混色のパレット
傾いた椅子が鳴る。蘭が乱れた拍を繰り返す家具のノイズに混ざる声はなく、ガコン、と重い擬音を置きざりにして、ついに静まりかえった。瑠に名指しされた乾は神妙な面持ちで、彼を議題に引きずり出した張本人は、視線の先を定めたまま、横髪の房を耳へかけた。
――自我が何、なんだって?
状況が飲み込めず、黙ったまま内心で狼狽えていると、飄々とした壁の花が飾られるのをやめ、癖のあるテノールで重い空気をすっぱ抜いた。
「こら、お二人さん。お嬢ちゃんを置いてけぼりにすっと、おれが攫っちまうぞォ」
無言で続いていた会話が途切れ、狐塚、それから自分へと、カラフルな視線がひと揃いずつ集まってくる。
「……すまない。蔑ろにしたわけじゃないんだが」
言い草からすると、どうやら不手際は向こうにあるらしい。謝罪のきっかけとなる水をさした上司を横目で見遣ると、狐をかたどった右手をこちらへ向け、親指と中指と薬指で作った尖る口を二度ほど開閉させられた。薄い唇の端で笑む彼に短気をぶつけそうになったすんでのところで思いとどまり、深い呼吸を肺から追い出す。焦点を合わせ直した兄の顔立ちは、自分とはあまり似ていない。
「ちゃんと話してくれンなら、許してあげちゃうかも」
助け舟を雑に出す、ホストのなりをした胡散臭い獣は後ほどつねってやるとして、取り急ぎ、同じ絵具が瞳へ垂らされた教師へは、力の抜けた苦笑で応じた。
アンダーリムの彼曰く、オレが夢回廊を登り降りしている間の話だ。地下から戻って数日後に目を覚ました乾は、眠っているうちに裂傷や打撲、骨折などの処置を施した柊からカウンセリングを受けたらしい。症状の経過を尋ねられた折、地下で生じた重度の頭痛を伝えたところ、次のような回答を賜ったとのことだった。
「多少長いが、順を追って説明するぞ。まずは前提から」
言いながら目を配った矛先で佇む女は、懐から二本目となる燻し草の円柱を取り出した。進めてよろしいという意思表示と受け取り、己も生徒の耳で構える。一部がホワイトボードに加工された壁へ、蓋が外された黒のマーカーのフェルトが滑った。
「俺たちに混ざった神とやらは、身体からすれば異物なんだそうだ。本来なら、自分の頭で組み立てた指示を、自分の肉体で実行する流れが基本だとは分かるな」
「改めて言われると変な感じっスけど、まあ」
大きな丸が初めに、その内側へ小ぶりな二つの丸が範囲を重ねずに書き込まれる。外側の縁には「人間」、小さいそれぞれには「肉体」「精神」と注意書きがあり、数学の集合関係を示す図に近くも見える。「肉体」と「精神」には、双方向に三角がついた矢印が太くひかれた。
「この一対一の関係へ、第三者の魂が割り込む」
「人間」の仕切りの外側に、ペンのもう片側で暇をしていた赤いインクで新しい丸が作られ、「精神」を標的にした一方的な矢印が増える。新規の脚注には、僅かに逡巡した後で「魂」とだけ書かれたが、それが表すところとしては、イザナギとイザナミであることに違いなかった。続いて、三原色の三分の一で「肉体」と「精神」の丸が個々に囲われ、二つの二重丸が作られる。
「彼らが意識を乗っ取るために圧をかけてくると、抵抗した本来の魂がダメージを受ける。このせめぎ合いが肉体にも影響をきたし、特殊な頭痛を引き起こすらしい。持病もないのに、目眩がするほど痛んだろう」
「主神経の信号を、無理に上書きされるようなものだからな」
凛として不思議によく通る掠れたアルトが、合わせて補足する。書き込むために移動しようとする様子はないので、図示された構造には認識の違いがないらしい。
「肉体は、神経を通って濾過された精神に従うのが道理。もしも体外から強引に割り込む別の指令があれば、痛覚を用いて脳が危険信号を出す仕組みとなっている」
『静かに交わっていた水辺が波立ったからこそ、今、陰陽の均衡が崩れ、肉体と精神の和が乱れているんです』
カグツチの生まれ変わりだと嘯いた少年が、同じ喉で囀った言を思い出す。根拠とするのが信仰に偏っていたから、ああした表現になったのか。
少年の発言も付け足して推測するに、神とやらの干渉は常にあって、気まぐれかいたずらかで圧が強くなるらしい。そうでなければ、どんなに回りくどくとも「静かに交わっていた」とは言わないだろう。
自身の中に、黄泉の住人となったあの青髪の亡骸が宿っていると思うと、生まれついての外見にも納得がいく。幻視したかつての夫、死んだイザナミを迎えに来たイザナギも、その相貌は乾と瓜二つだった。実の親が誰であれ、いっとう近しいのは神話の登場人物だなんて、ロマンチックで冷たい。むかしむかし、から始まる世界と根深く繋がりながら、自分たちが営んでいるのはどうしたって人間の愛憎劇で、そのことが少し、皮肉に思えた。




