第六十三話「摩天楼の迷宮と、忍び寄る旧悪の影」
第六十三話「摩天楼の迷宮と、忍び寄る旧悪の影」
1.欲望のダンジョン
台北101の低層階、高級ブティックが立ち並ぶエリアは、完全に異界の法則に支配されていた。
大理石の床はぬかるみのように足を取る感覚を与え、ショーウィンドウのガラスは合わせ鏡のように無限に続く回廊の幻影を映し出している。そして、最新のファッションに身を包んだ無機質なマネキンたちが、首を不気味に傾げながら二人を取り囲むように迫ってきていた。
「厄介だな……。人々の見栄や物欲といった念が凝り固まって、空間そのものをダンジョンのように歪めているのか」
佐藤蓮は、八極拳の構えで油断なく周囲を警戒しながら呟いた。彼には霊の姿は視えないが、肌を刺すような霊障の濃さと、空間の異常な歪みははっきりと感じ取れる。
「先輩、幻覚に惑わされないでください! マネキン自体には霊は憑いていません、ただのポルターガイストです。諸悪の根源である巨大な『念の塊』は、このフロアの中央、吹き抜けのアトリウムに陣取っています!」
李美鈴が、ケルト系魔術で視界を研ぎ澄ませながら叫んだ。彼女の足元では、分霊の黒いラブラドールレトリバー『シャドウ』が、迫り来るマネキンの群れに向かって激しく吠え立て、その進行を牽制している。
「よし、強行突破するぞ、後輩さん! シャドウ、道を開けろ!」
蓮の号令と共に、シャドウが黒い弾丸となって駆け出し、マネキンの群れを強行突破する。蓮と美鈴もその背中を追い、歪んだ空間を一直線に駆け抜けた。
2.摩天楼の祓清
吹き抜けのアトリウムに到達した二人が見上げた先には、ドロドロとした黒いタールのような巨大な霊障の塊が、シャンデリアに絡みつくようにして脈打っていた。
「あれが核か。これだけ巨大な念の集合体を放置すれば、ビル全体が異界に呑み込まれかねないな」
蓮は走りながら懐から十数枚の黄色い符を鷲掴みにし、頭上の巨大な塊を包み込むように円を描いて投げ放った。
「道法無辺、急々如律令!」
展開された結界が、黒い塊をドーム状に閉じ込める。行き場を失った霊障が内部で激しく暴れ回り、結界の表面がミシミシと軋んだ。
「シャドウ、押さえ込んで!」
美鈴の叫びに応え、シャドウが結界の真上へと跳躍し、その巨大な影の力で結界ごと対象の動きを上から押さえつける。
「よくやった、後輩さん。……これで終わりだ」
蓮は黒い布から『帰真剣』を引き抜いた。
ターゲットは巨大だが、美鈴の目線とシャドウが抑え込んでいる重心から、蓮は「断ち切るべき中心点」を完璧に把握していた。
蓮は八極拳の鋭い踏み込みと共に床を蹴り、宙を舞う。
「帰真――本来の姿へ還れ」
真言と共に振り抜かれた剣閃が、結界ごと巨大な念の塊を一刀両断した。
断末魔のような低い風切り音が響いた直後、塊は弾けるように霧散し、光の粒子となって消えていく。同時に、合わせ鏡の無限回廊や動くマネキンといった異常な空間の歪みも、パリンとガラスが割れるような音を立てて崩れ去り、本来の静寂な高級ブティックのフロアが姿を現した。
3.残された違和感
「ふぅ……。終わったな」
蓮が着地し、帰真剣を静かに鞘に収める。
「お見事です、先輩! シャドウもお疲れ様!」
美鈴が駆け寄り、無事に着地したシャドウを思い切り抱きしめた。
異常な冷気は完全に消え去り、遠くから警備員や警察官たちがフロアの確認に駆けつけてくる足音が聞こえ始めていた。
「これだけの霊障だ、市役所の林さんへの報告書も分厚くなりそうだな。さて、引き上げるか、後輩さん」
蓮が肩の力を抜いた、その時だった。
「ヴゥゥゥ……」
美鈴の腕の中にいたシャドウが突然、アトリウムの床の隅を見つめ、毛を逆立てて低く唸り声を上げたのだ。
「シャドウ? どうしたの……あっ」
シャドウの視線を追った美鈴の顔から、スッと血の気が引いた。
「……先輩、これを見てください」
4.忍び寄る旧悪の影
美鈴が指差した大理石の床には、黒い煤のようなもので描かれた、奇妙な幾何学模様の陣が焼き付いていた。
「これは……」
蓮は顔をしかめ、その陣の跡を指先でなぞった。霊感のない彼でも、そこから発せられる人工的で、ねっとりとした悪意を感じ取ることができた。
「旧日本帝国陸軍のオカルト研究資料を元にした、独自の呪詛陣……。間違いないわ、このおぞましい術式の構成は、あの男のものです」
美鈴の声が微かに震えていた。
「……張志豪、そして姉の張麗華。……『枢栄会』か」
蓮の口から、忌々しい組織の名が漏れた。
かつて、霊障を意図的に引き起こして金儲けを企み、旧日本軍の思想に傾倒して「霊界の門」を探し求めていた誇大妄想の天才呪詛師と、その拝金主義の姉。
蓮と美鈴は過去の激闘の末に彼らの野望を打ち砕き、警察へと引き渡したはずだった。しかし、彼らは護送中に巧妙な手口で脱走し、そのまま海外へと逃亡し行方をくらませていたのだ。
「自然発生した霊障じゃなかったんだ。奴らが秘密裏に台湾へ帰国し、この台北101の欲望の念を利用して、わざと霊の塊を育てていたんだわ……」
美鈴が青ざめた顔で周囲を見渡す。もちろん、既に彼らの気配はない。ただ痕跡だけを残し、嘲笑うように消え去った後だ。
「……どうやら、春節の休暇気分はここまでらしいな」
蓮は立ち上がり、帰真剣の柄を固く握り直した。
「ええ。もし奴らが戻ってきているなら、また必ずどこかで仕掛けてきます」
美鈴も翠色の瞳に強い意志を宿し、頷いた。
華やかな摩天楼の影で、再び動き出した因縁の敵。
双霊相談事務所の二人は、迫り来る新たな戦いの予感を胸に、静寂を取り戻した台北101を後にするのだった。
第六十三話「摩天楼の迷宮と、忍び寄る旧悪の影」
副題「枢栄会再び」完




