ」
右腕だけで寄せられた幼子をなだめる抱き方に、わざとからかうような声色で逃げ道を作ってくれる優しさに、本当は、ずっと欠けている寂しさの一部を埋めてくれる存在は彼なのかもしれないと。自らに与えられなかった家族からの愛情の代用品を、先生が惜しみなく注いでくれているのだと知っている。底に穴が開いた器へ、飽きずに滔々と尽くされている。宿った始祖の神々にまつろう感情などではなく、己よりも干支が一回りしかけるほど前から生き、異なる人生で構成されてきた等身大の相手を信頼しているのだと、偽りなく言える。どんな隠し事をしていても、最後には結局飲み込んで、支えてくれる存在。
けれど、その甘さに寄りかかり続けるのは、違うはずだ。彼を都合のいい男にするなんて、誰より自分が許せない。
「おかえり、って言ってくれないと怒るっスよ」
過去と向き合ったところで、矜持を取り戻せるかどうかは別の話だ。しかし、愚かな少女の被害者面だけは、決してこの先持ち込むまい。身籠った責任は最後まで担うのが道理だと、そうであって欲しかったとかつて母に願った報われないかつての想いを殺してしまえば、本当の外道に成り果てる。半端に繋げてしまった鎖のもつれを、断ち切らなくては。献身に報いれる対価は、臨むべき先でしか得られない。
名残惜しくならないように、抜け出した腕から泡の渦へと一直線に進む。攻撃をするまでもなく顕わになった両開きの板へ入ると、再び生々しい壁が乾との空間を分断する。閉じ際、薄い鋼の風切り音が背を押した。




