巡る夢
吸い込んだ息が肺に流れ、空気で膨らんだ胸元が押さえ込まれる違和感に目を覚ます。緩んだ瞳孔には刺激が強い、無機質な白。視界の限りのほとんどを一色で揃えられた、輪郭が曖昧な世界を見渡す。重く沈んだ海底から浮上する途中の知能では、己が置かれている状況を正確に把握することが叶わない。潔癖な部屋、腕に刺さった針の先に繋げられたパックの中身は、何かの栄養剤だろうか。倒れる前の記憶を水揚げして、恐らくここは、拠点のどこかの部屋なのだろうとだけは予想できた。
「乾さん?」
後頭部を枕に預けたまま声へ首を傾けると、ウェリントン型の眼鏡をかけた、初対面の女性が背もたれのない椅子に座っている。声の若さからして、年齢は二十の半ばか、それよりも少し上といったところだろう。上半身を起こすと、肺を覆う骨が軋んで痛む。吐き出そうとしていた二酸化炭素を思わず堰き止め、姿勢の更新作業は中断した。浅く腰を上げた彼女が、こちらの背中側へと畳んだ毛布を挟み込んで、即席のクッションを作ってくれた。
「ご無理はなさらず……多分、肋にヒビが入っているか、折れているかだと思いますので。気分はいかがですか」
止めていた息をゆっくり口から吐き出すと、多少は痛みがひいていく。横の机に置かれていた眼鏡をかけると、胸に抱えた少女が失せている事実を知覚した視界が、ぐらりと真っ赤に歪んだ。
「あいつはどこに、……ッ」
発声で揺れた胸元に、身体の内側で欠けた支柱が障る。
「猫間さんなら、別室にいらっしゃいます」
切れた言葉を汲んだ女性の身なりは、俗にビジネスカジュアルと呼ばれる服装のうち、礼装へ一足寄ったものが選ばれている。おもむろに頭を垂れたハーフアップの濃い茶髪が、滑らかに前身頃へと流されていった。
「初めまして。私の名前は、春、と申します」
顔を上げた相手の雰囲気は、東堂らのような尋常ならざるもののそれではない。試しに、交わった眼差しと言葉から、彼女の思考回路へと聴覚のバイパスを繋いでみる。すると、大した抵抗もなく精神の手綱を握れてしまったので、即座にそれを手放した。
「人間、か……?」
「警戒も、当然ですよね。ごめんなさい、言葉が硬くて……あの、緊張しいでして」
言葉と表情で謝意を示した春は、人差し指の第三関節と第二関節の折れ目でブリッジを押し上げて、薄化粧が施された眉を下げる。膝で空間を握った左手、その小指の端から二番目の付け根には、透明な宝石を埋め込まれた簡素な輪が固定されている。
「私は人間です。歳をとって、日に日に一年が短くなる、月並みの凡人。数年前までは局員として働いていましたが、今は、天皇家にてお傍の御用を務めております」
意図してではなかったとはいえ、何とはなしに後ろめたくなる盗み見に気付いた彼女は、同僚の指輪と対になるものではないとはにかんだ。
「ご安心下さい。猫間さんに大きな外傷はありません。小さな擦り傷や打撲痕はいくつかありましたが、乾さんが起きるまでのこの数日のうちに治ってしまいましたよ。脳波の検査でも、異常は検知されていません」
――ただ一つ。不自然なほど長い夢から、起きる兆しがないことを除けば。
伏し目がちになった視線の先に、こちらの相貌が捉えられることはない。清潔なシーツの波を見遣った春は、ためらいがちに噤んだ唇に力を込めてから、再び顔を上げることを選んだ。黙秘は許さないと雄弁に語る強い眼差しが、二枚分のレンズの壁を経由して、己の水晶体まで撃ち込まれる。
「単刀直入にお尋ねします。あなたは、実の妹を殺すつもりですか」




