沈殿
「何考えてんだ、あの馬鹿教師!」
強い語調で投げ捨てられた指示に呆け、遠くなる背中を見送ってしまった自分が憎い。少し遅れて駆けながら、前方の空間にずんぐりと居座る瘴気の元凶を見上げれば、頭の奥がつきりと痛みを訴えた。太陽を直視した刺激と似ているそれは、眩しすぎる光の代わりに、昏すぎる闇を覗き込んだからだとでもいうのか。アパートではこうはならなかったことを踏まえれば、封印前よりも段違いに手強くなったものと推測して問題なさそうである。トリガーガードに添わせた人差し指はまだ折りたためずに、時々流れ弾めいて飛来する黒の塊や触手を避けていけば、一瞬たなびいた銀の残像が先で光った。
見間違いかもしれないし、彼を道標にしていいのかすらも分からない。しかし、当て所なく彷徨うよりはずっといい。そう決め打って足首と爪先の角度をきつくした矢先、地面と水平になるような黒の玉が、ちょうど顔の高さへやってきた。咄嗟に引き金をひいたものの、手応えがないまま部品が噛み合う音だけが耳に届く。手の中にだんまりな拳銃に舌打ちして、衝突の寸前に身体を反らせて躱したが、背後で泥玉が叩きつけられたような音が滴っているのが不快だ。走っているがためにぶれる照準を可能な限り合わせ、大きな的へ当たるようにもう一度撃ってみても、空砲すら鳴らない。
「……クソ、やっぱオモチャじゃんかよ!」
紛い物をつかまされたのか、それとも小綺麗にされていたのはガワだけで、可動部のメンテナンスがなされていなかったのか。解答は与えられるべくもないが、いずれにせよ、このままでは自分は、飛んで火に入る夏の虫とやらになる。というか、もうなっている。
先程ちらと視えた光、そして退避で鉢合わせない様子からすれば、相方に渡された刀は本物らしいというのに、なぜオレだけは怪異に対抗できないのか。
ながら運転はやはり危険だ。そう実感したのは、答えの在り処を割り出すために思い耽ろうとしたその時、自身の足に滑り寄る影に気付いたからだった。霧がかる夜に車が跳ねる掃き溜め。マンホールから溢れ出ていた汚水の泡。重い衣服が湿って、肌に引きずる気持ちの悪さ。そういった事物を全て混ぜ合わせて濃縮した圧が、革靴の表面を滑り上がってくる。
悪寒で漏れ出そうになった声が、折り重なる黒で塞がれる。靴下留めの金具と皮膚の間を縫って螺旋状に這う悪寒に指が痙攣して、握っていたものが転がる音を遠くに聞いた。引き攣る喉を押し込めるために伸びてきた、帯状のそれらが幾重にも巻き付いて、圧迫感に意識が持っていかれる。息苦しさで震え、狭まっていく視界に、本能が警鐘を鳴らした。
(まずい、だめだ。今ここで閉じたら)
分断されている彼の視界は、自分のそれよりも遥かに不安定なはずだ。聴覚の差を鑑みても、己が欠ければ、乾の身が危険極まりないことだって、とうに分かりきっている。他の局員からの手助けもないと断言されている今回は、都合よく蜘蛛の糸が垂らされることもない。穢れに飲み込まれた人間がどうなるか聞いたことはなかったが、最悪の場合、冗談抜きで、彼も自分も死んでしまうという可能性だってある。肉体の問題でなければ、脳内や精神に攻撃するような、例えば廃人になってしまうだとか……どちらにせよ、まずは呪縛から逃れなくては話にならないのだ。
だけど――それなら、どうすればいい?
噛み合わない思考の歯車が、回転すればするほどばらばらと崩壊していく。意味のある生産ラインを廻しているつもりなのに、練られて刷りだされる結果は白ばかり。引っかき傷めいた筆跡がたまにあっても、言葉の形をとれずに散っているだけ。焦りばかりが先立つうちに、ついに肺へ溜め込んであった空気が底をついて、纏わりつく生温い泥に喘ぐまま、意識はとうとう黒に落ちていく。
せんせい。
泡も出せずに音なく呼んで、世界は一色に染まりきった。




