ピンの刺し口
「吐きそう……」
混乱渦巻く街路を暴走する、超高級ヴィンテージのマニュアル車。それが何事もなく目的地に到着できるほどには緩みきっていなかった治安が、今回ばかりは裏目に出た。どこからともなく現れ、迷惑極まる公道でのカーチェイスの相手を務めたのは、一般市民に正義の味方の代名詞として知られる、白黒パンダの警察だ。通報を受けての手配なのか、ハンドルを握る二十代後半ほどの警官がこちらを視認してから赤い警告が鳴り始めるまでに迷う素振りはなかった。
狐塚がオレの家を訪ねた時、公職同士であっても刑法で取り締まる対象だという話をちらと聞いた記憶が、嵐の目を縫う車内で揺らされる脳を掠めた。さらに仮説を重ねれば、紛いなりにも秘密組織である当方は、表のヒラ公務員には存在そのものから認知されていないのではなかろうか。そうでないと、着実に遠くなる彼らの声が、みるみるうちに怒号に変わっていく理由が説明できない。上昇する血圧が少しばかり気の毒だったが、捕まったタイムロスで穢れが蔓延して国ごと共倒れなんてのはごめんなので、申し訳なく思ってなんかいられない。
女王がアクセルを最大まで踏み続けたおかげで、目的地付近へ到着した頃には、遥かまで耳に残るはずのサイレンの名残すら聞こえなくなっていた。その代わりに、めったにない車酔いを土産に持たされたわけだが、妙な緊張を抱えている余裕も強制的に剥がされたため、つかえていた胸はマシになったのが悔しい。
「こっちに腕かけろ。転びそうじゃないか」
「センセよく平気っスね……三半規管の鬼?」
「車酔いの仕組みを知っていたから、ある程度対策しただけだよ」
無論、ノーダメージではないが。言葉の後に気怠い息をついて、きつく目を閉じた彼の横を、運転席から抜け出した彼女が追い越していく。
「行くぞ」
舗装された道が高い踵に殴られる低い音色に遅れないよう、幅のある肩を貸りつつ歩き出す。傷一つない黒塗りを横付けしたこの路地は、官邸まで徒歩数分もない距離に位置するらしい。平日昼下がりにしては珍しく喧騒が満ちている、霞ヶ関の道行く人の頭部には、そのいずれにも黒い泥の塊が縋り付いていた。ただし、通行人に憑いていた異物が、瑠とすれ違った後に間もなく塵になるまでが一連の流れで、泥を祓われた人々は、驚いた顔できょろきょろと辺りを見渡していたり、はっと時計を見てどこかへ走り出したりしている。どうやら彼らは、元の精神状態に戻ったらしい。
「歩く浄化機じゃん。つっよ」
「……なあ。また、穢れとやらが見えてるんだが。そっちの耳はどうだ」
掌を預けているセンセからの質問に応えるべく、怒号を濾過するように耳を澄ませる――微かに、張り付いた黒が標的に囁く内容が、風の声に負けじと聞こえた。しかし、音としては拾えても、言語としてはうまく聞こえない。感度の鈍さの度合いも、オフィスの地下で分け合った才能と似ていた。
「ホントっスね。薄っすらだけど、音拾えるわ」
「貴様ら、本当に今まで気付く機会がなかったのか」
驚きからかえって感心したように言う上司は、一瞬目視でこちらの様子を確認してから、再び顔を前に向ける。
「触れているからだ、五感が繋がるのは。イザナミとイザナギのみならず、西洋の林檎悶着の二人といい、原初の二柱は一対であることが売りなのだから、組が揃えば力が強まって当然だろう」
暴走車に揺らされた脳髄をなだめるために借りていた肩口には、確かに自らの手がかけられている。ものは試しと外してみれば、水の幕で遮られてくぐもる泡じみた声が、面白いほど途端に拾えなくなった。眼に映る世界にはさほど変化もなく、名前をつけがたい黒が、相変わらずあちらこちらにこびりついている。汚泥の量こそ多いけれども、見えるものが何かといった観点ではいつもの景色だ。視界に入った乾の足元に忍び寄る小さな良からぬ粒を爪先で避けると、穢れになりきれなかった恨みは半透明を経由したのちに、ゆるゆる空気と同化した。
「ん、どうした」
「別にィー」
ほどなくして、家屋までの余白がたっぷりとられたゴール地点の門前へと辿り着く。公邸から滲む澱みの染みは壁をほとんど覆い、お世辞にも褒められないセンスによるリフォームを完成させようとしていた。いかにも不愉快そうに顔をしかめた瑠がその一部を手で払うと、払った分だけ泥が綺麗に剥がれていき、黒に取り込まれていた扉が姿を見せる。掃除した流れのままに蹴りで開け放たれた玄関フロアの内臓は、原油にも似た大量の液体で浸されていた。




