御天気雨
手順の説明で作ったというカルメ焼きを胃に流して、空きっ腹をなだめる応急処置を施す。彼が担任を務め、自分の籍が置かれている三組は、六時間目に国語を予定しているらしい。理科を受け持つ眼鏡の教師は、別のクラスで授業をするとのことだ。目を擦りつつ、覚醒しきらない耳から吸った短い情報を、頭蓋骨に収納された一対の記憶媒体へと書き込む。短いなりに上質な睡眠もとれたことだし、散歩に不便な校舎をそろそろ辞そうと立ち上がると、背骨を構成するパーツが下側から心地よく噛み合っていく。夜は相変わらず深く眠れないのに、最近出先での寝落ちが多いのは、もうあの家に居続けるのが限界なことの裏返しかと、密かに思考へ住みついて長い仮説を結びつけて思いを巡らす。ただ、たとえそうだったとしても、「家」と呼べる場所はあの狭く濁った部屋しかないことは変わらない。この歳に至るまで、母以外の親族というものをほとんど見たことがないという事実が、揺るぎない現状を裏付けていた。
「帰る」
肩に流れる邪魔な髪を後ろへ回せば、その重さが憂鬱の種に早変わりする。ろくに手入れしていない毛先は好き放題に枝分かれしているものの、かといって、美容院なんて贅沢な場所に行ける金を貰ったことはないし、万が一手に入ったとしても、頭髪の手入れに使うことはないだろう。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
男は、特に予定がないのであれば、部活のことで用があるから放課後まで残ってほしいと打診してきた。曰く、三年生を除いた生徒全員が部に所属することを半ば強制じみた勢いで推奨される弊校では、帰宅部という括りはないらしく、オレもどこかしらの団体に名を連ねなければならないらしい。
「幽霊部員も多いけどな。もし希望がないなら、俺の受け持ちにでもなっておくか? 最低でも一ヶ所は見学に行っておかないと、後で色々面倒なんだが……剣道部なら、今日のうちに済ませてやれる」
「……別に、いいっスけど。それまでここ開けといてくれンだったら」
「了解。また迎えにくる」
後でな、と付け足し、デジタル式の腕時計の文字盤を確認した彼は、職員室のある方向へと早足で去っていく。その動作で翻った白衣は、先日のモッズコートよりもさらに生地が薄く、午後の高い太陽の眩しさを反射していた。
眠気がこなかった五十分間は、棚で数冊息づく文庫本のうち、適当に指をかけて引っかかった文章を読んだ。家に帰る時刻をどうにか遅らせたかった一桁後半の年齢で体得した、学校図書館の隅で居座る術の賜物で、文字を読むことに関する抵抗感はそこそこ薄い。しかし、本の中身の趣旨を正しく理解できるかどうかは、目を通せることとは全く別の話だ。その例に漏れず、一見するとページが少ないように思えた遠藤周作の『海と毒薬』読解は遅々として進まず、主人公の上役たちがエーテルという麻酔を外国人兵に注いだばかりの頃合いで、終業を告げる鐘が響いた。
二十分ほど経ってから、今度は白衣をどこかに置いてきたらしい担任が戻ってきた。校舎や体育館とは別な建物として用意された武道場へ到着するまでには、五分少々もかからない。道場へ一礼してから足を踏み入れた教師の軌跡を不真面目に辿り、硬い床の屋内を見渡しても、女生徒の姿は見当たらない。下駄箱に入った靴の両を横目で確認してみたが、そもそもの全体量があまり多そうになかった。少子化極まる昨今、サッカーや野球などと比べれば間違いなくマイナー競技である武道の一つが剣道なのだと、道すがらに受けた通りの現状だった。
変人二号である金髪の美少年は、既に道着へと着替えを済ませ、正座の体勢をとったまま、堅そうな胴回りの防具を紐でくくりつけている。伏した視線は、手をかけている結び目ではなく、その向こう側にある床を眺めているようにも見えた。開けっ放しの窓から舞い込む風に揺れる毛先も雰囲気作りを手伝ってか、制服の時よりもずっと凛々しい印象が与えられる。
だというのに、折角こちらが見れたものだと感心していた彼の表情は、少年が異質な気配に気付いた途端に、年相応の朗らかさと形容するには緩すぎる造形を成してしまった。後ずさる暇も与えられず、すぐ目の前に追従型の瞳が迫る。
「え? ……ええっ! あおちゃん、剣道部に入るの! すごく嬉しい! 仲良くしたいな、ぼく、クラスでもきみの隣の席でね、」
「帰る!」
「まあまあ、ちょっと待て」
踵を返した先を遮る腕の持ち主を睨み上げたが、見慣れ始めたあの苦笑いがあるだけだった。騒ぎを聞きつけ、更衣室から出てきた他の部員たちにも囲まれて、完全に逃げるタイミングを失う。御し易そうな顧問だからと油断していたが、意外にも部員は活発な輩ばかりだ。やれ仕方なし、入部を断っても騒がれそうなことだし、適当に流して最低限だけ付き合うことにしよう。この場で唯一の大人に準備運動を促された一年生たちが、自分に軽く手を振りつつ離れていく。外と直結した換気用の扉から窺える青空では、細かい雨が散り始めており、狐が嫁にでも行きそうな天気だった。体操の号令が、心地よく透き通った晴れの水気に吸われていく。
「降ってきたな。止むまで見ていけばいい」
聞かせるための溜め息は、間延びした数字に上塗りされた。壁にもたれてあぐらをかき、ついでに瞼も閉じてみれば、ガラス窓がキシキシと揺れているのが分かった。澄んだユニゾンが鼓膜を撫で、不思議と心地がいい――
――なあ、猫間。
息が詰まる。
穏やかな眼差しで部員を見遣る彼の声が、確かに自分へ、何事かを問うた。そのはずだというのに、無理なくひき結ばれた一文字の唇は閉じた余波すら見受けられず、準備を進める青少年たちを、ひたすらに優しく見守っていた。
「アンタ、今、なんて」
当惑が溢れた呟きで、外れていた視線が再びかち合う。謂れなく早鐘を打つ心臓の警報とは逆に、気温は心地よく下がり、肌の表面を慰めている。
「ん? どうした。何か質問でもあるのか」
凪いだまま応えた彼の瞳に、誤魔化しや嘘は見受けられない。どうも、今回疑うべきは自分の耳らしかった。
「……別に。聞き間違いした」
急に吹き込んだ角度のきつい滴が、霧になって頬を淡く浸す。外界の光が、屋内が、視界に入る全ての事象が、次に瞬きをする間、ひときわ鈍く揺れた。




