第一話「残された音色」
台湾祓清愛哀歌
2000年代初頭、熱気を帯びた台北の喧騒の裏側には、科学では割り切れない「影」が定着していました。かつて旧日本軍が遺した「門」の影響で、幽霊が日常の風景となった世界。
これは、視えないものと向き合い、魂をあるべき場所へ還す二人の物語です。
台湾祓清愛哀歌:第一話「残された音色」
1.双霊相談事務所の日常
台北市大同区。古いレンガ造りの建物が並ぶ一角に、「双霊相談事務所」の看板はありました。
早朝の事務所には、湿り気を帯びた風と共に、規則正しい「音」が響いています。
「フッ、ハッ!」
佐藤蓮は、事務所の中央で八極拳の套路(型)を繰り出していました。踏み込みの衝撃が床を鳴らし、鋭い突きが空気を切り裂きます。道教の術者として、強靭な肉体と精神を保つことは、彼にとって不可欠な日課でした。
「先輩、また床が抜けますよ。大家さんに怒られても知りませんからね」
机の上のiMacから顔を上げたのは、李美鈴です。彼女は手慣れた様子で、自作のホームページに届いた未読メールをチェックしていました。
「悪いな、後輩さん。こればかりは身体に叩き込んでおかないと、いざという時に剣が振れないからな」
蓮はタオルで汗を拭い、傍らに置かれた中国風の直剣――帰真剣に視線を落としました。
「あ、市役所の林さんから依頼です。万華区の古いアパートで『不気味なピアノの音』が止まらないとか。住民に精神耗弱の兆候が出ているそうです。……霊障ですね」
「万華か。よし、行こう。準備をしてくれ」
2.万華の古い影
黒いトヨタ・カローラ・アルティスが、下町の入り組んだ路地を抜けていきます。運転席の蓮は、助手席でノートパソコンを叩く美鈴に尋ねました。
「現場の詳細は?」
「築40年のアパートです。最近、空室の302号室から夜な夜なピアノの音が聞こえるそうで。幽霊の姿は目撃されていませんが、近隣住民がひどい悪夢と倦怠感に襲われています。典型的な低級霊の仕業か、あるいは……」
現場に到着すると、そこには重苦しい空気が停滞していました。
蓮には何も視えません。彼には「霊感(見鬼)」がほとんどないからです。しかし、隣に立つ美鈴の表情が険しくなるのを見て、状況を察しました。
「……いるわ。かなり悲しみが強い」
美鈴が短く唱えると、彼女の影から黒い塊が這い出しました。分霊の式神、黒いラブラドールレトリバーのシャドウです。シャドウは小さく吠えると、302号室のドアの前で足を止めました。
3.祓清:結界と送魂
部屋の中は、かつての生活の残骸が散らばっていました。中央には古びたアップライトピアノ。
「先輩、左の隅! シャドウが追い詰めました!」
美鈴の声に、蓮は即座に反応します。彼は懐から数枚の符を取り出し、部屋の四隅に投げ放ちました。
「道法無辺、急々如律令!」
蓮の術によって透明な壁――結界が張り巡らされ、幽霊の逃げ場を塞ぎます。
美鈴の目には、ピアノの前に座り、鍵盤を叩き続ける少女の姿が映っていました。少女の周囲からは、人々の精神を蝕むどす黒い霧(霊障)が溢れ出しています。
「先輩、送魂を! 彼女、自分の名前を忘れて迷子になってる!」
「了解だ。……道に迷ったなら、帰るべき場所へ導いてやるのが俺たちの仕事だ」
蓮は帰真剣を引き抜き、流麗な動作で剣先を宙に躍らせました。彼の剣は幽霊を斬るためのものではなく、霊界への道を切り拓くための「杖」となります。
蓮は少女の姿を視ることはできませんが、美鈴が指し示す方向、そしてシャドウの唸り声で位置を特定します。
「帰真――本来の姿へ還れ」
剣を鞘に収めると同時に、蓮が力強く浄化の真言を唱えました。
部屋を満たしていた冷気が一気に和らぎ、美鈴の目には少女がふっと微笑んで消えていくのが見えました。ピアノの音は止まり、窓から差し込む日光が埃を白く照らしました。
4.エピローグ:夜市に咲く笑顔
「ふぅ……。今回も助かったよ、後輩さん。君の目がないと、俺は空振りを繰り返すだけだからな」
「何言ってるんですか、先輩。私の貧弱な魔術じゃ、あのクラスの霊は送り返せません。お互い様ですよ」
事務所への帰り道、二人は龍山寺近くの屋台街に立ち寄りました。
蒸気と共に漂ってくる八角や醤油の香りが、戦いを終えた心身を解きほぐしていきます。
「今日は奮発して、魯肉飯と蚵仔煎を食べて帰りましょう。林さんからの報酬、期待できそうですし!」
「はは、現金だな。だが賛成だ。シャドウにも何か旨いものを買ってやらないとな」
美鈴は「シャドウは私の霊魂の一部なんだから、私が食べれば満足なんです!」と笑いながら、熱々の牡蠣オムレツを口に運びました。
二人のバディとしての夜は、まだ始まったばかりです。
幽霊が隣り合わせのこの街で、彼らは明日もまた、誰かの哀しみを「祓清」していくのでしょう。




