第二十話:大稲呈、残り香の茶店
台湾祓清愛哀歌:第二十話「大稲埕、残り香の茶店」
1.消えない香り
台北の午後は、湿り気を帯びた熱気が路地裏に溜まっていました。
大同区の双霊相談事務所では、美鈴がiMacのキーボードを叩きながら、ふと鼻をひくつかせました。
「……? 先輩、どこかでお茶、淹れました?」
「いや、俺は八極拳の型を終えて、今ちょうど水を飲んだところだ」
蓮がタオルで汗を拭いながら答えます。
「おかしいですね。さっきから、すごく芳醇な烏龍茶の香りがするんです。それも、ただのお茶じゃない。喉の奥が震えるような、とても深い香り……」
二人が不思議に思っていると、電話が鳴りました。市役所の林担当員からです。
「佐藤さん、李さん? 実は、大稲埕の古い茶行(お茶問屋)の跡地で、ちょっと困ったことが起きていて。実害はないんですが、近隣住民が『香りに酔う』と言って倒れているんです」
2.時を止めた問屋
二人は黒のカローラ・アルティスを走らせ、歴史情緒あふれる大稲埕の問屋街へと向かいました。
目的地は、かつて隆盛を極めたが、数年前に店主が亡くなって閉鎖された老舗の茶問屋でした。
「うわ……。これは、視るまでもないですね」
美鈴が車を降りた瞬間、目を見開きました。蓮には何も視えませんが、周囲には黄金色に輝く微細な粒子のようなものが霧となって漂い、そこにはむせ返るほどの濃厚な茶の香りが満ちていました。
「先輩、視てください。お店の入り口に、一人の老紳士が座っています。とても丁寧に、何度も何度もお茶を淹れる所作を繰り返しているわ」
美鈴の視線の先には、透き通った姿の老人が、実体のない茶器を慈しむように扱っていました。
老人の背後からは、美鈴にしか視えない黄金の霧――「霊的芳香」が溢れ出し、それが周囲の人々の精神を弛緩させ、一種のトランス状態に陥らせていたのです。
「霊障というよりは、あまりに強すぎる『職人の執念』が、香りに化けて留まっているんだな」
蓮は帰真剣の柄に手をかけ、静かに精神を統一しました。
3.最後の一煎
「先輩、待ってください! 彼は怒っていません。ただ、納得がいっていないみたい……」
美鈴がシャドウを呼び出しました。黒いラブラドールレトリバーは、老人の足元まで静かに歩み寄ると、尻尾を振ってその手に鼻先を寄せました。
老人の幽霊は、シャドウの存在に気づくと、ふっと寂しげに微笑みました。その口が、音のない言葉を紡ぎます。
「……『最後の一煎を、誰かに飲んでほしかった』。そう言っています」
蓮は剣を抜きませんでした。代わりに、事務所から持参していた茶器と、最高級の茶葉を美鈴に渡しました。
「後輩さん、君が彼の作法をトレースしてくれ。俺がその『香り』を、霊界への道しるべに変える」
美鈴は老人の動きを鏡のように追いながら、真剣な面持ちでお茶を淹れました。蓮はその傍らで符を掲げ、優しく浄化の真言を唱えます。
「道法無辺、帰真の理をもって。その執念、香りと共に空へ還らん」
美鈴が淹れた最後の一煎から、ひときわ眩い黄金の蒸気が立ち上がりました。老人の幽霊は、満足そうにその香りを深く吸い込み、美鈴と蓮に深く一礼しました。
次の瞬間、立ち込めていた濃厚な香りは、爽やかな初夏の風と共に消え去っていきました。
4.エピローグ:乾物街の昼下がり
「……ふぅ。まさか、お茶を淹れるのが祓清の儀式になるとは思わなかったな」
蓮がカローラのエンジンをかけると、美鈴は助手席で満足そうに自分たちの仕事の記録をノートパソコンに打ち込んでいました。
「いいじゃないですか、こういう平和な解決。林さんも、これで近所の人たちが安心して通れるって喜んでましたよ」
「そうだな。さて、お茶の香りで腹が減った。大稲埕に来たんだ、何か食べて帰るか」
二人は永楽市場の近くで車を止め、有名な**「民楽旗魚米粉」**の屋台に並びました。
カジキマグロの出汁が効いた熱々の米粉に、揚げたての紅焼肉(豚肉の揚げ物)。
「はふはふ……。やっぱり、現世の食べ物が一番美味しいですね、先輩!」
「さっきの老紳士も、向こう側で美味しいお茶を飲んでるといいんだがな」
夕暮れ時、オレンジ色に染まる古い街並みを背景に、二人のバディは日常の平穏を噛み締めながら、次の依頼が届くのを待つのでした。




