第一〇五話「天母ビールフェスティバルと望郷の杯」
第一〇五話「天母ビールフェスティバルと望郷の杯」
台北の夏は、夜になってもその熱気を容易には手放さない。 しかし、士林区に位置する閑静で異国情緒漂う街、天母の「天母運動公園」だけは、今夜ばかりは格別の爽快感に包まれていた。
「冷たいビールと美味しいお肉! 先輩、天母ビールフェスティバル、最高ですね!」
美鈴が両手に持ったプラカップを掲げ、満面の笑みで歓声を上げる。彼女の右手には台湾特産のマンゴーをふんだんに使ったフルーティーな黄金色のビール、左手には香ばしく焼かれたドイツ風の極太ソーセージが握られていた。
「ああ、後輩さんは本当に美味そうに飲み食いするな。……だが、少しペースが早いんじゃないか?」
蓮は呆れたように言いながらも、自身の持つIPAの苦味と柑橘系の香りをゆったりと楽しんでいた。足元では、シャドウがフードトラックで買った味付け無しのローストビーフの端切れを満足げに咀嚼している。
ここ天母は、古くから外国人が多く居住するエリアであり、西洋の文化と台湾の文化が入り交じる独特の雰囲気を持っている。その天母で夏に開催される「天母ビールフェスティバル(天母啤酒節)」は、世界各国のクラフトビールや多国籍なフードトラックが一堂に会し、ライブ音楽と共に盛大に盛り上がる一大イベントだ。
芝生広場に設置された無数のライトが、楽しげにグラスを交わす人々の笑顔を照らし出している。 しかし、その陽気な喧騒の片隅で、突如として「異変」が起きた。
「……ううっ、帰りたい……どうして俺は、こんな遠い所に……」 「嫌だ! 寒い、雪が降っている……ここはどこだ!?」
会場の北側、大きなガジュマルの木の下に集まっていた数組のグループが、突如として異常な悪酔い方をし始めたのだ。ある者は子供のように泣きじゃくり、ある者は見えない何かに怯えて虚空を掻き毟り、またある者は焦点の合わない目で母国語ではない未知の言語を呟き始めている。
「……ウゥゥ……」 シャドウが肉を食べるのをやめ、ガジュマルの木に向かって毛を逆立てた。 同時に、夏の夜のまとわりつくような熱気が、その一角だけ急速に冷え込んでいくのを蓮と美鈴は感じ取った。
「先輩、あれ……」 美鈴の翠色の瞳が、物理的な光を越えて「視えないもの」を捉える。 ガジュマルの木の周囲に、青白く透き通った人影がいくつも重なり合うようにして浮かび上がっていた。古い時代の軍服を着た者、くたびれた背広を着た外国人商人……時代も国籍もバラバラな彼らは皆、手の中の見えないグラスを見つめ、底知れぬ寂しさを漂わせていた。
「異国の霊たちの残留思念か」
蓮が即座に状況を悟り、飲みかけのビールを近くのテーブルに置く。 「天母は昔から異邦人が集まる街だ。故郷に帰れぬままこの地で亡くなった者たちが、フェスティバルの酒の匂いと陽気な熱気に誘われて引き寄せられたんだろう。だが、彼らの強すぎる『望郷の念』と『孤独』が、アルコールで防壁の緩んだ酔客たちに憑依し、霊障を引き起こしている」
「このままだと、会場中がパニックになっちゃいます!」
美鈴がソーセージを咥えたまま(慌てて飲み込んで)、指先からケルト魔術の緑色の光を灯した。
「空間を分断し、被害の拡大を防ぐ!」
蓮が懐から四枚の青い護符を取り出し、手首のスナップを効かせてガジュマルの木の四方へ正確に投げ放った。
「天網恢恢、邪気を封じよ。急々如律令!」
バチィッ! と空間が微かに鳴り、見えない結界が展開される。霊障の冷気は結界の内側に閉じ込められ、周囲の客たちは何事もなかったかのように再び音楽とビールに夢中になった。しかし、結界の内側で憑依された者たちは、未だに幻覚の中で苦しんでいる。
美鈴は結界の中に踏み込むと、胸の前に両手をかざした。 彼女の指先から溢れ出した緑色の魔力が、柔らかな風となってガジュマルの木の下を吹き抜ける。それは、生命の息吹と安らぎをもたらすケルトの浄化の光。
「あなたたちが遠い異国で感じた寂しさは、とても冷たくて、辛かったですよね。でも、ここはもう、誰もが笑ってグラスを交わせる場所になりました」
美鈴の言葉は、言語の壁を越えて霊たちの心に直接響いていく。 緑色の光の粒子が霊たちを包み込むと、彼らの目に映っていた
「孤独な異郷の風景」が、一瞬だけ「懐かしい故郷の麦畑」や「暖炉のある家」の幻影へと変わった。
「……Ah, sweet home……」
一人の霊が、満足そうに幻のグラスを傾け、静かに目を閉じた。 彼らの心にあった張り詰めた未練が、美鈴の魔術によって温かく解きほぐされていく。憑依されていた酔客たちの顔からも、すっと苦悶の表情が消え去り、その場に安らかに眠り込んだ。
「仕上げだ」 蓮が静かに歩み寄り、背に負った帰真剣の柄を握る。
「帰真――本来の姿へ還れ」
澄み切った鈴の音のような剣鳴と共に、清浄な波紋が結界内に広がった。 望郷の念から解放された異国の霊たちは、最後に蓮と美鈴に向かって小さくグラスを掲げるような仕草を見せると、夏の夜空に溶けるようにして天へと昇っていった。
「祓清完了だ」
蓮が剣を鞘に収めると、結界が解け、再びフェスティバルの賑やかなラテン音楽と、人々の笑い声が風に乗って流れてきた。眠り込んでいた酔客たちも、
「あれ、飲みすぎたかな……」と頭を掻きながら起き上がり始めている。
「ふう、お疲れ様でした先輩! 異国で飲むお酒は美味しいですけど、やっぱり寂しい時は誰かと一緒に飲むのが一番ですね」
美鈴がホッと息をつき、テーブルに置いてあった自分のマンゴービールを手に取った。
「そうだな。お前のように騒がしい後輩がいれば、退屈はしないがな」
蓮が僅かに口角を上げ、自分のIPAのグラスを持ち上げる。
「さあ、お酒の泡が消えないうちに、もう一度乾杯しましょう! 次はあのフードトラックの巨大ケバブが食べたいです!」
「まだ食うのか……まあいい、今夜は特別だ。付き合ってやる」
色鮮やかなライトアップの下、二人のグラスがカチンと小気味良い音を立てて合わさる。 異国の霊たちが見た哀しい幻はすでに消え去り、天母の夜は再び、今を生きる人々の熱気と、冷たく弾けるビールの泡の音に包まれていった。




