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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
45/88

甘い香りと子守唄

 月曜から足して三日で飽きた、昼間の惰眠。カレンダーの色付き枠に挟まれた無染の右端で、休息に気まぐれなカンマを置いた。ただ、それだけだ。

 初めて登校した義務教育の訓練場は、気持ち男子の割合が高い男女共学、冴えなくありふれた風態の公立中学校だった。職員室に面した廊下にひっそり息づく、所々の文字が掠れた校舎案内図は、実用の面に限れば意外と綻びが少ない。何代も前の天皇が抱えた平成の年号は、人間を基準にして測れば、祖父母の世代の若かりし頃にあたるだろうか。よく足から逃げるスリッパを諫めつつ、「初学年教室階」と印字された一部を眺めていると、見覚えのある教師が、いくつかの文房具を小脇に抱えて職員室の中から出てくる。ボールペンを白衣の胸ポケットに挿した彼の視線が、電磁を纏ってぶつかった。

「おはよう、葵。次の授業は理科実験室だぞ」

 長方形の爪がついた人差し指が示す地点は、先刻に焦点を当てていた箇所とは棟から異なる。指の枝を辿った幹、左手首に巻き付いた文字盤によると、どうやらそろそろ午後一番の授業が始まるらしい。道理で、通学路が空いているはずだ。

「最初の週でしょ。もう実験あンの」

「擬似レクリエーションって感じだな。担任権限で、三組の時間をもらったんだ」

「ふーん」

 実技の類、その仲間に入る理科の実験なんて、特にサボれず面倒なのに。

「どうする? 受けたいならもちろん歓迎するが、気分じゃなさそうだ」

 特に隠していなかった顔色で細まった彼の目元と反対に、同じ持ち主の唇の両端は上がっていた。人間というものは、表情のパーツがあべこべに動いても、これが苦笑だと自動で認識できるから便利だ。

「一人でいたいなら……うん、隣の準備室にいてもいいけどな。あまり健康な景色じゃないとは言っておく」

「静かなの、どっち」

「はは。気分悪くなったら言えよ」

 忘れた頃に高い音が擦れる室内履きの縁取りは、やる気のないスリッパより一回り大きい。脚を動かすには手間のかかる爪先の覆いがもたつくけれど、隣人の歩みも遅く合わされていたから、特別教室への道案内は緩やかに続いた。甲高い会話へ花を咲かせながらすれ違う女生徒の群れは、教師へ挨拶をするついでに、オレを値踏みする一瞥をくれていく。こういう、特異な容姿の持ち主を見定めるために固まった瞳は、ちょっと驚くほどに機械じみて見えるのだが、当人が鏡で確認することは難しかろう。

 数字二つの間に「の」を挟んだ普通教室が並ぶ階は賑やかしいことこの上なかったが、自分たちが目的地に近くなればなるほど、その喧騒に静けさが上塗りされていった。彼の手元に握られた銀色が、施錠された扉へ埋め込まれた歯車を回して、その室内が御開帳となる。招かれてみると、ホルマリン漬けの半透明や、経年劣化で濁ったガラス、数冊積まれた文庫本など、確かに、客室とは言い難い様相のインテリアが所狭しと並んでいた。昔ながらの立体スイッチを押し込めば、物の形がより鮮明になる。埃は大して舞わないから、掃除はきちんとされているらしい。

「ここが準備室。そっちの扉は実験室に繋がって――」

 不自然に言葉が途切れた解説者を振り返ると、彼の現在地から三十センチ未満の半径内にもう一人、スラックスタイプの制服を選んだ生徒がいる。逆光の中で飛び退いた少年は、障害物となっていたらしい男に素早く頭を下げており、そのシルエットは、腰から直角に折れ曲がっていた。

「ご、ごめんなさい! 道場の予鈴が鳴らなくて、出るのが遅れて、焦って、て……」

 恐る恐る姿勢を直したブロンドの癖毛が、おもむろにこちらを視線で射る。白熱灯に浮かんだ童顔は整っており、備わった両目は黒目がちで、走ってきたのか頬が紅い。まるで、西洋人形が息をしているかのような、よくできた美しさだった。

「こら。流石に余所見するタイミングじゃないだろう」

 握り拳が頂点部を素振りだけで叩く。音も痛みもない、形式だけのお叱りだ。

「……先生、あの子は?」

「座席表ではお前の隣に決まってる、青天目、葵だ。次の時間は別室にいるが」

 少年からの不躾な眼差しは、止む気配がない。かといって、侮蔑と判ずるには呆けすぎている目付きから敵意を汲み取るのも難しそうだ。こちらがはてと首を傾げると、引きかけていた頬の赤みがまたぶり返す。それでいて、直接こちらに話しかけてこないのが不思議でもあり、ほんの少しは苛立った。

「言いたいコトあんなら、言えば」

 眼光を強くしてやると、漫画表現の手本になれそうなほど上手に、紺のジャケットに覆われた彼の両肩がはねた。

「へっ? あ、う、その……。……よ、よろしくね、葵ちゃん! あおちゃん、って、呼んでもいいかな」

 威嚇したつもりが、変化球が返ってきた。少女に見紛う可憐な同世代は、はにかんだ言葉尻で質問を区切る。これは、回答が必要な流れだろうか。どうしたものかとたじろいでいると、抑えた笑い混じりの溜め息がぽとりと廊下に落ちた。

「俺を挟んで口説く気か? 剣道部期待の新人クン」

「い、いや! そんな、違いますよ! あ……ま、またね、あおちゃん」

 この学校は、奇人を集める七不思議が語り継がれているのかもしれない。言いたいことを好き放題に不法投棄した少年は、理科準備室とは壁を一辺のみ共有した、本命の授業が行われる実験室の方へと駆け足で消えていく。小さな嵐が、建て付けの悪い二枚扉を互い違いに開けたため、にわかに活気づき始めた隣室の音が容易に耳に届いた。

「終わったら様子を見にくるから、好きに過ごしていてくれ」

 カラカラカラ、カラ、トン。

 自分以外に物音を立てる存在がいない部屋で耳を澄ませば、休み時間の名残でざわつく生徒たちへ説明を始めた彼の声が、よく聞こえた。実験器具の取り扱い方法、ガスバーナーのねじ二つの役割と回す方向、アルコールランプに灯った火の消し方、後始末の際に使う試験管用のブラシ。順調に連なっていく音の連続が古いガラスに木霊して、キシキシと内緒話をする理科準備室の物音は、存外、悪くないものだった。

 更新され続ける耳からの情報が、カルメ焼きとやらを作る手順の説明に入った辺りで、また、眠気が背後に忍び寄ってくる。センセイの声は、子守に特化した能力でも隠しもっているのだろうか。手頃な椅子に腰を下ろし、腕を枕にした机へうつ伏せの体勢を整えてしまえば、誘われるままに睡魔が脳を侵食した。

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