張りぼての誤魔化し
地下空間のだだっ広さに目を回しながら、武器庫の奥に構えられた目的地の扉へと向かう。狐塚が消えた壁の先は、一体どのような空間がくり抜かれているのだろうか。エレベーターを降りてからの分厚い扉の連続に、ここが隠し部屋の最たる場所な予感もする。空想を半分抱きつつ、共に歩く元担任の話を反芻していると、彼の素の部分が垣間見える気がした。センセが剣道の有段者であることは中学から認識していたが、流派だなんだと滑らかに語れる程度には熱心なのだと、直に聞くのは初めてだ。
「ってことは、オレも天然理心流の使い手なワケ?」
一度は聞き流してしまったが、部活の顧問だった彼が該当の流れを汲んでいるのであれば、三年間という極端に短い時間であっても、指南を受けた自分は門派に入るのか。ファンタジーの題材として事欠かない新選組の一派と重なる習い事だったのなら、やはり浮足立つ若い心があるのだが、それは軽く横に振った首で否定された。
「あれはクセが強いんだ。お前達に教えたのは柳生流で、基礎に重きを置いてある」
「ヤギューリュー。……じゃ、新選組ゴッコはできないか」
「身につけたいなら、留年してもらう他なかっただろうよ」
それ、実際ダブっても、部活させてもらうどころの話じゃなくないスか、と言えば、素直に肯定される。勉強漬けなど、延々と陰干しされる魚の気分を味わうだけではないか。特別勉学が好きなわけでもなし、まっぴら御免被る。段々と、銀の壁が間近になる。
「そういえば、卒業後はどうしてたんだ?」
ふとした、他愛ない、ごく当たり前の質問。没個性的な問いに、心臓が嫌な音を立て、頬が強張る。
落ち着け。視線は感じないから、彼は前を向いている。当然、表情も見られなかったはずだ。拍を持たせたら、それこそ訝しまれる。
「普通っスよ、代わり映えなく! さっきも言ったけど、部長とかアイツらとも遊ぶし、勉強の内容以外はあの頃とあんま変わんないかな」
意図して声音をやや高くし、普段通りのトーンに切り替える。逡巡、生じかけた合間を慌てて潰して、考え込んだような耳触りに変えさせて。下腹部が冷えたような錯覚は、空元気で知らないふりをした。
「ほら、でも、センセの方が変わり映えなくセンセしてそうっスけど」
返事を待っていられなくて、続けざまに問いを返す。話題を自分から遠ざけることが、安全地帯に行く最短ルートだった。
「俺? ふむ……一度別の中学に赴任したが、結局はお前の母校に戻ったくらいか」
「あー、ホント、予想しやすい感じ」
「そんなもんだろ」
すくめて戯けるふりをして、知らず肩に籠もっていた力を抜いた。まだ心臓が波立っているけれど、この程度なら何ということもない。動揺にしっかと蓋をして、意識の淵へ沈めれば、もういつも通りでいられる。音のない深呼吸が、漣を収めてくれた。
目的地の壁面へたどり着く。二人並んで対峙して、横へずれていくのを見守っていると、一風変わった景色が目に飛び込んできた(このトンデモ部署に来てから珍妙ではなかったことを数えるほうが楽というのは、一旦横に置いておく)。そこは、例えるなら、瞼の裏側のような生暖かい闇の部屋だった。開示された部屋の内部はおおよそ真っ暗だが、試しに足を一歩だけ踏み入れてみると、靴裏と床が触れ合ったその足元だけは、数秒間だけ仄かに明かりを灯す仕掛けらしい。奥行きも分からず、狐塚の声すら聞こえない。同伴者の様子を窺おうとした折、オレが声をかけるよりも一足早く、彼は全身を暗部へと沈ませていった。光源は境界からきっぱりと分かれているらしく、隣接した武器庫の照明をほとんど受け入れないそこは、すぐにスーツの黒い生地と溶け合い、己よりも少し高い背丈の男を、あっという間に隠してしまう。
「ま、待って!」
後ろを追い、また相手からも近くへ寄ることを許された足元が、二人の距離で作る半径を狭める。僅かな光源が足元に位置しているため、彼の表情はよく見えないが、声がこちらに向けられていることは分かった。
「目が慣れるまでは、結構しんどそうっスね」
無意識のうちに彷徨わせていた掌の広い面積が、似た硬さの何かへぶつかる。そのまま不意に掴まれて、肩が跳ねた。
「と……悪い、反射で」
短い謝罪と合わせて、すぐに手袋越しの体温は剥がれた。視覚がほとんど活かせない場所に接触物があれば、警戒もするだろうし、動きを制限しようと握るのも不思議ではない。ああ、彼には男女の交際をした相手だっていたのだから、名残でつい、ということもあるか。その一環であっただけで、何より、相手はよく見知った乾なのだから――そう思おうとしても、ばくばくと脳に響く鼓動が治まってくれない心臓と、冷たくなる四肢の先が、情報が制限された神経を焦らせる。なけなしの抵抗を抑え込む手、無遠慮な肌、彼の面影、それから――
「おい、どうした」
返答がないのを疑う声が、一層近くなる。心の奥底に仕舞い込んだ記憶が引き摺り出されそうになって、慌てて声を振り絞った。
「センセったら! 驚くじゃ、ないっスか」
真夜中、電気が止まった部屋に独り取り残されるのなら構わないし、慣れている。明かりさえついていれば、通勤ラッシュの満員電車だってどうってことない。
――けれども、瞼を閉じたみたいな暗がりで、別な温度に触れられることだけは。
遠くで聞こえる自分の声が何を言ったのか、もう思い出せない。やっと事物の輪郭を浮かび上がらせ始めた目で、本当にすぐ傍にいる教師のシルエットを捉える。いつの間にか速く浅くなりかけていた呼吸を、息を止めて誤魔化した。
「……すまない。それと、気分が悪いなら、早退した方がいい」
純粋な心遣いを散りばめられた探る言葉。違う、こんなのは彼が知る、知られていい自分ではない。肺へ溜めた二酸化炭素を、音を殺して吐き出した。
「出口がわかるうちに――」
「大丈夫! 平気平気、びっくりしただけだし。心配し過ぎなンだよな」
確かめた陰の背中を叩くと、それ以上は小言も含めて追求がなかった。声をかけられたくなくて、並んでいた靴を離し、さらに奥へと早足で進む。一歩、また一歩と運ぶたび、段々と足元の光が弱く、小さくなっていくような気がしたが、もう引き返すには不自然な頃合になっている。
ついに自分たちの周りに光源がなくなったその時、手に携えた提灯に火を入れ、感情の読めない笑みですっと佇む狐塚が、ない道の先に現れた。




