理性と警告と忠告と
「痛んでいるうちはまだいい。問題にするべきは、手綱の取り合いで競り負け、頭痛が止んだ後だ。そら、感想を聞かせてやれ」
矢面に立たされた彼は、右耳すぐ下の辺りの首を、右手薬指と中指でさする。バブルリングを模したO形の煙を吐き出した瑠の手袋は白く、汚れや染み一つない。乾は、深呼吸と変わらない程度の嘆息で諦めを決めたのか、こくと首肯し、握る筆記用具の先端へ蓋をした。
ふと見渡せば、狐塚が部屋からいなくなっていることに気付いたが、それを言及してどうなるものでもない。蘭は講釈を子守唄にして大きな瞳を隠し、穏やかな寝息をたてている。
観察を打ち切り、ペンを容器の中へ収めた訓導者へと向き直れば、兄の眼差しには落ち着きがあった。あの暗がりで見た危うさは鳴りを潜めた、いつもの大人らしい、よく見知った先生だ。胸を撫で下ろさなかったと言えば、嘘になる。
「神に主導権を握られていても、思考が全くの別人になるわけではい。ただ、理性の働きが鈍くなるというのか……ブレーキは効かなくなっていた」
殺人は罪である。
近代国家に生まれた以上、無意識に食い込むまで、マスメディアで、世論で、教育で、ストッパーとして刷り込まれる認識。特に、教員として未成年に接する機会が多い彼にとって、社会規範を意識しない日はないだろう。そんな立場にある成年が、極限であったとしても、前触れなく、咄嗟にタブーを破れるはずはない。
年端も行かぬ、声変わりすら迎えていない少年の首に、刃を沈み込ませるなどと。
「それは……。ちょっと、分かるかも。正直、気が触れたのかとは思ったっスけど。乗っ取られたって感じは、あんまし」
未だに、あの光景は夢の延長線上だったのではないかと考えてしまう。けれども、話すために選ばれた言の葉に借り物めいた雰囲気はなかったし、赤の他人があんな――ひと目で複雑な想いを抱えていると伝わってしまうほどの表情を作れるとは、考えたくない。願望が混じった所感を通して、自分の気持ちを透かし見る。まだ彼を信頼できている己に安堵して、手持ち無沙汰な指先がむず痒かった。
「親和性の問題だな。魂の相性が優れているほど、乗っ取られやすく、思考にも差異が少ない。長年溶け込んでいれば、他者へ向ける感情も混ざる」
「なら、地下ではどっちと話してたことになるんスか? 意識はセンセにもあって、神サマの方も同じ気持ちではいて、でも主導権は奪われてるって」
「両方だろう。乾は三十年以上イザナギを抱えているのだし、乗っ取り云々を除けば、ほとんど一心同体と言っていい」
ならば、イザナミとは――なんて、口にするまでもない愚問だ。青天目葵は、二十年を越す年月を生きた。痛みのない状態、こうして心身共に落ち着いている瞬間に、自分に宿る他者との境界線を意識できないのなら、剥がすことなど到底不可能。二度目の輪廻に乗るまでは、彼がそうであるように、自分も彼女と融け合ったままなのだろうと、確信に近い予感があった。
「しかし、大元の価値観には致命的な違いがある。人として無意識に制御している欲求は、傲慢が無条件に赦される神にとって、抗う対象ではないのだ」
欲と名前を冠するもの全てにまつわる衝動に、神は素直だ。例えば、独占、執着。愛し子にまとわりつく害虫を排除したい、だとか、自分から離れるくらいなら、いっそ誰の手も届かない場所へ閉じ込めてしまいたい、だとか、そういった我儘だって許されてきたのが神話の世界だ。
「熱烈なことだ。私には理解し難い」
「分かんないのに、助けてくれるんスか」
彼女の片眉が上がる。ついまろび出た己の発言をそこで振り返って、表現が悪手に過ぎるとはっとした。意図したものではなかったが、馬鹿にされていると受け取られても仕方がない。
これは、怒らせたか?
失した礼を詫びるか否かと悩む隙は三秒となく、赤が深く鮮やかな唇は開かれる。
「理解できなければ切り捨ててよい、という道理はない。貴様らは私の部下だ。何故見捨てなければならん」
当然のことを聞くな、と付け足され、乾と顔を見合わせる。増えた瞬きに、お互い思うことは同じようだと察せられた。突然勤めるようになった職場のトップで、古参からは王と呼ばれ、朗らかな様子は微塵もない瑠の人となりは依然として分からないことばかりだが、この口ぶりだと、上司としては頼っていい存在だと自負しているらしい。淡い期待混じりに回遊させていた思考を引き上げたのは、泳ぎのきっかけを作った相手その人だった。
「話を戻す。憑依についてだが、要は、手前を縄にした綱引きだ。乾はもちろん、猫間にも、手綱を奪い合う時が必ず来る。貴様らに憑いているのは、万物を救う仏ではない。我欲を抱き、私情で過ちをも犯す大神だと、ゆめゆめ忘れるなよ」
応と示そうとした声を、鳴り響くアラートが上書きする。鼓膜を破りかねない大音波は、先の侵入者の際に発せられた警告が複数、ほぼ同時に重なってフロアを満たすことで実現されていた。眠っていた蘭も流石に起きて、止まらない目覚ましにうんざりするような寝ぼけた不機嫌さを表情に滲ませている。耳の内部が破裂する寸前、つんざく電子音の代わりに、若い女性の緊迫した声がスピーカー越しに拡散された。
「緊急です! 大量の穢れが肥大化、武蔵国を中心に全国で事件、事故多発! 最も発現の多い場所は首相官邸付近。巡少年の関与が疑われます! 至急、動ける局員は対処に向かって下さい!」
復唱せずに途切れたマイクからの続報はない。忙しなく廊下を走った靴音は、アナウンスした喉の持ち主によるものだろう。静寂を取り戻した一帯に、白手袋の少しくぐもった一本締めが区切りをつけた。
「さあ、着いて来い。この駄々っ子を黙らせるための道は、私たちが作ってやる。貴様らは貴様らなりに、人間は人間同士で、ケリをつけてみせろ」
尊大に鼻で笑った瑠の眉は吊られ、鮮血にも似た口紅が塗られた唇の端も、勝負を挑むかのように上がっている。歩き出した彼女の脚に合わせて強い音を立てるヒールに、昂然として大きい歩幅。どこからどう見ても悪役の振る舞いであるのに、彼女は間違いなく気高い女王なのだと、飾りのない本心と直感が判じた。




